第30話 悪意

 暗闇の中。

 遠くで何かが擦れあうような、微かな音がした。それはときおり、ぶつかったような単発的な音をしたり、跳ね返るような連続的な音を出したり、電波のように間延びしたひっかき音を奏でている。


 それが人の声だと気付いたとき、ぼくは薄ぼんやりした世界に紛れ込んでいた。目を開けたはずなのに、そこはまだ夢の中のようだった。


「……目が覚めた?」

 くすぐったいような囁き声が、すぐそばで聞こえた。耶衣子ちゃんの声だ。


「あれ……ぼく……」

「気が付いたのね」


 少し離れたところから、マユミさんの押し殺したような声が聞こえた。

 目を瞬いていると、ようやくぼくの目は暗順応し、おぼろげながら現実を捉え始めた。ぼくは硬くつるつるした床に座り込んでいて、ぼくの隣には耶衣子ちゃんが座っていた。


 そこは見たことも無い広い部屋だった。

 ぼくの記憶を辿る限り、そこは家庭科室とか、理科室とか、そういう特別教室に近い作りをしていた。大きな机がいくつか置かれ、部屋の脇には暗闇の中で鈍く光るステンレス製の大きな匣が置かれている。左右と上面が覆われた勉強机のような装置には天井から大きな配管が伸びていて、見たところ吸気かガスを注入しながら作業を行う空間のようだった。その手の、専用に作られた部屋特有の人を寄せ付けない無機質な冷たさが部屋を満たしていた。


 天井はまだ工事中なのだろうか、剥き出しになっていて、ひと際大きなダクトやら金属製の梁やらが、縦横無尽に行きかっている。中には五、六本のらせん状をしたホースのような物もあり、それが天井から人間の腰のあたりまで垂れ下がっていて、暗闇の中のそれはまるで得体の知れぬ生き物のように見える。マユミさんはぼくらからほど近い机の上で、小さなペンライトで机の上を照らしながら、しきりに何かを見ているようだった。


「ごめん……急に、眠くなって」

 まだ眠気が残っていて、瞼は依然として重い。身体にも気怠さがあった。


「……まんまと盛られたようね」

「もる……?」

 遠くから聞こえた言葉を、モル、漏る、と文字を変換させていって、ようやくぼくの中で、それが盛るだという漢字を形成した。


「……あのお茶。それしか考えられない」

「会議室に置いて来たよね。もう回収されてるだろうなぁ。証拠としてくすねとけば良かったよ。傷害罪でしょっぴけたのに」


 立ったまま机に向かっていたマユミさんがこちらを向いて、乾いた笑いを漏らした。暗くてその顔色までは分からない。それからマユミさんは、再びなにかの作業に戻った。

 その割には、二人は随分ぴんぴんとしているのが、ぼくは疑問だった。


「あんな怪しいもの、飲む訳ないわ」

「でも、未開封だったし……」

「ここは医薬の研究所よ? 異物混入できる極細の注射器くらい、腐るほどあるでしょ」

 と、呆れるように言った。二人は随分と高い警戒心持っているらしかった。どちらかといえば、ぼくが間抜けなのかもしれない。


 不意に、ぼくの手がぎゅっと握られた。ぼくはびっくりして耶衣子ちゃんの方を見た。しなやかなその手は冷たく、小刻みに震えていて弱弱しい。

 どうしたの、と口を開きかけたぼくの口元に、耶衣子ちゃんの人差し指が迫った。暗がりの中でも白く浮き上がる彼女の顔が、ぼくのすぐそばまで近づく。困惑と緊張でぼくは置物みたいに固まって、ただ心臓だけが高鳴りをして、迫ってくる彼女を受け入れた。


「……体は動く?」


 吐息を感じるほど近く、聞き取れるか聞き取れないか分からないぐらい微かな声が、彼女の小さな口元から零れ落ちた。その顔は、不安を必死で押し込めた様に強張っていた。

 ぼくは黙ったまま、ゆっくりと腕と膝を曲げ伸ばししてみた。同じ姿勢で長いこと寝入っていたせいか、あちこち固まっているが動く分には問題なさそうだった。ぼくは彼女に向かって頷いた。


 耶衣子ちゃんは、人差し指でぼくの左方を指し示した。そちらの方を向くと、縦に伸びた線のような光が僅かに零れていて、そこは部屋の出口のようだった。

 ぼくの心臓は、先ほどとはまた別の理由で激しく脈打っていた。どうして彼女は、これほどこそこそと――まるで、マユミさんを避けるように行動しているのか。


 彼女の不安と緊張は、ぼくにまで伝染していた。でも、耶衣子ちゃんの行動の意図が全く分からなかった。マユミさんの近くに何か危険なものが迫っているのだろうか。

 マユミさんの方に目をやった。依然として、なにやら机の上で書類のような物を捲っているようで、彼女の背中からはこちらの様子に気付いた気配は見えない。そしてマユミさんの周りに何かが居る、といった気配も、感じられない。


「ここを、出る」


 ほとんど吐息のような声に、ぼくは耶衣子ちゃんの顔をじっと見た。彼女の顔に明確な怖れのようなものを感じ取った。その真に迫った表情に、ぼくは逡巡した。

 ぼくらに何か危険が迫っているのだとしたら、マユミさんだけを置いていくことはできない。でも、耶衣子ちゃんの表情には、もはやマユミさんに構っている余裕など無いほど鬼気迫るものがあった。


 反応のないぼくを見かねてか、耶衣子ちゃんは一層強く、ぼくの手を握った。それはぼくに同意を促すためだけでなく、彼女自身が自らを奮い立たせるための自己催眠のようにも思えた。


「ねえ凛音。それから、耶衣子ちゃんも。目が覚めたならこっち手伝ってよ」


 マユミさんがこちらを振り向いたのと、耶衣子ちゃんが咄嗟に立ち上がって、ぼくの手を強引に引いたのは、ほとんど同時だった。

 彼女はまさしく、脱兎のごとく。あるいは、尾を踏まれた猫が飛び跳ねる様な俊敏さで駆け出して――。

 ぼくの手をすり抜けていった。

 それは正しくない。ぼくは立ち止っていた。そして迷わず振り返って、マユミさんに手を伸ばしたのだ。


「馬鹿っ」


 後ろで、耶衣子ちゃんの声が聞こえた気がした。何を言われてもいい、ぼくは自分の命だけ助かろうなんて、そんなことは考えたくなかったのだ。


「マユミさん、こっちに――」


 きょとんとした様子でこちらを見ているマユミさんに、駆け寄ろうとした。


「――止まれ」


 その酷く冷たい命令に、ぼくはぴくりと身を固めた。死神が頬を撫でるように、肌が粟立つのが分かった。死がすぐそばにあるような、そんな気配。


「……ねえ。なんのつもり」


 呆れと苛立ちの入り混じった声で、マユミさんが言った。

 ぼくの頬を、背筋を嫌らしく撫でつける気配に、ぼくはゆっくりと振り返った。

 耶衣子ちゃんの手が、こちらに伸びている。

 地面と平行に、まっすぐ伸びたその手の先に、彼女が握りしめていたのは。

 どこかで見たことのある形をして、その虚空の口元をこちらに広げていた。

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