第37話 終幕
さしあたり、これからどうしよう。いや、まず資料だ。マユミさんはぼくに資料を見させたがっていたけど、あれはいったい――。
微かな空気の漏れる音とともに、暗い部屋に突如として光が増した。光源は、部屋の出口だった。耶衣子ちゃんが倒れていたすぐそばの出入り口の扉が開いていて、そこには光の陰に誰かが立っていた。
誰かが、何かを叫んだと思った。
人影から火花が弾けた。
鈍く、くぐもった音が、床を鳴らした。硝煙の匂いが、どこからか香った。
「うそ……」
掠れた声。
声が聞こえたはずだったのに、ぼくは無声映画を見ているみたいに、ただ目の前の光景を、目で追っていた。
ネリーが、メグのすぐそばで床に倒れている。闇に溶けていた姿には今、出口からの光に照らされて露わになっていた。金の髪が赤黒い水たまりに浸り、その黄金の穂先は赤に染まりつつあった。
「ネリー!」
「だから碌なことにならないっていったんですよ。石黒さん」
メグは叫んで、足元のメグを抱き起した。ぼくは声にならない声を、口から吐き出して、その声の主に目を凝らした。
浅黒い顔に、嫌らしい笑みを浮かべている。
あの広報部の、槙野とかいう男だった。
「あんた……何を……」
ぼくの口は、意思に反して勝手に動き、言葉を漏らしていた。
「ご子息も、至って変化なし。秘密の情報をバラしにバラした、その成果はありましたか? 石黒さん」
槙野は、一歩、部屋の中に足を踏み入れた。するすると扉が閉まって、出入り口から漏れていた光は、再び線のように細い頼りないものとなった。
部屋は再び暗がりに包まれた。
「……まだ、途中です」
ぼくの位置から、メグを挟んでちょうど部屋の反対側あたりで、影が立ち上がった。マユミさんだ。
「まだ終わってなかったんですか。これだから公僕は。ビジネスはね、スピードが命なんですよ。さっさとやらなきゃ」
「血がこんなに……。ネリー……? ねえ、ネリー‼」
「煩いなぁ……。こっちが話してるでしょうが」
ぼくは咄嗟に、槙野の前に立ちはだかった。持ち上げかけた拳銃を持つ手は、ぴたりと途中で止まった。
「おー。カッコいい。さながら、気分はヒーローですか」
目の前の男は、唇を捲り上げてニタニタと笑った。
「……槙野さん。あんた、自分が何をしたか、分かってますか」
「ガキの癖に偉そうな説教をコクなよ。ドブネズミを一匹、駆除しただけだ」
一瞬で、血液が沸騰したかと思った。
ぼくは、槙野に掴みかかっていた。
しかしその手は空を切り、上背のある槙野に顔を掴まれ、ぼくは後ろに思い切り投げ飛ばされた。踏ん張りもきかず、後ろにある机に強かに腰を打ち付けた勢いのまま、机の上でもんどりを打った。視界が瞬間、火花のように明滅する。
腰と後頭部の鈍い痛みを堪えながら、打ち付けた頭を持ち上げた。
「たまらないねえ。暴力。蹂躙。これほど気持ちのいいものはない。戦争がなくならない理由が分かる気がするよ」
「お、まえ……」
「分かるかい? 比米島くん。人間の本能は闘争と支配なんだ。何故、数ある生物の中で、人間だけが火を持つことが出来たか。道具を作り、扱うことが出来たか。
闘争だよ。人の能力は、戦い、支配するために進化してきたんだ。高校でも習うだろう? チャールズ・ダーウィンの進化論という奴だな。最初は、小さな変化だった。生存競争を生き残った闘争本能の強い個体が、次第に種を席巻し、本能は磨かれ続けた。そんな人類に、プロメテウスは、火を、蒸気を、核を次々ともたらし、人間は食物連鎖の頂点に立った。人間は生まれながらの本能として闘争が大好きで、快感ですらあるんだよ。もちろん、私もね」
その醜悪な笑みは、暗がりの中でもひと際、腐臭を放っているかと思う程忌々しいものだった。
ぼくの中の痛みは、すでに怒りへと置き換わっていた。机の上から、身体を滑らせて、床に足を付ける。踏ん張ったはずの足はふらついて、思わず膝をついた。
「覚えておくと良い。人間に大切なのは筋力、知力、決断力だ。そういう大人は大成する。おっと、君が大人になることは、未来永劫ないが」
音もなく、槙野の腕はぼくの方に向けられていた。
「待ってください! まだ、私の計画が途中だと言ったはずです!」
マユミさんが叫んで、槙野に詰め寄ろうとした。槙野は首だけを動かして、マユミさんに目線を寄越した。
「わかりませんか? 室長は先ほど、あなたの計画をリスクと判断した。見たところ、ご子息には記憶が戻ったような気配はなく、大した成果も出ていないようだ。それどころか、紛れ込んだネズミにまで大切な情報を握られかけている。困るんですよね。最近、織幡とかいう遺伝子研究の主任まで、何やら探る動きをしてる。情報統制ですよ。あなたの役目も、ネズミの役目も、今日で終わり。よかったですね」
