第一章 03 奇跡の五十代

 芦岡医大へ出勤した真帆は、自身の研究室に入った。研究職としてのキャリアは、五年目になる。昨年の四月から准教授に昇格したため、個室を宛てがわれた。


 大学での研究職員は、学生の授業を受け持つ決まりだ。


 真帆は、パソコン画面で、一日のタスク表を確認する。今日の受け持ち授業は、一限目のみ。


 内科医の岡倉のスケジュールは、既に押さえてある。真帆は、岡倉への質問事項を反芻した。


 一限目の授業が終わると、岡倉の研究室を訪ねた。


 岡倉は、糖尿病の研究で、医学論文の他に、一般書も出版している。五十六歳になるが、トライアスロンが趣味のため、アスリート向けの糖質制限方法も出版している。


 そのため、「奇跡の五十代」とマスコミに称され、人気のある内科医だった。

 岡倉が糖質制限の専門医師である事実に注目したのが、大手チョコレート・メーカーの《ソコロフ》だ。


 岡倉は、ソコロフからの提案を快諾した。《医師監修シリーズ》のチョコレートを監修し始めて、五年になる。このシリーズの開発担当だった管理栄養士が、湖香だった。


 岡倉は以前から、真帆と湖香が女子大の同期生である事実を、承知していた。


 真帆は、岡倉と向き合って座ると、質問を始めた。


「上浦湖香さんが亡くなった日、夕食の約束をしていました。十七時ごろ、頭痛が酷い旨、連絡があり、キャンセルになったのです」


 岡倉は、神妙な笑顔を真帆に向け、口を開いた。


「上浦さんの最近の受診歴を知りたいのだね?」


 岡倉は、前置きをすると、パソコンのキーボードを叩いた。


「蜘蛛膜下出血で亡くなったから、突然死だと思うよね。だけど、数ヶ月前から、原因不明の立ち眩みや頭痛に悩んでいたよ。低血糖が疑わしいから、糖負荷試験の受診を勧めていたのだけど……」


「糖負荷試験については、私にも話していましたね。一昨日の晩、詳細を聞く予定でした」と、真帆が口を挟んだ。


「糖負荷試験は、五時間ぐらい掛かるから、仕事の調整ができなかったようだね」

 と言うと、岡倉は、残念そうな表情で、寂し気な笑みを浮かべた。


 糖負荷試験とは、空腹の状態の血液を採取した後、砂糖水を飲み、三十分ごとに、血糖値を測る検査である。


 一般には二時間だが、低血糖症を見極めるには、五時間以上の血糖値測定が必要だ。


「診察の際、上浦さんの食生活を聞きましたか?」

 と、真帆は訊ねた。岡倉が、思案顔になる。


「朝食は食べないか、ソイラテを飲む程度。昼は、サラダとおにぎり。間食は、嫌でもチョコレートの試食があるから、晩は、お腹が空かなかったようだね」


 学生の頃の湖香は、スイーツ・マニアで通っていた。だが、太るのを気にして、食事は控えめであった。


「管理栄養士が、必ずしも栄養バランスの取れた食事をしているとは、限りませんからね」と、真帆が返す。


「線の細い人だったね。筋肉をつけるよう、タンパク質の摂取を増やすように、忠告したのだけど。管理栄養士だから、私よりも、よく分かっていたと思うけどなぁ」


 真帆は、岡倉の口調や表情を頭の中で分析した。誤魔化したり、嘘をついたりは、していないようだ。真帆は、さらに質問した。


「体調面で、緊迫していた様子は、ありませんでしたか?」


「仕事の打ち合わせの時も、診察の時も、顔色はいつも悪かったね。不安神経症もあると思って。念のため、心療内科の受診も勧めたよ」


「精神安定剤を服用していた形跡は、ありますか?」


「まだ、受診はしてなかったと思う。町医者だとわからないけどね」


 薬物の副作用を、疑いたかった。だが、その線は、薄い。


「上浦さんが、献体に登録していた事実は、ご存じでしたか?」

 と真帆が訊くと、岡倉は頬を手に当てながら、首を横に振った。


「事務局に直接、申請するからね。相談された覚えもないし……」


 湖香は、学生のころから、片頭痛に悩まされていた。天気の悪い日や、乗り物に乗ると、気圧の変化で頭痛になる、と話していた。


 だが、ソコロフの研究員として働くようになってからは、見方が変わった。


 特に、岡倉と低糖質のチョコレートを開発するようになって、自身の頭痛の原因も突き止めた。


 職業上、開発途中のチョコレートを、頻繁に摂取する。そのため、菓子の食べ過ぎで、血糖値の乱高下が起こり、低血糖の時に頭痛を引き起こす。


 そのため、湖香は、自身と同じ悩みを持つ人たちが、気軽にチョコレートを楽しめるようにと、この開発に、意欲を持っていた。


《医師監修シリーズ》と《管理栄養士監修シリーズ》のチョコレートが誕生すると、たちまちヒット商品となった。


 スーパーやコンビニで、手軽に買えるチョコレートよりも、百円ほど高い値段設定だ。


 デパートの贈答品チョコレート並みの味わいが、数百円で購入できる上、糖質を気にしなくて良い。シリーズは、全国規模でヒットした。今のところ、消費者からの体調面でのクレームはない、と記憶している。


 繊細な湖香は、ヒット商品の成功に胡坐を掻かず、常に品質管理や、新しい食品添加物などを気に懸けていた。


 真帆は、岡倉の眼を見る。


「チョコレート開発のお話になりますけど。岡倉先生は、食品添加物や人工甘味料について、意見した事実は、ございますか?」


 首を傾げながら、岡倉が苦笑する。

「スーパーやコンビニで、気軽に買えるチョコレートだからね。砂糖の代替品に、自然由来のエリスリトールを推したけど、コストが合わなくて却下されたよ」


 真帆は、心の中で「やっぱり」と呟くと、首肯した。


「食品成分の表示は、一定量に達していない微量のものは、パッケージに記載されていません。微量な食品添加物などは、開発資料として、お持ちでは、ありませんか?」


 岡倉が、残念そうに首を横に振る。

「細かい部分は、提示してくれなかったなぁ。あくまで監修だから。私は、お飾りみたいなものだよ」


「新商品の開発時に、スタッフとお顔合わせとか、ありましたか?」


「ソコロフの研究員や広報の人たちとは、会ったよ。そうだ!」

 と岡倉が、何かを思い出し、軽く机の表面を叩きながら続けた。


「食品添加物や食品の機能性は、今年の一月から、龍姫大学の理学部が協力するはずだ。今は、大学の研究機関も、企業と組んで出資してもらう時代だからね」


 真帆は、合点が行った。目を大きく開くと、質問した。


「龍姫大学の更科佳乃教授では、ありませんか?」


 急に、前のめりになった真帆の様子に、岡倉が驚いている。だが、一瞬、岡倉の表情が、強張ったように見えた。


「まだ大学名しか聞いてないよ。その~更科さんという教授が、どうかしたの?」


 真帆は、体勢を整えると、背筋を伸ばした。


「女子大時代の恩師なのです。先日の葬儀にも、お見えでした。上浦さんから、更科教授の話は聞いてなかったので。最近、交流があったのかと、思いまして」


 岡倉は、「そうか~」と、のんびりとした口調で、首を傾げた。


 岡倉と佳乃は、面識がないようだ。だが、ソコロフと龍姫大学の関係は、繋がった。「何か、匂う!」と、真帆は直感した。

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