第一章 06 救命医の話し

 真帆は、自身の研究室に戻ると、嶋元の予定を確認した。十六時なら医務室にいるようだ。


 救命医の嶋元 壮志郎そうしろうは、五十八歳になる。芦岡医大の救命救急センターの責任者だ。命に別条のない患者は、若手医師に任せている。だが、臨終の近い患者は、嶋元が診ていた。


 真帆は、学生課に提出する資料をエコ・バッグに入れると、研究室を後にした。


 芦岡医大の病棟に足を踏み入れるのは、久しぶりだった。以前は、管理栄養士として、病院食の管理に携わっていた。駆け出しのころは、三交代制で夜勤も経験した。


 懐かしさもあった。だが、自身も入院した施設なので、物悲しい記憶が嫌でも蘇り、足が遠のいていた。


 死産を経験した半年後、母校である神戸青松女学院大学から、教授のポストを用意するから、戻らないか? と誘いを受けた事実もある。だが、熟考した結果、母校の女子大は、犯罪栄養論の研究施設としては不十分だ、と真帆は判断し、今に至っている。


 母校への思いから、週に一度だけ、真帆は授業を受け持った。栄養学科の必修科目『臨床栄養学』と選択科目『犯罪栄養論』だ。母校での授業は、何故か守られたような気分になる。


――明日は、今年度、最後の授業だなぁ。


 毎週火曜日が、母校への出勤日だ。だが、後期試験が終わると、二月から三月末まで、長い春休みが始まる。


 湖香や黒岩沙羅と過ごした、女子大時代。三十代前半で、真帆は二人の親友を亡くした。


 物思いに耽りながら、真帆は芦岡医大の広大な敷地内を歩いた。


 芦岡医大の病棟に入ると、真帆は空気の違いを感じた。


 研究棟は、学生用の施設が中心なので、幾分のんびりとしている。特に真帆がいる研究棟は、かなり平和だ。


 もうすぐ十六時になるが、病棟の一階は、まだ会計待ちの患者や付き添いの人たちで混み合っていた。真帆は、病棟の奥に位置する医務室へ向かった。


 医務室に入ると、近くに座る医師に声を掛け、嶋元の名を告げた。


 数分後、紙コップを持った嶋元が、姿を現した。


 学生時代にラグビーでもしていたのか、長身でガタイが良い。


 事前に連絡を入れたので、ブースで仕切られた打合せスペースに通された。


 真帆は、突然の訪問を詫びると、本題を切り出した。


「金曜日の晩に急逝した上浦湖香さんは、大学時代の友人でした。搬送時の様子や、発見された時の様子を、お訊きしたいのです」


 嶋元は、腕を組み、真帆を睨むフリをして微笑んだ。


「個人的に聞きたいんだね? 本来なら断るけど、貴女は我が校の研究者でもあるからね。岩園准教授に、学内の情報提供としてお話しましょう」


 常日頃から、嶋元は緊迫した患者を相手にしている。そのためか、真帆の緊張を解くかのように、ユニークな口調で語り始めた。だが、真剣な眼差しだった。


 先週の金曜日、十九時三十六分、ソコロフの工場から、一一九番通報があった。


 十九時五十八分に、湖香を乗せたストレッチャーが救命救急センターに到着した。意識がないため、嶋元が対応していた。


 すぐに、研修医が血糖値測定用の血液を採取したが、間もなく息を引き取った。


 MRIのスキャン画像から、死因は蜘蛛膜下出血が疑わしいと、嶋元は判断した。スキャン画像を脳神経外科医に確認させ、正式に蜘蛛膜下出血と診断した。


 嶋元が声を落として、淡々と語る。話が進むに連れ、最初に見せた笑顔は消えていき、沈痛な面持ちに変わっていた。


 真帆は、涙が零れないよう、表情を引き締めて言った。


「発見されたのは、工場内ですよね?」


 嶋元が頷くと、口を開いた。


「救急車に同乗した同僚の女性によると、女子更衣室の近くで倒れていたそうだ。倒れた時の勢いか、右肘に打撲痕があったね。頭は、右肘に突っ伏した状態だったとのこと。確かに、頭を床にぶつけた形跡は、なかったね」


