第35話 再来
冷たい何かが背筋を這いまわるような感覚があった。薄ら寒くなって、ぼくは思わず肩を震わせた。口の中が渇いていた。
発端はこの研究だったのだ。
突然変異した炭疽菌。それこそが取引の対象だった。大量殺戮兵器に転用可能な技術どころか、生物兵器そのものではないか。研究所とロシアとのパイプがどこで生まれたのか、取引の目的が何なのかは定かではないが、平和的な目的で取り扱われるとは到底思えない。
「こんなもの……ここの人達はどうするつもりなんですか」
平静を装うこともできなかった。あの研究員の溝口によれば、炭疽菌はアメリカでのテロでも使われたのだという。同様の手法で使われない保証は、どこにもない。
「……さあね。私が知るところでは無いわ」
やや間があって、隣のマユミさんからぶっきらぼうな答えが返ってきた。
「知らないって、そんな! マユミさんはなんで、なんのために――」
視界の横で金属同士が激突したような、轟音がした。
反射的に音のした方を振り向こうとしたぼくは、強い力で押しのけられて、後ろ向きにひっくり返り床に倒れ伏した。危うく床に頭をぶつけそうになるのを、なんとか床に手を突いて身体を支える。
直後に、鉄板に金槌を打ち付けたような耳をつんざく大きな音が二回、三回と続いて、その煩さに思わず腹ばいになり、耳を塞いだ。
音は、それきりだった。
耳鳴りのような残響が、頭に依然として響いている。ぼくは息を潜め、ゆっくりと、耳を塞いでいた手を放して、周囲の音を探った。小さな息遣いがあった。光の少ない部屋の中に、焦げ臭いにおいがぷんと漂っていた。
「ハァイ。ハウアーユー?」
聞き覚えのある、高く澄んだ少女の声。滑らかな英語。危うく飛び出そうになった声を、慌てて飲み下す。部屋はしんと、沈黙していた。
「ンー。元気がないデス。でも、まだ死んでいないんでしょう? うふふ」
心臓が激しく飛び跳ねた。足りない酸素を取り入れたい欲求を必死で抑えて、ゆっくり、息を吸い込む。
声のした方は、耶衣子ちゃんのいる部屋の出口の方向とは反対の方向だった。机が陰になって、ちょうどぼくからは声の主が見えない。ぼくはゆっくりと、机の陰から目だけをのぞかせた。
誰かが、ステンレスの大きな匣の横に立っている。小柄で、細身のシルエット。衣服は闇に溶け込むような暗色だった。暗がりの中で、その人物の長髪は白銀に浮き立っていた。
マーガレット・ハワードその人に違いなかった。
ぼくは、またゆっくりと、机の陰に身を隠した。脈拍はなおも、どくどくと、その調子を上げて勢いよく巡っている。
――いったい、彼女はどこから。
「無視は寂しいデス。 ねえ、リオン?」
口の中に溜まった唾を、ごくりと飲み込んだ。音を立てないように、周囲を見回した。
正面の方向に離れた壁際には、床に倒れている耶衣子ちゃんがいた。まだ気を失っているようだった。ぼくの周りに、マユミさんの姿は無かった。咄嗟にどこかに隠れたらしかった。
マユミさんは、今もなお拳銃を持っているはずだった。先ほどの音からすれば、メグもまた、ぼくらを狙って発砲をしたに違いない。ぼくはマユミさんと交わした約束を思い出していた。
メグとネリーを無力化して捕えられたなら、ぼくが説得をする。
けれどその約束は、今のマユミさんにとっては守る必要の無いものに思えた。マユミさんは自分の命を守るためにメグを無力化し、メグもまた自分の任務のためにぼくら二人を殺す気でいる。二人の衝突は避けられそうにない。どちらかが、力尽きるまで。
「マユミ。私はあなたに会えるのも楽しみにしていました」
離れた机で、金属がはじける音がした。
「あぁ……手が痛いわ。この銃を撃つたびにじくじくと痛むの。泣きたくなるくらい痛いの。早くあなたに御礼がしたいのよ」
もう一度、発砲があった。直後に何かが、がしゃんと床に落ち、騒々しい音を立てて床を滑る音がした。
ぼくは煩いくらいに脈動する心臓を押さえつけて、頭を巡らせた。
メグは最初の標的としてマユミさんを狙っている。彼女からすれば、ぼくは無力も同然だから、当然だろう。マユミさんは対峙するしかない。二人が衝突すれば、反対にぼくに構っている隙は無くなるはずだ。
――二人が衝突した瞬間に、逃げる?
出口は、見たところ一つだ。倒れている耶衣子ちゃんのすぐ近く。彼女を助け起こして、出口の扉から逃げる。だが、そもそもあの扉は開くのか? この部屋に残った二人はどうなる? ぼくを追いかけてくるだろうか。それとも二人はこの部屋で、どちらかが力尽きるまで――。
こつん、と、足音がした。こちらへ近づいてくる。音の聞こえる方向からして、メグだ。
二人の邂逅は時間の問題だった。もう何かを考えている余裕はない。ぼくは目指すべき出口を見た。
目を見開き、止まりそうになった息を再び大きく吸い込む。かぶりを振って、意を決した。
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