第2話 三姉妹

 雪のように白くて痩せ細った指を、遠慮なく貫くような冷たさの井戸水に、美桜みおは思わず悲鳴を上げそうになる。

 今にも折れそうなほど細い指先に出来た痛々しいあかぎれは、以前よりひどくなっていた。


 美しい顔立ちを見初められて隣集落にある庄屋の息子に嫁いだ美桜の姉……百合ゆりは、妹二人を下女として雇うよう庄屋夫婦に頭を下げた。


 これまでは働き者の父親と暮らしていたのだが、ある日旅に出た父親が約束の日にも戻って来ず、残された姉妹だけでは食い扶持に困ってしまう。

 集落の中で美しいと評判だった若い女二人では、何かと物騒だというのもあった。


 息子の嫁である百合の願いを庄屋夫妻は快く受け入れ、真ん中の娘である椿つばきと末娘美桜は、下女として雇い入れられる。

 元から百合は庄屋の家で下女として働いていたものの、妹二人は農夫である父親の手伝いをして暮らしていたので、未だ下女の仕事には慣れないでいた。


「美桜! 美桜!」

「は、はい!」

「何処にいるんだい! 美桜!」


 長年この屋敷に仕えているというマツの声は良く通る。

 この時間はいつも水汲みをしているというのを知っていてわざと大声で美桜の名を呼ぶのは、仕事もせずに遊んでいるのだと周囲に言いふらす意味合いがあった。


「なんだい! ここに居たのか! 返事くらいしな!」


 何度も返事はしたのだと、そう言い返すだけ無駄だった。そんな事を口にすればまた悪い噂を流され、お仕置きだときつく折檻されるだろう。


「すみません」

「全く、アンタみたいに陰気な面を毎日見てると嫌になるよ。いくら若奥さんの妹だからって、アタシは特別扱いしないからね!」


 顔には皺だらけ、背中が曲がりつつある老齢のマツはこの屋敷で長年下女達のまとめ役をしていて、庄屋夫妻からの信頼が厚い。

 実は庄屋の遠縁であるという事も、マツが大きな顔をする一因になっていた。


「ほらほら、さっさと水汲みを終わらせな! それで無くとも若奥さんや椿さんと違って、病弱なアンタは出来る事が限られてるんだからね! それなのにのんびりして、みんなに悪いと思わないのかい⁉︎」

「すみません、すぐに済ませます」

「ふん!」

「ゴホ……っ、ごほ! ゴホ!」


 美桜は寒さが厳しい時期にひどく咳き込む事が多い。息が出来なくなるほど咳き込んで、喉が切れ、血を吐く事もあった。


「おお、怖い。変な病をうつさないでおくれよ!」


 そう言ってマツは咳き込む美桜を置き去りにして戻って行く。

 しばらくの間咳き込んでいた美桜は、ハァハァと息を荒くして井戸端に座り込み、涙ぐんだ。

 虚弱に生まれた自分が憎らしいと思ったのは、一度や二度では無い。


「早く……終わらせないと」


 何とか咳き込みが治っても息苦しさはなかなか治らない。

 指先が千切れそうなほど痛んでも、美桜は黙って桶に水を汲み、運び続けた。


「美桜」


 午前に使う水はもう十分だろうという頃、背中に聞き慣れた声を感じて美桜が振り返る。

 水汲み前は冷え切っていた身体も、今はほんのり熱を帯びていた。


「百合姉さん……どうしたの?」


 縁側に立っていたのは上の姉の百合だった。嫁ぐ前よりも良い着物を身に付け、綺麗に化粧を施した百合は眩しいほどに美しい。


「大丈夫? また咳をしていたでしょう」

「大丈夫よ。ありがとう」

「ごめんね、手伝ってあげられなくて……」


 百合という名前の如く、すらりとした体つきに誰もが美人だと口を揃える涼しげな顔立ち。豊かで艶やかな黒髪には集落の誰もが憧れていた。

 美人に生まれたお陰で良い嫁ぎ先を見つけたのだと、皆が羨んでいる。


「百合姉さんには百合姉さんのお仕事があるでしょう。嫁いだばかりで大変だろうし。私は気にしていないわ。それに病持ちの私は台所に立てないから、これくらいはしないと」

 

 昔からあまり表情が豊かでない百合だったが、それさえも美しいとされていたし、美桜にとったら思いやりのある優しい姉であった。


「美桜は末っ子なのに偉いわね。それに比べて椿は……」

「椿姉さんがどうかしたの?」

「仕事を放って、またどこかへ消えてしまったみたいなの。マツさんから探して来るように言われたのだけれど、屋敷の中には居ないみたい」

「そう言えば、私もずっと見ていないわ」


 二番目の姉である椿は百合とは違った華やかな美しさを持った娘であったが、百合や美桜と違って働く事を嫌っている。

 椿の美しさに目が眩んだ男達は度々食べ物や金目の物を贈っていたので、自分は無理に下女として働かずとも食べていけるのだという考えであった。


「困ったわね。流石に庇いきれなくなってしまうわ」

「そうよね。ごめんなさい、百合姉さん」

「どうして美桜が謝るの? 悪いのは椿だわ」

「私達のせいで百合姉さんの立場が悪くなったらと思うと、心配で……」


 マツは何故か初めから美桜の事を気に入らないようで、事あるごとに虐げている。有る事無い事庄屋夫妻に告げ口する癖もあった。

 けれども確かに美桜は身体が弱く、咳をするからと台所に立つ事を許されていないので、他の下女よりも役に立っていないといえばそうとも言える。


「美桜は他の下女よりも辛い仕事をたくさんしてくれているでしょう。台所に立たない代わりに冷たい水を汲んだり洗濯をしたり、洗い物だってほとんど美桜がしているわ」

「それは元々百合姉さんもしていた事だし……」

「こんなにあかぎれを作って、可哀想に」


 百合は縁側にしゃがみ込むと、氷のように冷たく凍えた美桜の手をそっと握った。うっとりする程形の良い唇からハァーっと息を吐き出して、妹の手を懸命に温めようとする。


「ふた月前、おととさんが旅になんか出なければ……美桜はこんなに辛い思いをせずに済んだのにね」

「ここからも見えるあの山だもの。おととさんだってすぐに帰れると思ったんだわ」

「おととさんは私が嫁ぐ事になって、急に美桜の事が心配になったのよ。病気がちな美桜がこの先嫁ぐ事が出来なかったら……と思ってね」


 二番目の姉である椿は放っておいても上手く嫁ぎ先を見つけて来るだろう。けれども身体が弱い美桜を貰ってくれる嫁ぎ先はなかなか見つからない。

 百合が嫁いでからというもの、父親は急に美桜の将来が不安になってしまったようだ。

 

「私はずっとおととさんのそばに居たって良かったのに。おととさんには、とにかく無事に帰って来て欲しい……」


 今にも消え行ってしまいそうな儚げな雰囲気を纏う美桜は、目頭と鼻の頭を赤くしている。

 二人は父親が居るはずの、台形状に聳え立つ山塊を揃って仰ぎ見た。青峰,黄峰,赤峰,白峰,黒峰と言われる山塊のうち、青峰の中腹にある寺に向かったはずだった。


「そうね……おととさんが帰ってくれば美桜もここに居なくて済むのに」

 

 寒さと悲しみに震える美桜の華奢な肩を、百合はただ優しく撫でてやる事しか出来ない。すると美桜は姉の優しさに応えるようにして、ふわりと穏やかに微笑んだ。

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