第一章 02 Ⅰ型糖尿病
湖香の葬式から、一夜が明けた。
真帆は、愛用の化粧ポーチから、血糖値測定器と注射器を取り出す。指先を針で刺すと、少量の血液が出てきた。血液を測定器に反応させ、血糖値を測る。測定値は、スマホのアプリに記録された。
注射器にインスリン製剤をセットすると、真帆は右手で持ち、右の脇腹に打ち込んだ。脇腹には、無数の注射針の痕ができている。まるで、麻薬中毒者のようだ。
――薬に頼っている身体だから、一種の薬物依存者か……。
真帆が、Ⅰ型糖尿病と判明してから三年が経つ。だが、未だに、インスリン注射の習慣に、慣れなかった。
三年前に死産を経験し、真帆も生死の境を彷徨った。芦岡医大の集中治療室で目覚めると、残酷な現実が待っていた。娘の死産と、自身のⅠ型糖尿病だ。
当時の夫は、大学院の同期生で、二歳年上の小児科医、岸田勝彦だった。後ろめたさが残り、昨年、真帆から離婚を切り出した。
Ⅰ型糖尿病患者の多くは、子供のころに発症する。だが、成人してから発症するケースもあり、現代の医療では、原因不明の難病だ。
真帆の膵臓からは、インスリンが分泌されない。そのため、食事や間食のたびに、インスリン注射を打つ必要がある。
インスリン注射さえ忘れなければ、健常な人たちと同様に、普通の生活が送れる。インスリン注射は、真帆の命綱だった。
一連の朝の儀式が終わると、真帆は窓の外を見た。
昨日の雪が解け始め、道路は凍結している。長靴を履いた通行人が、足を滑らせていた。
真帆は、グルコース粉薬を熱湯に溶かして、ゆっくりと飲んだ。
寝起きは、低血糖になるため、頭痛を伴う場合がある。だが、熱湯に溶かしたグルコースを補給すると、頭が冴えてきた。
芦岡医大へ出勤したら、真帆は、まず、ソコロフの《医師監修チョコレート》を監修している内科医の岡倉
湖香は生前、仕事での縁で、芦岡医大の内科を受診したと、話していた。岡倉なら、直近の湖香の容態が、分かるだろう。
二人目の訪問予定者は、血液の研究者でもある臨床検査技師の笹川翔(しょう)だ。真帆にとって、笹川は、命の恩人でもある。
三年前の真帆は、妊娠糖尿病が疑われていた。だが、笹川だけが、豊富な血液サンプルの型から、真帆のⅠ型糖尿病を発見した。
当時の主治医が無能だった訳ではない。だが、笹川の存在がなければ、真帆は早世していたかもしれない。
真帆は、芦岡医大病院で、管理栄養士として働いていたが、医学博士修得を機に、研究職に就いた。
犯罪栄養論と題して、犯罪者の食事傾向を研究している。まだ日本には、《犯罪栄養学》という正式な学問は、ない。そのため、末尾は「学」ではなく「論」となる。
真帆の研究には、毛髪と血液の分析が必要不可欠だ。研究面でも、三十八歳になる笹川は、頼りになる存在だった。
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