第31話 偽りの家族

「……凛音、こちらへ来て」

「…………」


 言葉は失われた。

 ぼくが失ったんじゃない。勝手に、どこかへ行ってしまった。


「……こちらに来なさい」


 出口から伸びる線上の明かりが、耶衣子ちゃんを後ろから照らしている。まるで薄氷の上に辛うじて立っているように、ぼくを拳銃で脅している彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。


「馬鹿なことはやめなさい」


 マユミさんの張り詰めた声が聞こえた。

 どくどく、ぼくの心臓は暴れ馬みたいに飛び跳ねて、それでも指先一つ動かせずにいた。もし動かしてしまえば、途端にこれが現実の出来事になってしまうようで、ぼくは馬鹿みたいに突っ立っていた。


「耶衣子ちゃん……?」


 やっと、声だけが、喉からせり上がった。それを言うだけで、疲れがどっと身体に襲い掛かってきた。

 それでも依然変わりなく。現実は、ただそこに元のままあった。


「どうしたのよ。お化けでもみたような怯え方して」


 悪夢に怯える子供を、優しく、宥めすかすようなマユミさんの声が後ろで聞こえた。

 口元を歪め、耶衣子ちゃんは忌々し気な冷笑を浮かべた。


「お化け……ね。私が見ているのは、アンタって化け物」

「なにそれ、酷いわね」


 ――ぱしゅん。


 と、後ろで、同時に何かが光った。

 次の瞬間には、耶衣子ちゃんは地面に崩れ落ちていて。


 ――ぱしゅん。


 彼女が取り落とした拳銃は、轟音と共に粉々に破壊されていた。

 ぐっ、と苦悶の声がした。

 スローモーションのように、耶衣子ちゃんが床に横たわった。


「どう? 同じ個所を二回撃たれた気分は」


 そう言ったマユミさんはぼくの横を通り過ぎて、耶衣子ちゃんのもとへと歩いていく。スーツ姿のマユミさんの、カツカツという床を鳴らす無機質な音が、暗がりの部屋に不気味に響く。腹部を押さえて身体をくの字に曲げている耶衣子ちゃんのすぐ手前で、彼女は立ち止った。そうして、見下す。足元では耶衣子ちゃんが、身体を二つに折り畳み、苦しそうに喘いでいる。


「何か喋ってみなさいって!」


 途端、耶衣子ちゃんの身体が人形のようにふわりと宙に浮いたかと思うと、凄まじい勢いで壁に激突した。鈍い音を立てて、壁は無情に少女の華奢な身体を弾き返した。

 げほ、げほと咳き込む声。

 マユミさんが彼女の腹を蹴り上げたからだった。


「ったく。ガキの惚気を見せられてる独身の気分にもなってみろってんだよ。こちとらもう三十路だぞオラッ!」


 二回、三回。

 砂袋を蹴るようなくぐもった音がして、その度に空気を押し出す苦悶の喘ぎが、掠れたように響く。目の前で繰り広げられる暴力に、ぼくは紙芝居かパントマイムだかを観劇している子供のように、この光景に息を呑み、ただ漫然と眺めてしまっていた。


 四回、五回。

 生々しい音と、荒々しい呼吸が、聞こえる。


「……マユミさん!」

 ようやく、ぼくは叫ぶことができた。

 ぴたり、と彼女の動きが止まった。

 少女の掠れた呼吸だけが聞こえている。それだけの異様な静寂に、ぼくは思わず身震いした。

 振り向いた彼女は、その顔に張りつけたような笑顔を浮かべていた。


「あっはは。ごめんね。ちょっとイライラしちゃった」

 

 思わずぼくは、半歩、後ずさった。

 頬に朱がさしている。その笑顔は余りにも悦楽に満ち満ちていた。


「……にげ……」 

 