「そんな、急に」
マユミさんは食い下がる。
「聞こえませんでしたか。お役御免だって」
ぼくを狙っていたはずの槙野の腕は、音もなくそのまま横にスライドしていく。一瞬だけ灯った火花が、部屋を、槙野の醜い笑みを照らした。
マユミさんが、後ろによろけて、倒れ込んだ。
ぼくは、叫んだつもりだった。
「クソ、着こんでやがるな。無駄弾を撃たせるなよ」
槙野がもう一度、横たわるマユミさんに照準を合わせている。ぼくは叫びながら、なりふりをかまわず、槙野に突進した。
声に驚いたのか、一拍遅れた槙野の懐に飛び込むことに成功した。そのまま、槙野を抱きかかえるように身体をぶつける。
耳元で、轟音がした。
耳鳴りがして、一瞬の間、世界から音が消えた。
床に押し倒そうとしたぼくは、根を張ったような槙野の身体を倒し切れず、頭を、肩を、背中を、ガンガンと痛みが襲った。額から、何かが顔を伝っていくのが分かった。
一瞬、槙野の抵抗が止まった。よろけるように、一歩後ろへ後ずさる。理由は分らなかったが、ぼくは渾身の力で槙野を壁に押し付けるように、身体を前に押し込んだ。槙野の身体は、再び力を取り戻して抵抗した。
頭の後ろで、銃声が轟いた。かまうものか。
二発目の銃声が聞こえた。
その時だった。ふっと、糸が切れたみたいに、槙野から力が抜けた。びくん、と痙攣したように身体が弾け、ぼくは勢いそのままに槙野と共に床に倒れ込んだ。槙野の身体に回した手が床に押し付けられて、ぼくは呻いた。
床に挟まれたぼくの腕が、じんわりと、温かい液体に濡れた。慌てて引き抜いた腕は、暗闇でも分かるほどに、黒く、汚れていた。
呆然と、ぼくは横たわったままの槙野を見る。
拳銃を握りしめたまま、四肢を投げ出している槙野。その首元から、何かが飛び出していた。
ぼとっ、ぽとっ、と、粘性のある液体が床に滴り落ちる音が聞こえた。
それは、ぼくのすぐ隣からだった。そこには誰かが立っていた。
長い髪。それは所々が闇に馴染むように黒く、毛先は自由を失って重力に引かれていた。液体は、その先端から滴っていた。
「メグ……」
ぼくの声に、彼女は我に返ったようになって、身を翻した。
足を引きずりながら、床に横たわるネリーの下へ向かっていく。ぼくは誘われるようによろよろと立ち上がり、メグの後を追いかけた。
血溜まりのなかに、ネリーがいた。その顔と髪が。浮き上がるように白い。空気の漏れる様な呼吸が、微かに聞こえている。彼女の両手は腹部を押さえるように組まれて、そこから、彼女の命が漏れ出していた。
すぐそばに、耶衣子ちゃんが座り込んでいた。顔を俯かせ、その目はネリーへと注がれていた。
「ミーシャ……」
メグが、床に座り込んだ。ネリーの手を取って、顔を覗き込む。
「どうして……私を、かばったりなんか」
メグの声が震える。頬を伝った涙が、ネリーの顔を濡らした。
薄く、ネリーの瞳が、開いた。
「ミーシャ‼」
ネリーの手は弱弱しく、探るように持ち上がって、メグの顔に触れた。
「メグ……傷……」
その指が、愛しむようにして一筋の線をなぞる。そこからは、鮮血が滲み出るように零れた。
「馬鹿。私の傷なんて、どうでもいい。それより、あなたが……」
メグは声を押し殺して嗚咽した。ネリーの一言も、聞き洩らすことの無いようにと、顔を一層近づける。
「……顔が、見えない……。真っ暗で……」
血だらけのネリーの両手が、メグの顔を包み込んだ。目を閉じたメグは、肩を大きく震わせながら、目を瞑り、ネリーの探るような両手を受け入れていた。
「……見えたよ。メグ……君は、どれだけ、傷ついても……。一番、美しい……ボクの、自慢の」
ネリーの手が、ゆっくりと重力に引かれていく。名残惜しむような両手が、メグの顔を少しずつ、離れていった。
「アーリャ。私は、アーリャよ……。ねえ、ミーシャ。メグじゃないわ。もう一度、名前を、呼んでったら……」
激しい嗚咽が、哀しみが、無機質な部屋を染め上げていく。折り重なるように身体を合わせる二人の少女は、黒く汚れ、その黄金を漆黒に浸していた。
その光景は何人にも侵すことのできない、入り込む余地のない拒絶を伴っていた。身を引き裂くような絶望の慟哭は、ぼくの耳を決して離れることは無かった。
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