第3話

「ただいまー」


 誰もいない自宅に帰ってきたのは、谷咲さんと別れてからそんなに経っていない時刻だった。俺はいつものように玄関の鍵を閉める。

 靴を脱いでリビングに入ると、姉がソファに座ってテレビを見ていた。

 前言撤回。姉が帰っていたみたいだ。

 三つ年上の姉は俺と違って社交的で、インスタもバリバリやっているらしい。だが、あまりにも世界が違いすぎて話題が合うことは少ない。


「おかえり。鞄放りっぱなしで、あんたどこ行ってたの?」

 

 姉が俺に視線を向けずに聞いてきた。


「ん、大森中の前まで」

「え? なんで今さら母校に?」

「いや、ちょっと人と会ってた」

「へえ、誰と?」


 姉の興味なさそうな声色に、少し躊躇する。

 どうする、谷咲さんの名前を出すべきか? いや、もしかしたら姉なら何か谷咲さんについて知っているかもしれない。

 聞く価値はある。


「……谷咲いろはって知ってるか?」


 すると姉は急にテレビから目を離し、こちらに向き直った。当たりだ。これは何か知っている反応だな。


「谷咲いろは!? あの森ノ原の? 学年一の美少女って言われてる子?」

「知ってるんだ……」

「当たり前でしょ! その子めっちゃ有名よ。あんた、なんでそんな子と会ってたの?」

「わ、わかんねぇ……急にDM来て、会おうって言われたんだよ」


 姉は信じられないとでも言うように目を大きく見開いた。


「信じられない。もしかして、あんた隠れたモテ男とか?」

「そんなわけねぇだろ!」


 俺は少し顔を赤くして、姉の冗談を打ち消した。


「まあ、いいじゃん。せっかくのチャンスなんだから楽しんできなよ。次会う時、ちゃんといい服でも着ていきなよ」

「……あんまり期待しないでくれ。それに、なんか変な感じなんだよ」

「変な感じって?」


 姉は笑みを浮かべたまま俺をからかうように見ている。


「いや、なんで俺なんだよって思うんだ。谷咲さんレベルの人が、俺に興味を持つ理由がわかんねぇんだよ」

「それは考えても仕方ないよ。とりあえず、あんたがヘマしないように祈っとくわ」

「ありがとうな……って、なんだその言い方」


 姉の言葉に少しムッとしながらも、リビングを出て自分の部屋に戻った。

 そこに待っているのは、いつも通りのベッドと散らかった机。出しっぱなしの卒業アルバム。

 俺は疲れた体をベッドに沈め、天井をぼんやりと見つめる。今日の出来事が信じられないまま、心の中で反芻していた。

 ――何で俺なんだ? いまだにその理由がわからない。だが、そんな疑問に浸る間もなく、スマホが鳴った。画面を見ると、谷咲さんからのメッセージが来ている。


『お疲れさま! 今日はありがと。急だったのに付き合ってくれて嬉しかったよ。また花火大会のこと話そうね』


 俺は一瞬、返事に詰まった。なんて書けばいい? 今日初めて会って、初めて言葉を交わした美少女相手に、なんて送るのが正解なんだ。

 彼女との距離感がまだ掴めないまま、指が勝手に動く。


『こちらこそありがとうございました。花火大会楽しみですね』


 返事を送ったあと、こんなありきたりな文章でいいのかと不安になる。すぐに既読がつき、また返事が返ってきた。


『当日、何時集合にする? 私的にはいろいろ食べ歩きとかしたいから十五時くらいがいいんだけど……どうかな?』


 花火が上がるのは、大体十九時頃から。そこから大体一時間程度花火が上がる。つまり、十五時から行けば最低でも六時間ほどは一緒にいれるということか。

 たこ焼きとかかき氷とかの屋台もたくさん出てるから、食べ歩きというのも最高だ。


『全然大丈夫です。どこに待ち合わせますか?』


 そもそもどこで見る気なんだろう。家族と行ったときは、結構土手の方から見るから、それより近くで見れたらいいんだけど。


『また大森中の前でいい?』


 返事が来た。大森中からなら河川敷はすぐだし、両者の家から徒歩で行ける距離だ。なんでこんな最適解ばっかり出てくるんだろう。

 絶対俺じゃ不釣り合いだろ。


『分かりました! 一緒に見れる花火楽しみにしてます』


 送信してから後悔した。文字を打っているときはなにも考えなかったが、またしても気持ち悪い文章を送ってしまった。

 だが、そんな感情を打ち消すかのようにすぐに谷咲さんからハートマークが送られてきた。俺はそのハートを見つめ、なぜか少しだけ鼓動が早まっているのを感じた。


「なんだこれ……」


 独り言をつぶやいて、俺はベッドの上で目を閉じた。

 次第に意識が薄れていく中、心の中には明らかにこれまでの日常とは違う感覚が広がっていた。それが何なのか、俺にはまだよくわからないままだったが。

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