此処は讃岐の国の麺処あやかし屋〜幽霊と呼ばれた末娘と牛鬼の倅〜

蓮恭

第1話 子を思う弥兵衛の旅


「ここらには牛鬼うしおにが出るとか言ってたか。おっかねぇなぁ……」


 人気の無い山中で独りごちた男……弥兵衛は、ブルリと身体を震わせる。

 

 昔からこの青峰山には牛鬼と呼ばれるあやかしが居るといわれていた。

 大きな角と鋭い牙、牛に似た頭部を持つ恐ろしい鬼で、度々人間を捕まえて食べたり、家畜を襲ったりしたのだ。

 それがある時弓の名手である山田蔵人によって退治され、人々が安心したのも束の間、実のところ山田蔵人は牛鬼を殺すのに失敗していたのだという。


 角だけを奪われた牛鬼は今も青峰山のどこかにまだ潜んでいるという話を、弥兵衛は地元民から聞かされていた。

 今も牛鬼は山に迷い込んだ旅人を食らって生きていると言うのだ。


「しかしここまで来て帰るわけにはいかねぇ。近くまでは来ているはずだ」

 

 弥兵衛には娘が三人、妻は早くに亡くなった。上の娘は美しさが幸いして隣の集落の庄屋の息子へ嫁いでいった。

 

 大変だった子育てがひと段落し、あとは残り二人の娘を嫁がせるだけとなった。そうなると、生まれた時から病弱な末娘があまりに不憫に思えてくる。

 健康な二番目の娘はまだしも、病気がちな末娘の嫁の貰い手など居ないだろう。


 そこで弥兵衛は不思議な霊木で作られたという千手観世音菩薩に救いを求めた。病気平癒のご利益があるのだと、集落を訪れた旅人が教えてくれたのだ。

 

 話を聞いた弥兵衛は集落からたった一人で旅に出て、いく日も歩いてここまでやって来た。

 弥兵衛の家からも見えるこの山は、見るだけならば随分と近くに思えた。けれども実際は想像以上に遠くて驚いたのである。

 そして弥兵衛は、こんなに高い山に登ったのも初めての事であった。

 

 だからこそ高い山から望む美しい景色に見惚れているうちに、いつの間にやら道に迷ったらしい。

 この時期の日の入りは早い。もうじき太陽がすっかり隠れてしまうというのに、目的の場所はまだ見えない。


 ザワザワと風に揺らぐ木の葉の音がうるさいぐらいに弥兵衛の耳を叩く。


「もうそろそろ青峰の中腹だがなぁ」


 その時、グゥゥゥと情けない音を立てて腹が鳴った。弥兵衛は先程拾ったばかりの木の実をいくつか口に放り込む。旅に出てからの食事はずっと現地調達だった。

 

