第28話 九十九生命科学研究所

 窓から見える薄白い雲は満遍なく空を覆い、日差しと共に空の青さを遮っている。そんな薄汚れたミルク色の空は、よそ者のぼくを拒んでいるように、どこかよそよそしい。


 東京を出て三十分が経つ。高速道路から見える背の高い建物は無くなって、そして民家すらもぽつぽつといった具合でほとんど見えなくなって、代わりに増え始めた広い農地が視界を流れていく。


 ぼくらは、マユミさんの運転する車で常磐自動車道を北に走っていた。

 目的地は敵の本陣――九十九生命科学研究所。

 最初にこの作戦をマユミさんの口から聞いたとき、ぼくは耳を疑ったものだが、今となってはこれしかない、と思っていた。


 ぼくの記憶を呼び起こそう計画は、このところ上手くいっていなかった。

 学校に通いながら、家にいる間は父さんの部屋や、母さんの部屋なんかを見回り、何か手がかりになるものが無いかを探した。机と壁の隙間、机の引き出しの裏、押入れの隅、もしや引き出しが二重底なっているのではと丹念に捜索をしたものの、目ぼしいものは見つけられなかった。ぼくの記憶もまた、刺激で揺り動かされることなく、だんまりを決め込んでいた。


 捜索の結果、何もなかったし、もし何かがあったとしても研究所やその他の誰かに先んじて奪われてしまったのではないか、という結論になった。研究所は自前の研究室を除けば、研究データ捜索のために、この家に立ち入って調べたに違いないと思われた。人の命が軽い研究所なら、手をかけた人間の家の捜索ぐらい、躊躇いなく行っただろう。


 かくして、ぼくらは大きな賭けに出る。

 その日の捜索が徒労に終わったことに、疲労以上に気力まで疲弊したぼくらは、リビングのソファに座り込んでいた。


「九十九研究所の研究を堂々と見学してやろう」


マユミさんが思い出したようにそう言ったとき、ぼくは唖然として息をするのも忘れた。


「そんな……大丈夫なの?」

「それしかない」

 耶衣子ちゃんもまた、頷く。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず。なあに、相手だって表向きは普通の研究所よ。働いている研究員だって、もともと凛音のご両親みたいに普通の民間人。全く心配は要らない、とまでは言わないけど、表立った行動はできないはず。それに、私と耶衣子ちゃんだって居るんだもの」


 何かしてこようものなら、それをネタにしょっ引いてやるわ、とマユミさんは息巻いた。

 たしかに、もう調べられるものは調べた。例えもう一度探したって、新しいものが見つからないと言い切れるくらいには、入念に調べたのだ。話を聞いているうちに、ぼくらに残された手はそれしかないと、ぼくも思い始めた。

 


「凛音」

 運転席からマユミさんの声が飛んだ。


「そろそろ高速降りるから、その眠り姫様を起こしてくれる?」


 ぼくは隣に座っている耶衣子ちゃんを見た。すやすやと、微かな寝息を立てて眠っている。車に乗って五分くらいしたら、彼女はもう寝入っていた。

 最近はいつも気を張って、疲れているのかもしれない。夜中にぼくがふと目を覚ました時も、耶衣子ちゃんは壁を背に身体を預け、寝ているのか起きているのか分からない姿勢で居たこともある。たぶん、夜の番をしてくれていたんだと思う。こんな生活、やっぱり長くは続けられない。

 彼女の貴重な休息を妨げてしまうことに若干の後ろめたさを感じつつ、ぼくは耶衣子ちゃんを揺り起こした。


 高速道路を降りると、そこは道の両脇に草木の茂っているような道で、歩道なんか膝を超えるくらいの雑草が生え、およそ人が歩ける状態ではなかった。およそ、ここは人が歩くことは無いのだろう。草木の向こうを時折、大きな建物が通り過ぎていった。このあたりは工業団地らしく、学校ほどもありそうな大きな工場がいくつも視界に入っては消えていった。


