第7話 心の傷

 フィッシュアンドチップスの入ったビニール袋を持ちながら、笑美とセレナは公園を歩いた。イギリスの公園はどれも綺麗で広い。気のせいなのかわからないが、芝生も日本のものよりも柔らかい気がする。


「ここに座ろっか」


 ベンチを見つけた二人は、それに座った。発泡スチロールの箱を開け、紙の包みを開けると美味しそうな温かい、魚のフライとポテトが出てきた。


「わー、美味しそう! いただきまーす」


「いただきます」


 笑美が手を合わせると、セレナも慌てて思い出したかのように同じようにした。セレナはもらった木のフォークとナイフで、力を入れながら魚を切っていく。

 その間、ふと笑美が顔を見上げた時、公園の木々の向こうに一組の男女が互いに腕を絡みながら歩いているのを見た。


「……」


 口から言葉は何も見えなかったが、笑美の胸は締め付けられたかのようにきゅっと痛くなった。しかし、彼女は彼らから目を離すこともできなかった。


「笑美ちゃん?」


 ぼんやりとどこかを見つめていることに気がついたセレナは、後輩に声をかける。笑美はその場で飛び上がった。


「魚切り終わったよ。好きな大きさを食べて」


「あ、ありがとうございます」


 木のフォークで笑美はちょこちょこと魚とポテトを交互に刺しては、口に運んでいった。セレナはその様子をしばらく見、それから少女に尋ねた。


「笑美ちゃん、大丈夫?」


「え?」


 突然の質問に笑美は困惑してセレナのほうを向いた。


「なんだか元気ないような気がする。なにかあった?」


 笑美はフォークの動きを止めた。セレナは彼女の瞳が葛藤でふるふると震えているのが見えた。

 しばらく沈黙が流れた。


「失恋……した……んです」


 今度はセレナが動きを止めた。


「イギリスに旅行しに来たのも……実はそれのせいで……」


 セレナはまるで凍ったかのように最初座っていたが、徐々に話す力を取り戻し優しく言った。


「もしよければ……もし楽になるなら、全部話してもいいのよ」


「うん……」



 大学一年生のとき、笑美は誰も好きにならなかった。

 なぜかはわからなかった。女子校から共学、専門的になった勉強など、慣れない生活で忙しかったからだろうか。いずれにしろそんな余裕はなかった。彼女は自分に彼氏がいないからといって、悲しむわけでもなかった。


 とはいえ、心の奥底に小さな不安がなかったわけではなかった。笑美は学歴高い大学へ行きながらも、いつかは絶対家族を作りたいと思っていた。

 18歳のときから気にするのもあほくさいということを彼女はわかっていたが、だからといって胸の中のくすぶりが消えるわけではなかった。


 二年生の春、笑美はとある青年と会った。初対面ではなかった。もともと同じ学部だったが、挨拶するか、少し喋るかだけで、彼のことを詳しく知る機会はなかったのである。

 青年は明るく、優しく、面白く、でも真面目に法学も勉強しているという、笑美にとっては完璧に近いような存在だった。真面目なのにおちょこちょいなせいか、いつも友達や同級生に雑に扱われることが多かった笑美にも、彼は真摯に向き合ってきた。

 好きにならないことなどありえなかった。


 笑美は「おしゃれな友達」の力も借りて、苦手なはずの化粧やファッションを学んでいった。自分磨きを頑張り、彼との接点や会話も少しずつ増やしていった。彼の趣味であるロックも、頑張って聞いた。


 笑美の頑張りは、彼女を裏切らなかった。彼は笑美に対しても親しみやすい態度を取るようになり、二人の距離は少しずつ縮まっていく。


 笑美は、次第に「彼との未来」を夢見るようになる。このまま頑張れば、きっと自分を見てくれるはずだと希望を抱き、さらに努力を重ねていった。


 ところが、7月のある日、期末試験が始まる少し前に、その「夢」はあっけなく壊れてしまった。

 彼が付き合い始めたのだ。相手は笑美を手伝ってくれたはずの「おしゃれな友達」だった。


 確かに彼女は自分とは違い、明るく社交的。おしゃれにも敏感で、周りからも注目される存在だった。自分が選ばれなかったことは仕方がない。笑美は自分を説得しようとした。

 だがもちろん、裏切られたような感情を感じなかったわけでもない。

 自己嫌悪と嫉妬、悲しみが少女の思考と心を覆った。


 試験はなんとか乗り越えたが、笑美の心の痛みはなかなか消えなかった。

 そこで、笑美の別の友達が彼女に海外へ行くことを提案する。笑美の大好きな小説と深く結びついた国にしようと決めた。

 選ばれたのはイギリスだった。目的はとても楽しい時間を過ごして、この辛い経験のすべてを忘却することだったのだ。




「馬鹿らしいってことはわかってるの。私だって考え続けることなんかやめたいし、次へ進みたい……」


 微かに震えた声で、笑美は呟く。


「でも……なにをやろうとしても……」


 笑美はそこで小さな咳をした。声が上ずるのを抑えるためだった。

 そこで少女の言葉に続けるかのように、セレナが静かな声で言う。


「なにをやろうとしても、他のどんなことを考えようとしても、考えはすべて元の場所に戻ってしまう。もう何度も何度も考えてすり減った思考の道を、またもの思いという足で歩いていってしまう……」


「え……」


 彼女の言葉があまりにも詩的で、でもぴったりであったので、笑美は思わずぽかんと口を開けて相手を見た。

 だがセレナは何も答えなかった。彼女のトパーズの目はまつ毛の影で、暗い色に染まった。


(もしかしてセレナさんにもなにかそういうことがあったのだろうか)


 笑美は考えたが、尋ねることはできなかった。


「笑美ちゃん、あなたとても偉かったと思うよ」


 セレナはふと言った。


「好きな人のために、ちゃんと努力して、自分を磨いていって。全員ができることじゃない。でも笑美ちゃんはたくさん頑張ってきたのよね」


 セレナの声は穏やかだった。まさに音楽のセレナードのように。


「その努力は決して無駄じゃないよ。あまり落ち込まないで。まずは自分を褒めよう。だって、頑張ってきたもの。大丈夫よ、彼は見てくれなかったかもしれないけど、いつか必ずその価値を見てくれる人が現れる。笑美ちゃん、とても良い子だもの。こんな子をほっとくなんて、男って見る目ないね」


 最後は軽い調子で言ったが、その後セレナは声を低くする。


「でもその『おしゃれな友達』とは絶縁したほうがいいよ。性格が悪いって絶対。私ならそいつ切り裂いていたよ」


 急に乱暴な言葉が出てきたので、笑美は少し笑ってしまったが、セレナの褒め言葉はすっと心に入ってきて少し胸のもやもやが晴れた気がした。


「ありがとうございます……」


 笑美は眉を下げて、礼を言う。セレナは微笑んでから、そんな彼女をひきよせて、象牙のような手で笑美の頭を優しく撫でた。


「わっ、えっ……」


「頑張るのも大事だけど、たまには甘えたっていいんだよ」


 戸惑った少女に、セレナは優しく言った。それがなんだか懐かしいような感じがして、笑美の目から涙がぽろぽろとこぼれた。先輩はただ静かに、すすり泣く少女を無言で慰め続けた。


「明日、一緒にオックスフォード行く?」


「うん……」


 笑美の返答は小さかったが、はっきりとしていた。

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