第一章 07 白菊会
白菊会の事務局は、十七時までだ。真帆は、病棟内を急ぎ足で移動した。
真帆が名前を告げると、白髪交じりの女性職員が、「お聞きしております」と手際よくファイルを開けた。
白菊会には、事前連絡をしていない。真帆が訪ねた者の中に、話を通した人物がいたと考えられる。それが誰なのかを、問い出したかったが、愚問だ。女性職員の口調に合わせて、真帆は成り行きを見守った。
提示された書類には、湖香の筆跡で、「メメント・モリ『死を覚えよ』」と記されていた。
湖香が育った家庭は、祖父母の代からクリスチャン一家だった。そのため、湖香は赤ん坊の時に洗礼を受けていた。
本人の意思ではないので、湖香は、敬虔なクリスチャンではなかった。だが、宗教用語をよく知っていた。
女子大時代、《キリスト教概論》は必修科目であった。理解に苦しむ真帆に、湖香がよく解説してくれた。
「メメント・モリ(memento mori)」は、レポートの課題になったので、真帆も記憶している。ラテン語で直訳すると「死を覚えよ」を意味する。
遅かれ早かれ、人は必ず死に直面する。だが、若い頃や健康に恵まれている時期は、いつか死する事実を忘れている。
「いつ如何なる時も、死を忘れてはならない」
この教訓を忘れないために、ヨーロッパでは
――湖香は、自身の教訓のために献体登録したのかな?
と、真帆は思った。
職員の話によると、湖香は昨年十一月に、献体登録していた。ソコロフの工場内で、二人目の死者が出た時期と重なる。
やはり真帆には、湖香が死を予感していたように思えた。
真帆が礼を述べて、事務局を去ろうとした時だった。女性職員が、真帆を労うように話し掛けて来た。
「すぐの解剖となったので、一安心ですね」
内心の驚きが顔に出ないよう、真帆は女性職員に笑みを返した。
献体に登録しても、大学の実習スケジュールで、死の数日後に解剖されるケースは稀だ。誰かが、裏で手を回している。
真帆は、湖香の幼馴染の刑事、穴瀬俊子の顔が思い浮かんだ。
だが、病理解剖なのか? 法医解剖なのか? 疑問が残る。
穴瀬が動いていたら、法医解剖の可能性が高い。すなわち、湖香の死に、犯罪性があると考えられる。
医師の指示なら、病死した人の状態や変化を調べるため、病理解剖となる。
真帆は、女性職員の様子を伺う。知ったか振りをして、質問した。
「急ぐ必要が、ありましたからね。いつになったのでしょうね?」
女性職員は、真帆を疑う様子もなく、首を傾げている。
「時間までは、知らされていません。病理部なら、分かるかもしれませんね」
真帆は内心、「しめた!」と喜んだ。湖香の解剖は、病理解剖だ。犯罪性は、ないようだ。
女性職員の口調から察すると、湖香の解剖は、今日か明日だ。
詳細結果の分析は、臨床検査技師の笹川に委ねられるだろう。
――笹川先生に連絡してみよう。
真帆は、丁重に礼を述べると、事務局を後にした。
廊下を歩いていると、真帆は、軽い眩暈に襲われた。血糖値が下がってきている。低血糖は、空腹時になりやすい。
近くの談話室に入ると、真帆は持ち歩き用のミックス・ナッツを取り出した。無塩の素焼きナッツなら、糖質が低いため、インスリン注射を打たずに済む。五粒ほど、袋から取り出した。
――メメント・モリ「死を覚えよ」
真帆は、ナッツを咀嚼しながら、湖香が遺したメッセージを思い返した。真帆自身も、血糖値を調整しなければ、死に直結する身体だ。言葉の意味が、重く伸し掛かった。
湖香の死は、今のところ犯罪性は、ない。だが、真帆には、湖香が犯人に遺したメッセージのように思えた。
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