 しばらく行くと周りに住宅やコンビニのある住宅街に入った。途中で道を折れてさらに進むと、今度は再び、街路樹の立ち並ぶ、よく整備されてはいるが閑散とした道になった。

 街路樹の木々の間に、青白い色の大きな建物が垣間見えた。


「ここみたいね」


 車を来客用駐車場に停めて研究所の正門へ向かうと、正門にコインランドリーくらいの小さな建物があって、そこが総合受付らしかった。来客用の待合室にもなっていて、クリニックの待合室みたいに、背もたれのないフラットソファが部屋の中央や壁際に並んでいる。ぼくら以外にも、数人のスーツ姿の男性が腰かけていた。


 受付の女性に来意を告げる。女性はどこかへ電話すると、ぼくらに来客者用の入門証を手渡した。研究所に居る間は、これを首にかけておいてほしい、とのことだった。

 ソファに座って緊張しながら待っていると、入り口からスーツ姿の若い男性が現れた。部屋を見回してぼくらに気が付くと、男性は柔らかな笑みを浮かべながら近づいてきた。


「よくおいでくださいました。石黒さんに……こちらの方が比米島さん、南さん、かな」


 男性はまずマユミさんに小さくお辞儀をして、名刺を取り出すとマユミさんに手渡した。マユミさんは、生憎名刺を切らしていて、なんて言って交換を断っていた。まさか公安警察の名刺を、おいそれと渡すわけにもいくまい。


 男性はそれから、ぼくの方に名刺を渡してきた。広報部の槙野茂樹です、と挨拶されたので、ぼくも学校名と名前を名乗った。

 槙野は撫でしつけた短い髪をぴっちりと固めて、浅黒い肌が健康的な男だった。年の頃は三十代だろうか、笑顔もにこやかで、如何にも広報部という風体である。もっともぼくは他の広報部の人間を知らないけど、たぶんこんな人当たりの良さそうな人たちばかりなんだろう。敵の本陣に攻め込むという事に加え、学校より堅苦しい、まるで校長室に入ってきたような雰囲気にぼくは緊張があったのだけど、槙野の気楽な様子に肩の力が抜けた気がした。


 ぼくらは槙野の案内で、とうとう研究所に入構した。


「すみませんね、事務棟まで距離があって。5分くらい歩くんです」


 歩行者用通路と地面に書かれた道を、槙野はマユミさんの隣に並んで歩く。ぼくと耶衣子ちゃんはその後ろに付いて歩いた。すぐ横の道路をトラックが通り過ぎてゆく。


「敷地が広いですよねえ、ここ。敷地の端から正門まで、車でそれなりに走った気がしますもん」

「ええ。およそ千葉県の夢の国くらいの広さがあります」


 そんなに、と驚くマユミさん。ぼくは夢の国がどれくらいの広さか知らないので、驚くに驚けない。夢と言うからにはさぞかし広いんだろう。

 見学者さん向けの鉄板ネタなんです、と槙野は笑った。その他にも、槙野は歩きながら、施設についていろいろと説明した。


 この研究所では動物、植物、昆虫、土壌など幅広い分野に渡る研究を行っており、ヒト用の医薬品、動物の疾病や防疫、果樹の栽培技術、農作物の遺伝資源、生物機能の工業利用などなどと、幅広い研究を行っているらしい。

 各種研究棟、実験棟があり、停電や災害時にも研究施設が稼働できるように独自の変電設備と発電設備、非常用の電源車まで備えているという。


「安全第一ですからね。研究対象の保全も勿論、ウイルスや細菌なんかも扱ってますので、万が一にも環境中に出ないよう自前で電源を確保してます」


 そのときばかりは、神妙な顔をした槙野。

 いくつかの建物を通り過ぎて、ひと際大きな白い建物が見えてきた。6階建てで、その幅も学校の校舎より大きいかもしれない。


「ここが事務棟です。どうぞ中へ」


 事務棟の中は、リノリウムの床に広い廊下、埃一つ見当たらないような清潔感のある空間だった。内装が白で統一されているのが、一層その印象を強めているかもしれない。時折、スーツを着た職員に交じって、白衣を着た職員が廊下を行き来している。ぼくはここがまるで病院のようだと思った。