 真帆は、救急車に同乗した女性が気に懸かり、質問した。


「第一発見者は、ソコロフの社員の方ですよね?」


 嶋元が静かに首肯すると、続けた。


「同乗してきた女性が、発見者だったね。久保さんだったかな? 白衣を羽織っていたから、ソコロフの研究者だと思うけど。この方も、岩園さんのお知り合いかな?」


 真帆は、首を傾げて言う。


「同僚の名前までは、聞いていません。きっと開発チームのお一人でしょうね。お話の内容から、親しそうな同僚でしたか?」


 嶋元が首を捻りながら言う。


「動揺していたからねぇ。最初は『先輩が』と口を滑らせた後、『上浦が』と言い直していたよ。上浦さんの後輩かもしれないね」


 葬儀の時に見た、切ない目をした女性が、真帆の脳裏に浮かんだ。


 嶋元の目を見詰めると、真帆は質問を続けた。


「上浦さんが献体に登録していた事実を、ご存じでしたか?」


 嶋元は、残念そうに首を横に振る。


「息を引き取られた後、内科の受診歴があった事実は確認したけど。献体登録の有無までは、データに上がってこないからね」


「そうですよね……。後ほど、白菊会の事務局に寄ってみます」


 と言うと、真帆は「そうだ!」と、質問を重ねた。


「過去に、蜘蛛膜下出血で急逝し、解剖後、医療ミスが判ったという例は、ありましたか?」


 嶋元が、おどけた様子で肩を竦めて言った。


「穏やかではないね。まるで、うちの内科の診断に、見落としがあったような言い方だね。まぁ、確かに、解剖しないと判明しない事実があるよね。だけど、献体登録だと、最長で二年ぐらい待つケースもあるから、随分先になるよ」


 真帆は、紙コップの水を一口飲むと、言った。


「嶋元先生のご担当外かもしれませんが。ソコロフでは、直近四ヶ月で、他に二名の方が、工場内で亡くなっていますよね」


 思い当たるフシがあるのか、嶋元が手を頬に当てて、口を開く。


「研究者さんへの情報提供として話すけどね」と、前置きをすると、嶋元が詳細を話し出した。


「四ヶ月前の患者は、五十代後半の男性だったね。メタボと糖尿病の合併症で発作が起きて死去。二ヶ月前は、二十代前半の女性だった。原因は、栄養失調による重篤な貧血だ。概要だけで、許してもらえるかな?」


 真帆は笑みを浮かべて、頷いた。


「十分です。お二人とも、倒れる前の血糖値が、五十以下では?」


 嶋元は、腕を組みながら神妙な面持ちになる。


「男性のほうは、合併症の危険があったから血糖値測定は、できなかった。女性のほうも、救急車の中で『頭が痛い、割れる』と呟いていたそうだから、血糖値測定はしていないね」


 救急搬送時に、患者の血糖値測定が義務付けられている。だが、合併症や頭痛が伴う場合は、測定しない規則だ。


 二人の血糖値が判らないのなら、血液はどうか? 真帆は身を乗り出すと、嶋元への質問を続けた。


「死後の血液データは、残っているのでしょうか?」


 嶋元は、嫌な顔ひとつせずに口を開いた。


「一般の大病院の急患では、いちいち血液データを取らない。でもここは大学機関だからねぇ。研究材料として、採血サンプルはいただいているよ。院内の血液保管庫にあるんじゃないかな」


 真帆は内心「しめた!」と、思うと、立ち上がった。


「どうしても調べたい場合は、正規のルートで申請しますね」

 と言うと、真帆は、嶋元に敬礼した。


 嶋元の表情に、笑顔が戻っていた。


 廊下を歩きながら、真帆は嶋元の話を反芻する。葬儀の時に見た謎の女性の苗字は、久保なのか?


 哀しい予感に、襲われる。前夫、岸田が思いを寄せていたと考えられる女性でもある。


 真帆は、まだ言葉を交わしていない謎の女性の正体を、早く知りたいと思った。

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