第3話
「ただいまー」
と家に帰ると、キッチンの方から母親の声がした。
「杏里、ご飯よ。
一成も呼んできて、部屋に居るからー」
はーい、と返事をして部屋に行くと、一成は半裸で腕立て伏せしていた。
うわーっ、すみませんっ、とドアを閉めると、
「杏里」
と中から声がする。
「なんの用だ」
とタオルで首筋の汗を拭いながら一成がドアを開けた。
相変わらず、まばゆいくらい美しい筋肉だ。
一度、一緒に鍛えてみようと思ったが、無理だったので。
あれからただ、うらやましく眺めている。
ちょっと動揺しながらも私は言った。
「ご、ごめん。
ご飯だって。
でも、一成。
仕事忙しいのに、よくそんなに身体を鍛える暇あるね」
一成は、学生時代も勉強の合間によくそうやってトレーニングをしていた。
「暇があろうがなかろうが、俺は頑張る。
お前のために」
と言われ、つい、どきりとしてしまったが、一成は、
「俺が誰よりいい男でないと、他の男がビビらないじゃないか」
と言い出した。
「俺はお前に、いい男が言い寄らないよう、常日頃から、身体を鍛え、勉強も頑張り、仕事も頑張っている」
常々思っているのだが、この人は復讐の方向性を間違っている……。
大学受験のときも、
「俺と同じ大学に行けないとは何事だっ」
と毎晩尻を叩いて、勉強させられ、
「俺と同じ会社に入れないとは何事だっ。
新歓コンパでお持ち帰りでもされたらどうするつもりだっ」
と尻を叩いて、就活の対策を立てさせられた。
この人が居なかったら、怠惰な私のことだから、適当な大学に行って、適当な会社に入っていたと思うのだが。
お陰様で、いい大学に行き、いい会社に入れている。
「よし、あと100回、腹筋な」
と今度は腹筋をすごい勢いで始める。
ひいいいい。
「杏里」
「は、はいっ」
よく腹筋しながら喋れるな、と思いながら返事をすると、
「お母さんにはすぐ行くと言っておいてくれ。
皿を並べるのを手伝わねばな。
そして、ああ、こんないい息子が実の息子じゃないなんて、と悔しがらせなければ」
と言ってきた。
……頑張ってください、と思いながら、私は、ぱたん、と扉を閉めた。
次の日から、一成は引き継ぎのために企画事業部に行くことが多くなり、今までほど姿を見なくなっていた。
まあ、ちょっと寂しいかなーという気もしなくもない、と思ったとき、課長が言ってきた。
「あっ、これ、印鑑抜けてる。
中西さん、営業持ってって、押してもらって。
取りに来いって言っても、忙しいとかなんとか言って、なかなか来ないから」
はい、と伝票を受け取り、エレベーターに向かう。
すると、ちょうど一成がエレベーターから降りてくるところだった。
「杏里、何処か行くのか?
お使いか?
付いて行こうか?」
いや、此処、職場なんで。
私、もう小学生じゃないですしね……と思いながら、
「大丈夫だよ」
と言うと、一成は、
「俺が居なくてもしっかりやってるか?
皆様にご迷惑をおかけしてないか」
と訊いてくる。
いや、貴方、一時間くらい居なかっただけですけど。
その間に、なにかやらかすような奴は、貴方が居ようが居まいがやらかすと思うんですけどね、と思う私の前で、一成は溜息をつき、言い出した。
「来月から、同じフロアじゃなくなるのか。
困ったな。
お前を見張ってられくなるじゃないか。
俺以外の虫が付いたらどうするんだ」
その言い方だと貴方も虫ですよね……、と思ったとき、
「中西さん」
と階段の方から上がってきた
一成みたいな、なにか裏がありそうな笑い方をしない、爽やか体育会系の人で、お姉さま方にも人気があるようだった。
「……早速虫が来た」
と藤丸を見て、一成が呟く。
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