 そろそろ粥と漬物、魚の干物でも食べたいところだが、家に帰るまでそう贅沢な事は言っていられない。


「ん?」


 魚を食べたいと願った弥兵衛の鼻が、土の匂いと辺りを囲む木々の発する爽やかな匂いの中に、何とも香ばしい匂いを捉えた。


「こりゃあ不思議な事もあるもんだ。こんな山奥で魚の匂いがするぞ」


 見知らぬ土地で道に迷い、もうすぐ日暮れという絶望的な状況で、弥兵衛は己の鼻をくすぐる良い匂いの方へと自然に足が向いていく。

 だいぶ履き古された草鞋で、落ち葉の上をそろそろと気を付けながら歩いた。


 辺りは徐々に暗くなっていた。弥兵衛は少し登った所にぼんやりとした明かりを見つけ、茶屋でもあるのかと思って必死に足を動かす。


「なんだ、茶屋かと思ったらうどん屋か」


 弥兵衛の前には『饂飩うどん』と書かれた看板が軒下に吊るされている。

 文字が書かれた長方形の板には細長い紙が何本も吊るされ、見ただけで麺類の店だと分かった。


「それにしても……いい匂いだなぁ。ああ、うどん食いてぇなぁ」


 店から漂って来るいりこ出汁の風味豊かな香りを、弥兵衛は思いっきり吸い込む。

 木の実だけでは山登りして来た腹は一向に膨れず、匂いを嗅いでいるうちに余計空腹感が増して来た。


 けれども弥兵衛には残念ながら手持ちが無く、うどんを食べたくても食べられない。

 小銭入れの中にはもう賽銭用に取ってある分しか無い。


「麺が無理でも……出汁だけでもいいがなぁ」


 そんな事を呟いた弥兵衛に、突然店の奥から声が掛かる。


「入りなさい。良かったら美味いうどんを食べさせてあげよう」


 弥兵衛は空腹のあまり自分の耳がおかしくなってしまったのかと思った。

 閉じたままの引き戸の奥は様子が窺えないが、あちらからも弥兵衛の事は見えないはずだ。それにそう大きな声で呟いたつもりも無い。


「腹が減ってとうとう耳がおかしくなっちまったか?」


 菅笠を取り、耳の穴を指でほじりつつ首を傾げた弥兵衛は、それでもすぐには諦めきれずにその場を動けないでいた。

 必死で山道を登って来た。これまでの道のりだって険しいものだった。それだけ腹が減っていたのである。


「おかしくなどない。ほら、外は寒いだろう。早く中へ入りなさい」


 そこまで言うならと、弥兵衛はそろそろと引き戸に手を掛け店内に足を踏み入れる。

 途端にブワッと温かい湯気が顔に吹きつけ、何とも芳醇な出汁の香りが弥兵衛の身体を包み込んだ。


「おお!」


 知らず知らずのうちに大きな感嘆の声を上げた弥兵衛は、客でごった返した店内をぐるりと見渡してみる。

 こんな人里離れた山奥で、しかも陽も落ちたというのにえらく活気付いたうどん屋では、皆競うようにしてうどんを啜っていた。


「さぁ、そこへ腰掛けなさい。すぐに食べさせてあげるから」


 先程外で聞いた声の持ち主が、いつの間にか弥兵衛のすぐ近くに立っていた。

 盆の上に湯気の立ち上る湯呑みを乗せ、着流しに襷と前掛けをした店主らしき男は、とてもこの世の者とは思えない程妖艶な声色をしている。


「ひぃ……っ! あ、あ……あ……」


 その美しい声で散々優しい言葉を掛けられたにも関わらず、弥兵衛が悲鳴を上げてしまったのには理由があった。


「ば、化け物……っ」


 男は太く鋭い角を持つ牛の頭蓋骨を面のようにして顔に被り、ほんの僅かな隙間から白い肌と首筋が見えるだけで、その表情はおろか人間かどうかさえ分からない姿をしていたのだ。


「おいおい、勝手に迷い込んできた人間の癖に、化け物とはひどい言い草だな」

牛鬼うしおにの倅よ、そんな奴追い出しちまえよ」

「何ならワシがその人間を食ってやろうか?」


 先程までうどんを啜っていた客達が、弥兵衛の言葉で一斉に振り返る。

 それどころか何人かは立ち上がり、弥兵衛の目の前に鋭い牙と爪を差し出して脅す者も居た。彼らは禍々しい気配を纏ったあやかしや、得体の知れない『何か』である。


「あ……あ……」


 こんな深い山中にうどん屋があるなどどうりでおかしいと思った。ここは……この山は物怪もののけの巣窟だったのかと、弥兵衛は罠とも知らずにまんまと匂いにつられた己の愚かさを嘆く。


「お助けを! どうか、お助けを! おらは娘の病気平癒の為、霊木で作られたという千手観世音菩薩様にお参りに来ただけなんです! 食われる前にせめてお参りだけはさせてくだせぇ!」


 弥兵衛の身体は真冬の川に飛び込んだようにように冷たくなって、歯と歯がガチガチと音を立てている。あんなに温かで心地良いと感じた店内の湯気も、今はじっとりと弥兵衛の身体を包み込む冷や汗に変わった。


「あ……」


 その声は誰のものだったか。


 弥兵衛は突然意識を途切らせ、その場にうつ伏せ向きにばったりと倒れ込んでしまう。

 やがてボロボロの着物を纏った弥兵衛の背中に、幾つもの物怪達の影が落ち、手が伸びた。

 

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