第一章 04 謎の女性
研究室に戻ると、真帆は、冷蔵庫から数種類の野菜と鮭の切り身を取り出した。
個室の研究室には、給湯室がある。小型冷蔵庫の上に、電子レンジが完備されていた。
折り畳み式の
電子レンジが動いている間、真帆は、インスリン注射を右の脇腹に打った。
大学の食堂や、コンビニ弁当は、味付けに砂糖が使われている。そのため、個室の研究室に移ってからは、昼食を自炊するようになった。
迂闊に、米飯やパンを食べると、血糖値が上がりすぎる傾向がある。真帆は、一食の炭水化物の摂取量を、八十㌘としていた。
Ⅰ型糖尿病が判明してから、菓子類を断った。酒は、元から飲めない質だ。
生活習慣が災いしてⅠ型糖尿病になった訳ではない。だが、食事に関しては、慎重になりすぎていた。
真帆は食事をしながら、湖香の葬式の光景を思い返した。帰り際に目が合った、佳乃の助手と思われる女性が、脳裏に浮かんだ。
小さなおにぎりを見て、ハッとする。
まだ、前夫の岸田と暮らしていたころだ。
岸田は、実家の小児科医院を継いでいた。岸田の両親が、芦屋の別宅へ引っ越したため、小児科医院が、夫婦の新居となった。住居も兼ねた小さな医院で、ほとんどの患者が近所の者だ。
真帆は、当時から八十㌘の小さなおにぎりを作っていた。
ある夜、岸田が、「そんな小さなおにぎりで、腹の足しになるの?」と、冗談めかして話していた。その時だった。
診察室側の出入口から、インターホンの音が聞こえた。
顔色を変えた岸田が、急いで出入口を開けると、二歳ぐらいの男児を抱えた、若い女性が立っていた。放心状態だった。
当時の真帆は、死産を経験したばかりで、乳幼児を見るのが辛かった。そのため、内容は、記憶していない。
小児科医院の二階には、夫婦の寝室があった。
数ヶ月後、岸田が、窓から見える、近くの公園を見下ろしていた。
真帆も、そっと窓の外を見ると、あの時の女性が、息子とブランコで遊んでいた。
岸田は、真帆が初めて見る、穏やかな優しい笑みを浮かべていた。
その時、真帆は何故か、哀しい予感に襲われた。二人の間には、何もないだろう。だが、岸田の純粋さを、理解した気がしたのだ。翌年、真帆は、離婚を決意した。
「佳乃先生の助手は、あの時の女性だ!」と真帆は、直感する。
あの女性は、西宮から、龍姫大学に通勤しているのだろうか?
龍姫大学の所在地は、姫路だ。兵庫県内だが、毎日の通勤となると、遠距離だ。
だが、助手が湖香の葬儀に出席する道理はない。湖香と佳乃の共通の知人だ、とも考えられる。
今週末に、大学院時代の集まりがある。岸田も顔を出すだろう。――湖香の死に触れ、謎の女性の正体も訊いてみよう。
岸田と湖香は、面識があった。自然な会話の切り出しができると、真帆は確信した。
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