第38話 ぼくは、〇✕だと思っている。

 ぼくは、一人で家を出て、玄関の鍵を閉めた。ふと、背後から明るい声が聞こえた。誰かに呼ばれたような気がして、ぼくは慌てて後ろを振り返った。道路の方を見ると、小学校低学年ぐらいの少年と少女が、笑い声を上げながら通り過ぎていくところだった。思わず、苦笑してしまう。


 ぼくの隣に耶衣子ちゃんが居ないということを除いては、世界はいつも通り回っているようだった。それでも、ぼくには世界が突然地動説を信じ始めたようなコペルニクス的転回を伴って、僅か数週間ばかりの間に様変わりしてしまったように思えた。ぼくは何か大切な忘れ物をしたような気分のまま、一人で学校へ向かった。


 入院明けのぼくは、クラスの皆の同情を一身に受けながら迎えられた。それはただ、入院期間を案じていたからだけではなかった。

 ――南耶衣子は、転校した。

 ――コルネオーリ・ハワードは、転校した。

 それが、この飾られた世界における、真実とは程遠い事実だった。


「二人とも、突然連絡があってな」

 朝のホームルームの直後、ぼくは行李先生を捕まえて二人の事情を訊いた。行李先生は困ったような顔をして答えてくれた。


「行き先は、聞いてないんですか」

「南は、両親の仕事の都合で、ということで、行先まではな。コルネオーリの方は、姉のマーガレットと合わせて、本国に帰ることになったそうだ。具体的な場所までは、私も知らない」


 ぼくはよほど、気の抜けた顔をしていたのだろう。行李先生は、ぼくの顔を覗き込んでいた。


「比米島。お前は……南と仲良くしていたようだし、コルネオーリとも、仲良くやっていたみたいだから、残念だと思うが……。こんなことを言うと身も蓋もないが、人生を生きていれば突然の出会いや別れなんてのは、喜ばしく無くとも、よくあるもんだ。だから、あまり気を落とすな」

 話したくなったら、職員室に来い、と先生は残して、去っていった。


 結局のところ、ぼくは本当の耶衣子ちゃんのことをほとんど知らないのだった。入院している間も顔を会わせることが無かったし、ぼくが退院するころには既に耶衣子ちゃんは退院していて、携帯電話の連絡先なんかもすっかり不通になっていた。

久々の登校日の今日だって、突然姿を消してしまった耶衣子ちゃんがふらっと現れるんじゃないかと、少しばかり期待していた節はあった。それは、朝から早々に裏切られたが。


 いったい耶衣子ちゃんがどこへ行ってしまったのか、それを聞くことのできる相手は、ぼくの周りにはもう誰も居なかった。

 ぼくは気もそぞろのまま、授業を受けた。本来なら、昨年の遅れと、入院期間分の遅れを取り戻すべく、いつも以上に一意専心すべきなのだろうが、授業は耳を通り過ぎていくみたいに、まったく頭に入って来なかった。