 ぼくたちが案内されたのは小さな会議室のような場所だった。部屋の中央に一つ、壁際に一つ机があって、端の方の机にはプロジェクターが置かれていた。中央の机には、ペットボトルのお茶と合わせて、なにやら紙が置かれている。結構な好待遇だ。


「どうぞ、お好きな席に」


 槙野に言われて席に着くと、かれこれ十分以上歩いて喉がカラカラに渇いていたぼくは、早速お茶を一口飲んだ。喉が潤う。歩いただけではなく、緊張のせいもあったかもしれない。

 部屋の照明が消える。プロジェクターの明かりが、天井から垂れ下がっている白いスクリーンを照らしている。


 プロジェクターの静かな駆動音を伴って始まったのは、会社の紹介PVだった。空撮による施設の全貌の映像に、女性のハキハキとしたアナウンスが説明を加える。施設の概要や研究の内容が紹介された。

 医薬品だけでなく、動物の飼育や植物の生育も研究の一環として行っているらしい。その他に細菌やウイルスをも取り扱っており、バイオセーフティレベル4実験室という、世界でも六十九箇所しかない高度な安全性を持つ実験室を、民間で初めて建築中であるということを、女性は声高に謳った。


 なんでも、人への危険性が極めて高い感染症病原体を取り扱う、という施設らしい。数年前のパンデミック以来、感染症に対する人間の意識や国の対策は劇的に変わって、国防という観点からも感染症対策が強く推進されるようになった、と女性は続けた。


 当時は町から人が居なくなった、なんてこともあったらしい。社会活動が大幅に制限された世界的惨事は、同時に世界を大きく変革させた。そんなことも、ぼくは当然、覚えていない。


 これほどの事業に取り組んでいれば、敷地が大きいのも頷けた。WHO安全指針に基づいて厳重な管理下で研究を行い、平和で豊かな生活の貢献していく――そう結んで、PVは終わった。テレビの番組みたいでよく作られているなあと思いながら暢気に見ていたのはぼくだけのようで、マユミさんや耶衣子ちゃんは真面目に聞いていたみたいだった。

 PVが終わると、槙野が部屋の照明を点灯させた。光量の変化に目が眩む。


「それでは、施設のご案内を――」

「そのことなんですけれど」


 とマユミさんが生徒のように、挙手をして槙野に割って入った。

 槙野は不思議そうな顔で、言いかけた言葉を飲み込む。ぼくもまた、呼吸を整えた。


「見学の申し込みの際にお電話でお伝えしましたけど……実はこの比米島君の両親がここの研究員でして。それが昨年……不慮の事故で亡くなりまして。今日はこの子のたっての希望で、両親の仕事場を一目見させてあげてほしいんです」

 マユミさんは実に、真に迫った表情と声色で、縋るように言った。


「……無理なお願いと承知していますが、お願いします」


 ぼくは頭を下げた。


「あぁ、ご連絡頂いていた件ですね。……比米島さん」


 呼びかけられて顔を上げたぼくが見たのは、痛みを堪える様な沈痛な面持ちをした槙野だった。


「この度は……御愁傷さまでございました。お二方とは、業務でも個人的にかかわったこともあって、訃報を聞いたときは本当にショックで……改めてお悔やみ申し上げます。ご見学の方は、企業機密で外部の方にお見せできない場所もございますが、それ以外はぜひ、ご見学頂ければと思います」


 ちくりと胸に小さな針が刺さったみたいに痛んだ。


 槙野は、本当に両親の死を悼んでいるように見えたからだ。無論、見学の可否は槙野の裁量によるものではないと思うが、彼の気持ちを利用しようとしていることに変わりはない。ぼくらの敵はこの研究所にいる誰かかもしれないが、決して全員ではないのだ。そのことを、ぼくは自らに刻み付けた。


