第36話 それは、明るい未来の選択肢

「メグ」


 こつん。

 ぼくが発した後、靴音の尾を引く残響を残して、部屋は静寂に包まれた。


「……なんでしょう?」

「久しぶりだから、話をしたいと思ってね。元気そうでほっとしてる。ネリーは元気かな?」

「ええ、それはもう。この日を待ちわびていました。リオンとマユミに会える日を。生死は別でね」

「それは……よかった。ぼくは、二人のことが心配だったんだ。本当に」


 話していると、喉元から心臓が飛び出そうになる。周囲の気配に全神経を集中させて、探った。メグは立ち止っているようだ。


「そう、ありがとう。私がお返しできるのは、こんな言葉と弾丸くらい」

「そんなことはないよ。メグは、今からすべてをやり直すことだって、できるじゃないか。まだ、何も起こっちゃいない」


 本心だった。ぼくは、力を込めた。


「だから、もうやめよう。メグは、さっきのぼくたちの会話を聞いていたんだろう? ぼくは、死のうが生きようがどちらでもいい、密閉された箱の猫みたいな存在だ。ぼくのために君たちが汚れる必要なんてない。それどころか、これ以上身を割く必要だってない。君達を受け入れる。だから――」


 ぼくは、手を握りしめた。手の平からは闇がすり抜けていったけれど、包まれた熱は血液に宿って全身を駆け巡っていく気がした。


「ぼくの家で、一緒に暮らそう。メグ、ぼくらは家族になるんだ」


 部屋は再び静寂に陥った。

 鼓動が、周りに聞こえるんじゃないかと思った。音を掻き消すように、ぼくは続けた。


「君たちがどうしてこういう仕事をしているのかは、訊かない。でも、それももうやめて欲しい。学校に行って、卒業して、働いて、普通に暮らす。お金は……全部両親からのものだから偉そうなことは言えないけど、メグとネリーが働けるようになるまで、ぼくが二人を養う。だからこの国で、ぼくの家で、一緒に暮らそうよ」


 ぼくは声を絞り出した。

 それは、メグに襲われた夜からぼくがずっと考えていたことだった。

 二人が稼業をしているのは、何か訳あってのことだろう。あれだけ笑顔を振りまくメグやネリーが、芯から人殺しを愉しむような人間とは、決して思えなかった。だからその訳さえ取り除くことが出来たのなら、二人は普通の可愛らしい少女として、普通の生活に戻れるはずなのだ。


長い、間があった。

十か二十か、それぐらい脈拍を打っていた気がする。


「……それは、無理」


 震えた呟きが、静まった部屋を満たした。


「その理由は?」

「大きな借金がある」

「それぐらい、ぼくが返す。なんなら、ぼくの家や土地を売ったらいい。それでお金を返して、田舎の古いアパートにでも住むんだ。ちょっと手狭かもしれないけど、場所の問題じゃない。安心できる誰かと、楽しく食事をして、毎日を過ごす。それが大切なんだ。朝ご飯はメグに作ってもらって、夜はぼくが作る。マユミさんとネリーは、残念だけどお皿洗いだ。メグやネリーなら英語も喋れるから、観光地に行けば仕事は引く手あまただろう。ぼくらが本当にそう願うなら、なんだってできるさ。ねえ、だから――」


 喋りながらぼくは、その陽だまりの日々を夢想した。小さなちゃぶ台を囲むぼくらには、なんの確執も無かった。今日はこんなことがあったと、楽しそうに喋るメグ。静かに笑うネリー。安酒を飲んで管を巻くマユミさん。そんな皆を見て、ぼくもまた、微笑んでいる。


「ねえ、どうして?」


 その光景は闇に滲むように溶けて消えていき、ぼくは現実に引き戻された。


「どうして、そんな風に……他人に優しくできるの?」


 縋るような、泣き出しそうな声は、ぼくを糾弾しているようにも聞こえた。

 気が付けばぼくは、立ち上がっていた。

 ゆっくりと振り返って、暗がりに目を凝らした。闇の中に、浮き上がるような白銀の少女が儚く立っている。おさげにした髪が、小さく揺れている。


「メグ、それは簡単なことだ。皆がぼくに優しくしてくれるから、ぼくは皆に優しくなれる。メグはぼくに可哀想な人だと言った。ぼくは確かに、色々なものが無くって、無知だけど、でも、ぼくでも知っていることがある。誰かが笑顔になればぼくの心は温かくなるし、きっとぼくの笑顔でも、誰かを温かくできるってこと」


 そうしてぼくは、目一杯の笑顔を作った。こんな暗がりでもメグに届くように。こんな所じゃない明るい場所で、メグの笑顔を見られることを願って。

 彼女は目線を床に這わせ、痛みに耐えているように見えた。彼女の心は晦冥の中にありながら、光を求めて中空を揺蕩っているようだった。


 メグの背後で闇が動いた。

 たん、という軽快な音を立てて床に丸まったそれは、すぐ人影を形作った。


「メグ……」


 影が口を開いた。陽の下であれば黄金色に輝いているはずの髪は、暗がりの中でも僅かな光を集めて銀に光る。メグより些か短く見えるその髪は、後ろで束ねられているからだった。


