第一章 05 臨床検査技師

 午後になると、真帆は、学生の後期試験問題を纏めていた。作業中も、次の予定が気になり、時計ばかり見ていた。


 十四時になると、真帆は、笹川翔の研究室を訪ねた。


 笹川は、臨床検査技師だ。長身の瘦せ型で、眼光が鋭く、いつも屈託のない笑みを浮かべている。真帆は内心、《和製シャーロック・ホームズ》と渾名(あだな)していた。


 近くの丸椅子に腰掛けると、真帆は笹川の様子を観察した。


 最近、一九八〇年代のドラマが再放送されていた。吸血鬼を思わせる端正な顔立ちの俳優がホームズ役で、笹川と重なった。


 笹川は血液の研究者でもある。そのため、研究室には試験管や測定機が鎮座している。研究室の中までが、ホームズを彷彿とさせた。


 笹川が真帆の向かいに座ると、真帆は本題を切り出した。


「先週の金曜日の晩、救急搬送された上浦湖香さんについて、伺いたいのです」


 笹川の鋭い眼光が、真帆の目に注がれる。


「手遅れで、息を引き取った人だね? 知り合いかな?」


「女子大時代からの友人で、金曜日の晩、夕食の約束をしていたのです。頭痛がひどいと連絡があって、リスケしたのですが」


「ふーん。頭痛に気付いた時点で、会社を早退して、病院に行けば良かったのに。そうしたら、助かっていたかもね」


 笹川にとっての湖香は、数ある患者の一例に過ぎないのだろう。


 笹川の無神経さが気に障ったが、質問を続けた。


「上浦さんが搬送されたときは、息があったのですよね? 確か、救急搬送の際、患者の血糖値測定が、法律で義務付けられたと思いますが」


「着後、すぐに測定したと思うよ。血清サンプルが回ってきたから」

 と、愉快そうな表情で笹川が答える。


「結果は、どうでしたか?」真帆は、予想内の回答に心が躍った。


 やや面倒そうな表情で、笹川が試験管を振りながら言う。


「施す間もなく、息を引き取ったと聞いたから、何もしてないよ。救急から、指示もなかったし。調べて欲しいの?」


 真帆は、間髪を入れずに言った。


「もう一つ、気懸かりな事実があるのです。ソコロフでは、過去四ヶ月間で、上浦さんの他に二名の方が亡くなっています。芦岡医大は、ソコロフの健康診断を実施していますよね?」


 笹川がニヤリとした笑みを浮かべる。


「ソコロフさん、何か匂うよねぇ。君よりも前に、上からもソコロフの健診結果を提出するよう、要請があったんだよ」


 真帆は、湖香の幼馴染の刑事、穴瀬俊子の顔が思い浮かんだ。


 警察からの要請なら、笹川は口を割らないだろう。


 真帆は、瞬時に頭を整理して、口を開いた。


「研究課題として、上浦さんの最期の血液を分析していただけませんか?」


「君の研究は、犯罪と栄養学だったね。蜘蛛膜下出血に鞍替えしたのかな?」と笹川が、眉を大きく動かしながら答える。


 真帆は、顔をしかめて言った。


「私の研究の根底にあるものは、低血糖症です。上浦さんは、職業柄、頻繁にチョコレートを試食していました。そのため、低血糖による頭痛の末路が、蜘蛛膜下出血だと考えているのです」


「なるほどね。ところで、君のお友達は、心を病んでなかった?」


 真帆は、首を傾げて逡巡する。湖香の仕草を、思い出した。


「年末に上浦さんと会ったとき、手の震えが気になりましたね。挙動不審の傾向もある、と感じました」


「友人が気付いても、本人次第だからねぇ」と発しながら、笹川が人差し指と親指を顎に当てる。


「死因を蜘蛛膜下出血と診断したのは、救急の先生ですよね?」

 と真帆は、質問を続ける。


「先週の金曜は、嶋元先生がいたと思うよ」


「後ほど、アポを取ってみますわ。それから」


 言葉を切ると、真帆は笹川の顔を食い入るように見詰めた。


「上浦さんは、献体に登録していました。解剖が終わったら、笹川先生の元へ、検体検査依頼が来ますよね?」


 笹川が、誇らしげな笑みを浮かべながら言う。


「私の専門は、基本的には、生きた人間の検体検査だ。死者の場合は、事件性のある解剖や遺書による本人の解剖依頼があったときのみ。一般の献体だと、解剖実習の後で火葬されると思うよ」


 首を傾げながら、真帆は続ける。


「三十三歳の若さで、献体に登録するのは、死を予感していたと思うのです。低血糖が続くと、確かに心を病みやすいですよね。低血糖症の特徴に自殺願望や、死への恐怖心がありますから」


 真帆の熱意に、笹川は白けている。だが真帆は、気にせず続けた。


「血液検査で、毒性物質があれば、ご教示いただけますか?」


「君は、他殺を疑っているの?」と笹川が、首を傾げる。


 真帆は、首を横に振りながら答えた。


「上浦さんは、ソコロフで糖質制限のチョコレートを開発していました。糖質と製造コストを押さえるために、砂糖の代替調味料や食品添加物が多用されていると思います。微量なら表示義務のない添加物も、ありますからね」


 先ほどの白けた様子から一変、笹川の表情が引き締まった。


「開発現場の試食は日課だし、量も半端ないから、調べてみる価値は、ありそうだね」と笹川は、乗り気の様子だ。


 真帆の本心は、親友の死因を突き詰めることだ。だが、笹川を動かすには、研究の一環として持ち掛けるしかない。真帆の推察通り、笹川の心が動いたようだ。


 笹川が、ホームズ役の俳優を思わせる笑みを零して、言った。


「単なる噂だけどね。ソコロフの上層部は、デパートで展開している贈答品用チョコレートしか食べないらしいよ」


 午前中に訪問した岡倉は、ソコロフでの監修チョコレートの詳細は聞かされていないと話していた。笹川が聞いた噂話は、事実だと思える。


 人差し指を立てながら、笹川が続ける。


「白菊会の事務局に行けば、君のお友達の献体登録時のメッセージが、残っているかもね」


 真帆は合点が行き、大きく頷いた。


「早速、白菊会の事務局と嶋元先生を訪ねてみます!」


 礼を述べると、真帆は笹川の研究室を後にした。


 笹川の毒舌ぶりは、相変わらずであった。だが、いつも笹川は、真帆の窮地を救い、ヒントを与えてくれた。

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