「……ありがとうございます」

 偽らざる心から出た感謝だった。槙野は微かに微笑んだ。


「それでは行きましょうか。……おっと、そうだった。少々お待ちください。ガイドしてくれる研究員にも同伴してもらいますので」


 槙野はそういって、どこかへ電話をかけ始めた。二言、三言やり取りして電話を切ってから、ぼくらに向き直った。


「研究員の溝口という者です。比米島さんのお父上と共同で研究していた職員になります」


 この研究所では、研究グループごとに部屋が割り当てられており、溝口は父である比米島孝一郎と同室で研究を行っていた、孝一郎の部下だという。

 固く禁じられた扉のすぐ目前まで、今まさに迫っているような心地がして、ぼくは唾を飲み込んだ。溝口は父に関わる重大な何かを知っている可能性がある。そのような人間と接触できれば幸いだと思っていたが、こうも上手くことが進むとは。


 ちらりとマユミさんを見る。お忙しいところわざわざありがとうございます、と礼儀正しく感謝を述べたマユミさんは、薄く微笑んでいる。裏表のない笑顔だ。腹の内をすっかり隠して、作り物の感情で飾り立てているマユミさんにぼくは感服した。


 槙野とマユミさんの雑談を聞き流しながら心を落ち着けていると、ノックの音がして、白衣を着た恰幅の良い男が入ってきた。四十代前半くらいだろうか、身体の幅がぼくの二倍くらいある。急いできたのだろう、ハンカチで額の汗を拭っている。息も荒い。


「いやあ、すみません。お待たせしました」


 ぼさぼさとした、癖っけのある髪。眼鏡の奥の目つきは、肉厚の瞼が覆いかぶさって細く鋭い。


「研究員の溝口です。今日はよろしくお願いします」


 溝口はぼくらの前までやってきて、名刺を手渡してきた。上席研究員の溝口正清、と名刺に書かれている。上席ということは、普通の研究員より偉いってことなんだろうか。

 ぼくらも、簡単に挨拶をする。槙野が各自の挨拶が終わったのを見計らい、


「溝口さん。見学が終わりましたら、僕の電話まで連絡、お願いしますね」

 

 と言葉を残して部屋を出て行った。

 では早速行きましょうか、と溝口に言われて、ぼくらは荷物を置いて部屋を出た。機密保護のため、という理由でカメラ機能を持ったスマートフォンも持参を遠慮して欲しい、ということらしかった。


「比米島主任のことは、本当に残念でした」


 のしのしと歩きながら、溝口は声を落として言った。元々は同じ分野の別の研究グループに居たところを、異動で比米島孝一郎のグループに入ることになり、三年間一緒に居たのだという。

「実は父の事、本人の口からきいたことが無くて……。父や溝口さんのグループでは、どんな研究をされているんですか」

 ぼくは前を歩く溝口に訊いた。


炭疽菌たんそきんの感染メカニズムの研究だよ。炭疽菌と言っても、あまり聞き馴染みは無いかもしれないね」


 炭疽菌。溝口の言う通り、聞いたことが無かった。溝口は続ける。

 炭疽菌は熱や乾燥などに強い抵抗を持っていて、土壌などでも長期間生存することが出来る菌なのだという。菌が動物の体内に入ると、体内で発芽し、炭疽という病気を引き起こす。体内への流入経路は、経皮から、呼吸から、口からと様々だ。人体への影響も様々で、経皮からの場合は致死率が二〇%程度、吸入した場合は致死率が九〇%にもなるという。

 その歴史をたどれば、世界大戦下の旧日本軍やソ連で研究がなされていたり、アメリカでは二〇〇一年に炭疽菌を用いたテロが発生したりと、近代から現代にいたるまで、炭疽菌との戦いは続いている。日本での炭その発生事例は近年ないものの、対テロや自国防疫の観点から研究を進めている――と語った。


 ひやりとしたものが、ぼくの脇の下を伝っていった。


 ――これに違いない。


 溝口の話に適当に相槌を打ちながら、確信した。

 アメリカのテロでも使われた炭疽菌。父の研究していたこの炭疽菌が、事件の引き金だったに違いない。この研究所が、研究した炭疽菌をロシアへ輸出しようとしていた。


――でも、それだけなのか。


 溝口の話によれば、炭疽菌はソ連でも昔から研究されていたという。それならばロシアでだって、今なお秘密裏に炭疽菌の研究は続けられているんじゃないだろうか。だとすれば。


もっと恐ろしい、もっと別の何か――。

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