 身体を丸めてうずくまっている耶衣子ちゃんの声は、今にも消え入りそうで酷く痛々しかった。口元に血の跡が走っている。苦痛に歪むその目がこちらを見ていた。

「逃げるって? 鬼ごっこはここで終わりだよ。ここが終着。逃げ場なんてないんだよ」

 マユミさんは、耶衣子ちゃんの小さな顔を踏みつけた。その足に少しずつ体重をかけているのが分かる。


「ぐぅっ……!」

「もうやめてよ! マユミさん‼」


 無言でマユミさんは足元の耶衣子ちゃんを見ていた。それからゆっくりと足を離したマユミさんは、靴のつま先で耶衣子ちゃんの額を小突いた。為されるがまま、耶衣子ちゃんの頭が揺れる。


「可愛い飼い犬のままなら、痛い目に遭わなくて済んだのにね」


 落とした書類をひょいと拾い上げる様な気軽さで、マユミさんは腰をかがめて、倒れている耶衣子ちゃんの髪を左手でくしゃと鷲掴みにした。そのまま髪を引っ張り上げて、造作もなく耶衣子ちゃんを持ち上げる。

 彼女は苦痛に顔を歪めた。短い喘ぎは、一方的な暴力の前にただ無力であった。

 

 ――彼女はいったい、なにをやっている。


 こめかみがじんじんと痛むほど、脈打っているのが分かる。マユミさんの苛烈な攻撃は、彼女の職務としての正義感から来るものではないことは、もはや明白だった。その行為は甚だ懲罰的でありまた、彼女の著しい嗜虐性が垣間見えていた。


 頭の中が真っ白になった。

 気が付けば、ぼくはマユミさんの背中に向かって突進していた。細い腰に縋りつくように、思い切り倒れ込んで体重をぶつける。


 目の前で、何が起こったか分からなかった。マユミさんはさっと身を引いたように見え、標的を失って失速したぼくは、次の瞬間には床に倒れ伏せていた。身体の左側面から思い切り固い床に身体を打ち付けて、鈍い痛みが襲う。肺から空気が押し出されて、思わず呻いた。


 目の前には、壁に身体を預けて座り込んでいる耶衣子ちゃんの姿があった。凛音、と掠れた声が震えていた。ぼくは返事をする代わりに、彼女に向かってにっと笑ってやった。どうやら、耶衣子ちゃんの髪を掴んでいたマユミさんは、ぼくのタックルでその手を離さざるを得なかったようだった。


 ぼくは、そばにあったマユミさんの足首を両腕を回してかき抱いた。

「……もう、いいよマユミさん」

 やっとのことで、その言葉を絞り出した。けれども、その返事はぼくが予想していたどんなものとも違った。


「……誰かを思い通りにしたいと思ったらね。権力か、暴力か、報酬か、そのどれかが必要なのよ。あなたは何を持っているかしら」

「なにを――」

「何も無いわよね。私があなたの言葉に耳を傾ける理由。だったら黙って、見ていなさい」

「……そうやって、凛音の両親も……痛めつけた」


 微かな声。

 暗がりの部屋から、音が消えてしまった気がした。

 誰も動かなかった。先ほど頭を軽く打ったせいか、じんじんと痛む頭が幻聴を聞かせたのかと思った。一度、耳を通って頭を通り過ぎていった言葉を、ぼくは二度三度と、反芻する。その意味を理解するまでのぞわぞわとした胸の心地は、次第に大きな脈動に変わっていき、その間、呼吸を忘れてしまっていた。


 その言葉の羅列に一つの意味を見出して、ようやく息を浅く吸い込んだとき、時間は再び動き出したようだった。

 耶衣子ちゃんは、目の前に直立するマユミさんを見上げ、睨みつけていた。弱弱しく壁に体重を預けながらも、糾弾するその瞳は力強く燃えていた。


「……よくある話。信心深げな顔つきと、恭しい態度で、悪魔の本性一面に砂糖の衣をまぶすのは」


 少女の途切れがちな嘲りを、マユミさんはただじっと、見つめていた。


「……ずっと、疑問だった。どうして、凛音の両親の、通報が、それほど早く……バレてしまったんだろうって。その答えの一つは、マユミ。あなただった。簡単なこと。あなたが研究所側の人間だったのならば」

「…………」

「……そうすると、すっかり、腑に落ちた。何故あなたが、凛音の家に住み着いたのか。何故あなたが、都合よく……メグの襲撃に駆け付けられたのか。……あなたは、凛音を監視していた」


