第29話 父の面影を探す

「危なそうな研究。大丈夫なの?」


 僕の隣で話を聞いていた耶衣子ちゃんの言葉で、ぼくは現実に戻された。


「最大限の配慮をしているからね。バイオセーフティレベル3という、厳重な管理環境の実験室で取り扱ってる。あらかじめ許可された研究所の人間しか入れないから、見学はさせてあげられないけどね」

 ところで、と溝口は後ろを振り向いた。


「君は……ええと、比米島さんのご親戚か誰かなのかな」

「結婚を前提にお付き合いしている彼女です」

 耶衣子ちゃんは、ぼくの方をじっとりと見た。ぼくは何もないのに激しくせき込んでしまった。


「照れなくてもいいのに」


 と、彼女は口元を小さく歪める。その目元は実に愉快だと言わんばかりにに、ひん曲がっている。

 溝口はというと、ああそう、だとか、最近の高校生は進んでいるんだね、とかぼそぼそと言って顔をひっこめた。


「すみませんね。どうしても付いて行きたいと言うものですから。やっぱり、彼氏のことが心配だったのよね。それにしても、部屋が沢山ありますねえ」

 マユミさんは歩きながら、通り過ぎていく部屋名のプレートを見ている。


「二〇A機械室、二〇一実験室、二A研究室……他の階もこんな具合なんですか?」

「基本的にはそうですね。ただ一階は展示室とか、会議室とかが多いし、最上階は研究所所長室とか部門長室とかがありますけど、それ以外はこんな作りです。室長が研究分野を統括してますので、室長以下の研究員が同じ階層に詰めてますよ」

 歩きながら長く喋ったせいか、溝口は息を切らしている。


「それだと、あまり他分野の研究員とは顔を会わせる機会がなさそうですね」と、マユミさん。


「ええ。繁忙具合もまちまちなので、実際、一カ月ぶりに他分野の同期と階段ですれ違う、なんてことになります」

 あはは、とマユミさんは笑った。その巨漢で階段を上り下りするのはさぞつらかろう。


そしてようやく、溝口は足を止めた。


「着きましたよ。研究室です」


 溝口に案内された研究室は、思ったよりこじんまりとしていて、学校の教室なんかより小さかった。なんでも、一グループあたり十人近い人間が一つの研究室に入っているらしい。部屋の両端の壁には天井まで届くようなキャビネットがあって、棚には分厚い本や英字の背表紙が見える。各人の机の上には、パソコンの他にキーボードだったり、家族の写真だったり、手の平くらいの鉢に入った観葉植物だったり、積み上げられた書類で雑然として机もあれば、綺麗に整頓された机もあって所有者の性格が滲み出ている。


 研究室の中は静かだった。二、三人の人がいるばかりで、パソコンのキーボードを打つカタカタという音と、空調の風を切る音が聞こえる。ここに居ない他の研究員は実験室に行っているという事だった。


「ここが、主任の使っていた机」


 その席は、他の席に比べて一回り大きかった。研究室を見渡すように部屋の端に配置されている。机の上には、閉じられたノートパソコンと飲みかけのコーヒーが入ったマグカップが置かれている。机の際には、分厚い専門書が並んでいて、どれも英語で何の本か分からなかった。


 ぼくはその机に、写真で見た父の姿を重ねた。眼鏡をかけて眉間にしわを寄せた気難しそうな父が、パソコンに向かっている。時折専門書を広げて、文字を指で追いながらパソコンとのにらめっこを再開する。マグカップに入ったコーヒーをちびちびと飲む――そんな姿が、ここにあったのだろうか。


「ここは……」

「主任がお亡くなりになった後に、どうもこのままという訳にはいかないだろうということでね……。今は新しい主任が使ってる」


 ぼくの心を読んだように、溝口がぽつぽつとこぼした。

 言いようのない寂寥感が、ヴェールのように心に靡いた。風で膨らんだヴェールが、いよいよ堪えきれなくなって翻るように、父という存在もまた、新しい風によってこの場所を押し出されてしまった。ここでは父は、父という無二の存在ではなく、研究員というラベルの張られた汎用品に過ぎなかったように思われて、かといって溝口たちを無情だと罵る訳にもいかず、ぼくは以前として小さく渦巻く虚しさを宥めすかした。