 気付いたら、お昼ご飯を食べていて、そして放課後になっていた。

 ぼくは、急いで部室へ向かった。ある生徒に会いたかったからだ。

 果たしてその生徒は、いつもの席で、プラチナブロンドの髪に夕陽を受けながら、静かに本を読んでいた。


「ナターリア」


 名前を呼ぶと、随分ホッとした心地がした。ぼくの世界は、この場所にだけ、まだ元のまま残っている気がした。


「先輩……」


 蕾が開いたような笑顔が芽吹いて、それからさっと、彼女の顔には陰が差した気がした。彼女は、ぼくを食堂に誘った。


 食堂は、いつものように人がまばらだった。端の方の席が空いていたので、ぼくらは人から離れたその場所に座った。

 話したい事は沢山あったはずなのに、いざ彼女を目の前にすると、何から話をしたらいいか分からなくなってしまった。ナターリアもなぜか、話し辛そうにもじもじとしている。

 ぼくは、当たり障りのない話から始めることにした。


「そういえば、葉先輩……居なくなったんだってね」

「それは……言い方に些かの語弊がありますわね」


 ふふ、とナターリアは小さく笑った。


「葉芷琳先輩は、転校なさいました」

「君が……なにかしたのか」

「……いいえ。彼女の素性を思えば、当然のことですわ。素性が割れれば、一秒でもこの場所に留まるのは愚策です。それ以上の諜報活動で、釣果は望めないでしょうから」


 威勢のいい運動部の掛け声が、遠くに聞こえた。曲とも何ともつかない、腑抜けた金管楽器の音が、部活動の掛け声に呼応するように、微かに響き始めた。


「織幡。最近その苗字を聞いたよ。あまり聞かない苗字だ。君の家族は、あの研究所で働いていたんだね」


 ぼくは、彼女の反応をうかがった。


「もしかして、記憶が戻ったんですか?」


 ナターリアの顔は、瞬く間に華やいだ。ぼくは、首を横に振った。


「偶然耳にしただけ。それが、ぼくと君との縁だったんだ」

「縁、そうですね。私の父と、先輩の母君が同じ職場だったんです。それで一度、幼い頃に先輩のご自宅に遊びに行ったこともあります。私はその時のことを、今でも覚えていますわ」

 胸に手を当てて、彼女はその思い出に浸るように、目を瞑った。


「その時のことは、話してくれないんだね」

「先輩が思い出してくれるまでは、秘密、です」

 ぼくは笑った。それは、期せずして嘲りのような笑いになった。


「君は、研究所のことも、それなりに知っていたんだろう? それも、〝秘密〟かい?」

 彼女は僅かに目を細めて、視線を落とした。


「ええ。それなりに知っていました」

「どうして、教えてくれなかったんだ」


 自然と、その言葉は非難がましくなった。もし、あの研究のことを知っていたら。そう思わずにはいられなかったのだ。

 耶衣子ちゃんが、あの日に手にした研究の情報をインターネット上にバラまいたみたいに、研究所を糾弾できていたかもしれない。結果、研究所は警察の捜査が入り、研究所の感染症対策研究室の室長が、外為法違反で逮捕されるに至った。全ては室長の独断とされた一方、マユミさん、耶衣子ちゃん、メグやネリー、槙野やぼくのことは、まったく触れられないままに事件は幕を閉じた。

 

 一体あの一連の出来事の裏で、警察と研究所でどんなやり取りが為されたのかは分からない。警視庁公安部の人間が、捜査としてではなく容疑者側の関係者として、事件に主体的にかかわっていたことを秘密裏に隠匿することと、研究所側の仕掛けた、メグやネリー、槙野の犯罪行為が不問になること、これらが天秤にかけられた結果なのかもしれなかった。あるいは、それ以上のものが。


「それが、望まれていなかったからです」

「誰が、そう望まなかったんだい?」

「秘密です」


 彼女は嘯く。正直に答えるつもりは、まったくと言っていいほど無いようだった。彼女の秘密とやらは、おそらくこの国の法を逸脱したところにあるのだと、なんとなく思われた。

 ぼくは、もう少しだけ、彼女の中身に近付いてみたくなった。その質問は、気が付くと口を衝いて出ていた。


「……君は一体、何なんだ?」


彼女の口元が、いたずらっぽく弧を描いた。


「私は先輩の後輩で、先輩の味方で――先輩の敵なのです。今もまだ……ね」


 

 ぼくは、ぼく以外帰る人の無い家で、一人分の夕食を作った。テレビを点けて、芸能人の他愛ない話と脚色された虚しい笑い声をBGMにしながら、味気ない食事を終えた。食べ終えて、自分が何を食べていたのかすっかり忘れてしまった。ぼくは自分で、料理が好きだと思っていたのだけれど、それは料理を食べる人あっての嗜好だったことを思い知った。


 マユミさんとは、ぼくの入院以来、会っていない。去り際の言葉を交わすことも無かった。耶衣子ちゃんと同じで、かつての連絡先は不通。ぼくが家に帰ってくると、マユミさんの使っていた部屋からは、彼女の私物と思われた衣服や化粧品などがすっかりなくなっていて、母親の部屋は元通りになっていた。

 後見人は未だマユミさんのようだけど、それもいずれは祖母に変わるのかもしれなかった。この家も、祖父母と共に暮らすようになっていくのだろう。

 