 まるで騙し絵のごとく。可憐な耳飾りの少女が鉤鼻の老婆へと変貌するように、目の前の光景が蜃気楼となった。鼓動が早鐘を打っている。


 自然と、記憶にあるマユミさんを思い起こされた。

 初めて家に足を踏み入れた時、彼女はおかえり、と言った。そのときになってようやく、ぼくはぼくの家を理解できた。ぼくはむず痒い心地で、ただいまをしたことを覚えている。彼女はぼくを家族だと言ってくれた。


 家ではスウェット姿でだらしなくソファに寝ころび、料理もまともにできないで、ぼくの料理を美味しいと言って食べる。お酒が入ると職場の愚痴を並び立てるマユミさんを、ぼくはよく嗜めた。


 耶衣子ちゃんと一緒に居ると囃し立ててきたり、学校の出来事を語ったときは、穏やかな顔で満足そうな顔をしていた。

 ぼくには母さんの記憶だってない。だから母親や家族が居たら、きっとこんな生活なんだろうと、ぼくは想像していた。寧ろそう思わせるために、彼女は腐心していたのだと思うのだ。彼女はぼくを家族として受け入れ、ぼくもまた彼女を家族として受け入れた。

 それはたかだか数か月の出来事に過ぎなかった。それでもぼくにとっては、十数年のうちの数カ月ではなく、数カ月のうちの数カ月の全てだった。


「本当、なんですか」


 ぼくはおもむろに、マユミさんを捉えていた腕を離して、体を起こした。返事はなかった。唐突におちゃらけて笑ったり、軽口を叩いたりすることもなかった。それは長い、長い、無言の肯定だった。

 ゆっくりとマユミさんを見上げると、視界が滲んだ。本当は見たくなかった。確かめたくなかった。暗くてぼやけた視界の中、滲んだ視界がマユミさんの顔を余計に見えなくした。


 裏切られていた、という怒りは湧かなかった。騙されていたという悔しさもない。様々な疑問が渦を巻きながら嵐になって通り過ぎ、後には物悲しさだけが残された。これまでの日常はただの夢で、夢から覚めてしまった以上はもはや、心地の良い陽だまりで夢想することなど許されず、ぼくの心はあてどなく、何かを求めて彷徨っていた。


 ぼくの夕食を勝手に頬張って笑っているマユミさんの姿が、浮かんだ。

 病院で懺悔していたマユミさんの姿が、浮かんだ。

 それらは部屋の暗がりに溶けて消え、無機質な部屋と同化していった。

 目の前のマユミさんは、直立不動のままでいる。


「……私の失敗は、貴女を選んでしまったことだわ」


 言い終わらないうちに、右手の拳銃を振り上げたマユミさんは、銃の台尻で耶衣子ちゃんの側頭部を強打した。ぼくが声を上げる間もなく、耶衣子ちゃんは再び、床に崩れ落ちた。


「唯一で矮小な失敗に過ぎないけれど」

「耶衣子ちゃん!」


 抱き留めようとしたぼくの眼前に、銃口が突きつけられた。


「動かないで」


 無感情な瞳が、ぼくを見ている。温かさは微塵も無い、寒々しい夜の荒野のような瞳だった。生き物一匹住んでいないと思えるような、断固とした拒絶がそこにはあった。


「耶衣子ちゃんの言ったことは、本当なんですね」

「……さあ。どうかしらね」

「ぼくの両親のことも……マユミさんのせいだってこと?」


 問いかけても、暗がりの中のマユミさんの表情はピクリとも動かなかったし、それに対する答えも無かった。ただ少しばかり、肩が上下していた。


「立ちなさい」

 ぼくは彼女の静かな瞳を睨み返す。


「嫌だ。答えてくれるまで、ぼくは動かない」

「痛い目を見るわよ」

「できないはずだ」


 確信が生まれていた。

 ぼくがそう言うと、マユミさんは僅かに眉を動かした。


「私があなたに、手加減するとでも」

「ぼくに死なれちゃ、困るんでしょう? マユミさんがもしぼくを最初から

殺すつもりだったなら、いつだって機会はあった。でもぼくは生きている。今だってそうだ。マユミさんは、ぼくを利用したいから、生かしている。だから……」


 言葉を切って、わざとらしく舌を突き出して、すぐに引っ込めた。ちらと、傍らで倒れている耶衣子ちゃんを見た。頭から血は出ていないようだった。おそらく気絶しているだけなのだろう。