「メグ、どうしたの」


 ぴくり、とメグは肩を震わせた。

 人影がメグの隣に並んだ。彼女たちは――メグとネリーは、鏡写しの陰と陽だった。


「任務は、どうするの」


 答えはない。メグは依然、固まったように視線を留めていた。


「……迷っているんだね」


 ネリーの手が、メグの右手に重なった。よく見れば、その手の甲は包帯がまかれ、黒い染みが出来ていた。


「悩むことなんてない。簡単だよ」


 ネリーは、そう言ってメグの右手を、ゆっくりと持ち上げた。

 その銃口は、まっすぐ僕に向かっていた。


「ネリー……?」

 戸惑った声は、メグからだった。


「いつもと同じだよ。その右手の指先を、少し動かすだけさ。そうすればボクたちは、自由に近づくんだ。ボクはね、メグと一緒に居られたらそれでいいんだよ。それ以上のものは要らない。望んじゃいけないんだ。ボクらの肩には、ボクらが積み上げた数多の命が乗っかっている。彼らはそうして、ボクらの行く末を見ているんだ。ボクらを憎み、ボクらの未来が不幸であれと願っている。分を超えた望みは、きっとボクらを滅ぼす」


 囁くような彼女の言葉は、彼女自身を雁字搦めに縛り付けている。それは混沌としてどす黒い呪いだった。同時に、彼女が不健全な精神に対抗するための祝福でもあったに違いない。

 背中を這う悪寒を、ぼくは無視した。差し伸べた手をひっこめる気にはなれなかった。ぼくが掬い上げなければ、彼女たちは深淵の水底に深く沈みこんでいく。


「ネリー……どうして君は、それほど内罰的なんだ? ぼくには、きみが幸福を恐れているように見える」

「恐れている? そうかもしれないね。幸福は、状態じゃない。変化だ。だからいつか限界が来る。山と谷があって、幸福を上り詰めれば、その先に待っているのは不幸だ。幸福の絶頂の後、耐え難い不幸を感じるくらいなら。ちょっとした幸福を噛み締めたい。ボクのささやかな夢は、なにかおかしいだろうか。……否、変わらないはずだ。それどころか、君の語るファンタジアよりよほど謙虚だ」


 そう、笑った。彼女の手は、震えるメグの手を優しく包んでいた。


「……ぼくの幻想が、正しくないのは、分かる。幸福を求めないというネリーの方が倫理的ですらある。人を殺めた罪は、どんな形であれ償うのが道理なはずだ。それが正しい。だから、君たちが正しくある分、ぼくが間違う。ぼくが、君たちを助けるという罪を犯す」


 人の命は等価だろうか。

 命は命であがなわれるべきだろうか。

 沢山の命を奪ってきた彼女たちは、自らの身を呪って、死より忌まわしい残酷な生を甘受すべきだろうか。

 ぼくは自問する。

 その答えは、連綿と続く人類史のなかで否定されている。人の死は等価ではなく、一つの死は一つの死でもってあがなわれることは無い。


 あがなうことなどできないのだ。命は唯一であって、他のものと合わせて一つ、二つと数えられるものじゃない。

 それ故に、ぼくは彼女たちを助けたいと思った。幸せを願った。昏い井戸の底に沈んだ命に、木漏れ日の光を見出して欲しいと思った。それは、身勝手で、独善的に違いなくとも、ぼくは二人を救いたかった。


「……ぼくが、二人を赦すよ」


 ぼくは、自分の手を彼女たちに差し出した。

 ちらと、メグは傍らのネリーを見た。そして、右手の拳銃を包んでいるネリーの手を、もう一方の手で押し留め、銃口を下げた。ネリーの顔からは、笑みが消えていた。ただ、ぼくの方をじっと見つめているようだった。


 マユミさんは、すっかり静かだった。ぼくが説得をしたい、という以前のお願いを覚えていてくれたみたいだった。

 メグとネリーに近い机と机の間に、ちらりと人影が見えた。ぼくは、その人影に向かって、小さく首を振った。彼女に危険な真似をしてもらわずに済んで、良かったと思う。


 もし、耶衣子ちゃんがあの時――ぼくが彼女を連れて逃げ出す算段を捻り上げていた時――身体を起こしていなかったら、ぼくはこれほど大胆な説得の決断はできなかったと思う。彼女は、こちらに小さく頷いてくれた。もしメグが、拳銃を使うような事態になってしまえば、ぼくにはどうしようもなかった。耶衣子ちゃんに全てを託していた。

 ぼくは、ふっと息を吐いた。

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