 洗い物をしながら、ぼうっと、リビングを眺めた。

 人のいないソファやテーブルを見ていると、それだけで空間が広々として、物悲しく感じられた。一日は呆気なく過ぎて行って、ぼくの世界から誰がいなくなったとしても、一秒たりとも歩みを緩めることは無い。まるで、無声の活動写真を眺めているような気分だった。


 ――ぼくの選択は、正しかったのだろうか。


 過去と、向き合うと決めた。でも結局、記憶は戻らないままだ。

 皆のためになると思ってやったことは、結局、誰を幸福にできたのか。ネリーは失われ、二度と戻ることは無い。メグはネリーという半身を失って深く傷つき、これからもその手を血で染めていくのだろう。マユミさんと耶衣子ちゃんはぼくの元を去って、もう会うことも無いのだろうか。

 研究の暴露は、テロリズムを未然に防止して多くの人の命を救ったのかもしれないが、ぼく自身は、より一層不幸になった気がした。

 

 分かっていたはずだった。覚悟もあった。

 ぼくを巡る事件を終わらせるという事は、ここからマユミさんも耶衣子ちゃんも、居なくなるってこと。いざその時が来てみると、二人は計り知れないほどに、ぼくの生活に影響を与えていたという事が、よく分かった。


 それでも、ぼくは後悔していない。するわけにはいかない。

 過去を見つめ、前を向く勇気をくれたのが耶衣子ちゃんとマユミさんの二人で、その勇気まで萎びさせてしまっては、さよならも礼も言えずに別れた二人に申し訳が立たない。ぼくが前を向いて歩いていくのは、彼女たちへの感謝の表れでもあるのだ。

 

 静かな家に、煩いほどのチャイムが鳴った。

 ぼくは思わず肩を震わせて、慌てて手についた泡を落として洗い物をそのままに、玄関へ向かった。

 こんな時間に誰だろうか。時間は、もう二十時を回っている。


「はいはーい」


 言いながら、ドアを開ける。生暖かい夜風が家の中に吹き込んだ。

 ぼくは、それからたっぷり三秒は、口を開けて固まっていた。


「久しぶり、凛音」


 小柄な、黒い髪の少女が、闇と見まがう黒いワンピースを着て、そこに立っていた。


「転校、したって」


 ぼくは、開けっ放しの口からようやく言葉を紡ぎ出した。


「するわけない」

「いままでどこに行ってたのさ」

「熱海。有給休暇、消費してた」


 ぼくは呆れて何も言えなくなって、途端に笑いが込み上げてきた。


「あはは、なんだかOLみたいだ」

「社会人だし」


 耶衣子ちゃんは、ムスッとした顔で黙った。


「……今日は、何の用事?」

「私、怒ってる」

「えっと……なんで?」

「あの日。メグとネリーとマユミには一緒に暮らそうなんて言って、私を除け者にしたから」


 彼女の黒い瞳が、射抜くようにぼくをまっすぐ見ていた。


「あれは、だって、耶衣子ちゃんにも家庭があると思ったから……」

「謝る?」

「……うん。ごめん」


 ぼくが下げた頭を、上げ直した時だった。

 ぼくの腕は、耶衣子ちゃんに掴まれてしまっていた。


「行くよ、凛音」


 小さく微笑んで、ぐいと、ぼくの腕を引っ張る。


「え? 行くって、どこへ? こんな時間に」

「うーん……中東?」

「日本ですらないの?」

「私と一緒に暮らすんでしょ」


 耶衣子ちゃんは、ぐいぐいとぼくを引っ張っていく。そのか細い腕のどこに、これだけの力があるんだろう。それは彼女の意志の力に違いなかった。


 今が夜でよかったと思った。ぼくは、胸の高鳴りで自然と顔が綻んでしまっていた。もしこんな顔を耶衣子ちゃんに見られたら、どんな軽口を言われるか分かったものではない。


 沢山の不幸がぼくや、ぼくの周囲を見舞った。でも、耶衣子ちゃんと一緒に居る今のぼくは、確かに幸福だと思えた。そう、結局は捉え方次第なのだ。

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