「ぼくに従わないのなら、自分で死んでやる。これ以上、耶衣子ちゃんを傷つけることも、許さない」

「殺すわ」

「……え?」


 心臓が、どくんと跳ねた。拳銃の銃口は、床に倒れている耶衣子ちゃんの頭の方向に向けられていた。


「もしあなたが私に従わないのなら、耶衣子を殺す」

「そ、そんなこと――」

「できないと思う? もう一年待ったのよ。たとえ私が耶衣子を殺して、あなたが後を追っても、研究所は五年、十年かけても研究を取り戻すわ。勘違いしているようだけどね、あなたに絶対の価値なんて無いのよ。あなたは死んでしまっても良かった。家族と一緒に死ぬ予定だったし、双子を差し向けたのも、死の間際のあなたから情報が得られないかと考えられただけのこと。死んだら死んだで秘密は守られるし、生きていたら活用する。ただそれだけのことよ」

「それなら、なんでマユミさんは……耶衣子ちゃんは」

「守るべきものが無い人間ほど、扱い辛いものはないもの。何もないあなたには、守りたいと思う物が必要だった。いざという時、あなたを従わせるためにね。もっとも私は、あなたの監視とお守が主な任務だったけど」


 ――何もない。

 その言葉は再び、ぼくを抉った。ユーラシア大陸を、小指の爪ほど。

 ぼくは思わず笑っていた。目尻を零れ落ちそうになっていた涙を拭った。


「そうか、そんなことで……。ありがとう。ぼくはそのおかげで、耶衣子ちゃんや、色んな人とめぐり合うことが出来た。ぼくが守りたい人がいる、ぼくを守りたいと思ってくれる人もいる。最初のぼくには、確かに何もなかったかもしれない。でも今のぼくにはちゃんとある。マユミさんのおかげだ」


 彷徨っていたぼくの心は、ようやく着地点を見つけた気がした。

ぼくはやっぱり、マユミさんを嫌いになれなかったようだ。だとすれば、やるべきことはもう一つしかなかった。皆が幸せになる、そんな方法。

 ぼくは、立ち上がった。そうしてマユミさんと目線を合わせる。


「拳銃を下ろしてよ。ぼくはマユミさんの言う事に従う」

 その言葉は、不思議とすらすらと口を衝いて出た。マユミさんはぼくをじっと見てから、耶衣子ちゃんに向けていた拳銃を、ゆっくりと下ろした。


「そんなに警戒しないでよ。ぼくは、耶衣子ちゃんを守りたいし、それにマユミさんだって守りたいんだ」

 それはぼくの偽らざる本心だった。


「……どういう風の吹き回しかしらね。まあいいわ。変な事をすれば迷わず耶衣子を殺すから、そのつもりでいなさい。……後ろを向いて」


 後ろを向くと、すぐに背中に固い感触があった。前へ、と言われて、ぼくは言われるがままに進んだ。行く先には、机の上に横倒しになったペンライトがある。ライトの明かりは、机上に散らばっている書類を照らしていた。


「それに目を通しなさい。どれからでもいい」

 ノート、キングファイル、クリップ止めされた剥き出しの紙の束がいくつかあった。ぼくは、ペンライトを片手に持ち、ノートを手に取った。グレーの色で背表紙が黒い、どこにでもあるノートのようだった。表紙をみて、ぼくは思わず声を上げた。


「これ……」

「黙って読みなさい」


 背中が固い感触で、無遠慮に軽く押された。

 表紙には、達筆な字で日誌と書かれている。下の方には持ち主であろう名前も記名されていた。

 比米島孝一郎――ぼくの父だ。

 ノートを机の上において、左手に持ったペンライトで手元を照らしながら、右手でノートの表紙を捲った。ページの一番上に日付が書かれていて、日誌は二〇二五年の九月から始まっていた。

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