「孝一郎さんの荷物は」

 黙り込んでいるぼくを尻目に、マユミさんがそれとなく聞く。


「論文のコピーとか、不要だと思われるものはこちらで捨てさせてもらいました。それ以外の私物は、ご自宅の方に」

「それはいつ頃ですか?」


 溝口は考え込むように、

「うーん、いつだったかな。主任が亡くなってそれほど後ではないんだけど。お盆前には終わっていたと思います。盆明けに新しい主任が来るという話が合ったので」

「事故から一週間か二週間のうちに、ということですね?」

「そうなるかと……」


 急に問い詰められて釈然としない様子の溝口は、ぼくらの顔を順番に見回して焦るように付け加えた。


「その……薄情だなんて思わんでくださいよ。僕らも仕事で研究は進めないといけないし、室長に指示されたのもあったし」

 最後にはぼそぼそと、その言葉は尻切れとんぼになった。溝口は神経質そうに、ポケットから取り出したハンカチで額を拭った。


「それは確かですか?」

 穏やかに見える表情とは別に、マユミさんの目には俄然力が籠っている。


「間違いないですよぉ! 僕がまとめてダンボールに入れて、室長のところへ持っていきましたから。室長の方で、社外秘の内容物がないかチェックするって言って」

 溝口の声がひと際大きくなった、他の研究員たちが、何事かと手を止めてこちらを見ている。


「……そうでしたか。いえね、何か忘れ物があったら、この子が可哀想だと思いまして。この子にとっては、いわば父の遺品なわけですから、気になってしまって」


 と、マユミさんは取り繕った。この場でマユミさんが、父さんの机の引き出しを一つ一つ開けていって中身を確認し始めるんじゃないかとヒヤヒヤしていたぼくは、マユミさんが矛を収めるのを見てほっとした。


「……ここはもういいですか。よければ、他の場所を見学しましょうかね」


 不愉快そうな早口で、ぼくらは追い立てられるように部屋の外へ出された。

 溝口は、それから何事かを室内の研究員に言いつけてから、扉を閉めた。


「溝口さん。すみませんがお手洗いはどちらに?」

 廊下に出たマユミさんは、開口一番、そう言った。


「そこの廊下をまっすぐ行って、一つ目の角を右に曲がったところですよ」

 溝口はまだ不承不承といった具合だった。


「ありがとう。凛音君も耶衣子ちゃんも、せっかくだから一緒に行っておきましょう。何度も中断頂くのも、ご迷惑よ」


 と、ぼくはマユミさんに腕を引っ張られて、強引に連れていかれる。マユミさんはあたりをきょろきょろと見回しながら、廊下を進んでいく。

 溝口に言われた通り、廊下を右に折れた。廊下の陰に入ったところで、マユミさんはぴたりと足を止めた。周囲を見回して、すっかり人気が無い事を確認してから、ぼくと耶衣子ちゃんに顔を近づける。


「……凛音、どう思う?」

「え?」

「ほら、あなたのお父さんの荷物の話よ。家に送ったって溝口さん言ってたじゃない。覚えある?」


 父さんの部屋を思い浮かべてみる。趣味の登山道具とか、本は沢山あったけど、炭そ菌やら研究に直結するようなものは何もなかったと記憶している。


「うーん……どれが研究室で使ってた物かは、分からない。研究に関するものは無かったし、いずれにせよ重大な秘密が隠れているようなものは、見当たらなかったと思うけど」

「やっぱり、そうよねえ……」

「……それがまず、おかしい」

 耶衣子ちゃんの目つきに鋭さが増した。


「研究に関する資料が全くない、なんてことがあるか。私は違うと思う。研究そのものはここから持ち出せないのは分かる。でも関連する図書や論文くらいは、家に残っていても不思議じゃない。家に荷物を送った、というなら猶更。……私たちは炭疽菌の研究についてすら、ここで初めて知った」


 マユミさんが腕を組み、溜息を吐いた。耶衣子ちゃんの言葉が意味するところは、ぼくにも分かった。


「……すべて処分された、か。となれば私たちが目指すは二か所ね。実験室か、凛音のお父さんの荷物をチェックしたとかいう、室長の部屋か」


 マユミさんが悩ましそうにして、一層声を潜めた。最後の方は、ほとんど聞き取れなかった。

 耶衣子ちゃんの口元が動いている。やっぱり小さくて声が聞き取れない。

 それだけじゃなかった。


 ――世界は静寂に包まれていた。


 瞼が重い。マユミさんがしきりに、こちらに話しかけている。何を言っているのか聞こえない。視界が滲んで、思考が中空を漂い始める。

 リノリウムの床が、眼前にせり上がった。

 ぼくの意識は波にさらわれていくように失せ、後には何も残らなかった。

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