第27話 南耶衣子の推理

 ぼくらは部活に参加することなく、家へ帰った。

 結局、耶衣子ちゃんは、帰宅の間はほとんど口をきいてくれなかった。学校で警護を外してしまった後悔なのか苛立ちなのか、耶衣子ちゃんはぼくの隣を歩きながら、周囲に相当の神経を尖らせているように見えた。耶衣子ちゃんにばかり任せきりなのも申し訳ないと、ぼくも周囲に目を走らせていたところ、キョロキョロするな、と耶衣子ちゃんに叱られてしまった。ぼくらの会話はそれだけだった。周りの人から見たら倦怠期か喧嘩中のカップルに見えたかもしれない。


 もはや迂闊に話すことも躊躇われたので、ぼくはただ黙って思考に耽った。目下、葉先輩の事である。


 ぼくは葉先輩が嘘をついていないと信じている。ぼくの協力を取り付ける必要があるなら、嘘が後々露見すれば、ぼくは自分の意思をもって葉先輩に反抗することが出来るからだ。そうなれば、ぼくに依存する葉先輩の計画は破綻してしまう。


 その前提を組み込んだうえで、視点を変えてみる。研究所の視点だ。

 彼らはぼくを狙っている。それは、マユミさんが言うには、ぼくが転落事故が事件であった証拠を見ていて――ぼくは忘れてしまっているが――それが研究所にとって不利になるから、だという。だが葉先輩の話を聞く限り、理由はそれだけでは無い。

 

 ぼくは研究の鍵なのだという。つまり、彼らがロシアへ輸出しようとした研究――大量殺戮兵器に転用可能な技術が、ぼくを介して世に露見することもまた、彼らは恐れているのではないか。 


 家に帰ったぼくは、自分の部屋でさっさと着替えをすませて一階のリビングへ向かった。

 リビングのテーブル席にはマユミさんが腰かけていた。リビングを仕事場に決めたようで、しばらくは自宅勤務をするらしい。耶衣子ちゃんはぼくより早く着替えをすませたらしく、黒い服を着て不貞腐れたようにソファに横になっていた。

 マユミさんに、ぼくが考えたことを相談してみた。もちろん、葉先輩のことは伏せたままで、だ。

 研究所が、ぼくによって研究成果が漏洩させられるのを恐れているのではないか、ということを。


「凛音を介して……? あなた、何か知ってるの?」


 マユミさんは、ぼくを見て訝しむ。


「いや、知らないんだけどさ。もしかして、事故と同じでぼくが忘れてるだけかもしれないと思って」


 しらばっくれて答えた。葉先輩の言葉を頼りにするならば……ぼく自身が研究の手がかりらしいのだが、そんなことを言う訳にもいかない。

マユミさんは腕組みをして唸る。


「仮にそうだとしましょう。研究所の方でも、あなたが研究について何かを知っていることを認識している。研究内容を外部に漏らすわけにはいかない。結局、あなたが狙われることに変わりはないんじゃない?」


 ぼくはそこで、思いついたことを説明するために身を乗り出した。


「相手にとってはね。でも、ぼくらにとっては違う。研究内容をぼくが忘れているだけなら、それを思い出すことが出来れば……ぼくらは研究所相手に交渉だってできる。手を引かないと、研究内容を公開するってね。公開されちゃあ、その研究成果は輸出したって無価値になる。相手はぼくらの言うことを聞くしかないんだ」


 マユミさんが、ぽかんとした顔をした。どうやら驚いて声も出ないようだった。ぼくはマユミさんに、にやっと笑って見せた。

そして、長い溜息。マユミさんが呆れたような目線を寄越す。


「凛音、あなたね。私の職業は分かる? 警察よ、けいさつ。そんな脅迫みたいな交渉手段、使えるわけないでしょ。違法よ」


「でもさ、相手はとんでもない犯罪をしてるんだよ? それでもダメなの?」


 ぼくは、納得できなかった。マユミさんに食い下がる。


「相手が犯罪を犯してるから、こっちも卑怯な手段を使っていい……なんてわけあるかい! 相手と同じレベルまで落ちちゃ、どうしようもないわよ」


 それからマユミさんは、ぼくが何を言っても、無理、駄目しか言わなくなった。命の危機が差し迫っているなら多少は良いんじゃないか、と思うんだけれど、それでも駄目らしい。


 ぼくは苛立っていた。マユミさんが駄目といっても、それなら黙ってぼくだけで研究所を脅してやると思うくらいに。

 それくらい、ぼくは葉先輩の言葉を気にかけていた。ぼくを狙う誰かとの攻防が過熱して、次第に多くの人が巻き込まれてしまう未来がくるかもしれない――それは彼女の脅し文句だったのかもしれないけど、その可能性は一考に値するとぼくは思う。手をこまねいてただ相手の対応を待っているわけにはいかない。


「研究の内容は、もう誰かに渡ってしまった?」


 黒いワンピース姿の耶衣子ちゃんが、唐突にソファから体を起こした。横になっていて全然会話に入って来ないから、てっきり寝ていると思ったのだけど、話を聞いていたらしい。ワンピースは彼女の部屋着らしいのだが、しなやかな白い素足が黒い服に映えて、ぼくなんかは目のやり場に困る。


「内偵からは、そういう話は聞いてない。研究者の渡航歴と物流を追ったけど、通報があった日から今日まで怪しい動きはないね。だから、まだだと思ってる。動いてくれたら捕まえられるんだけど、相当警戒してるのか」


 マユミさんが溜息を吐く。ぼくが事故に遭ってから動きが無いとするなら、もうかれこれ十か月が経とうとしている。余程ガードが堅いということか。


「不自然」


 ぽつり、と耶衣子ちゃんが呟いた。

 ぼくとマユミさんは顔を見合わせる。彼女がこの会話の何に違和感を感じたのか、ぼくらには分からなかった。


「凛音の両親から通報があったのはいつ」

「七月末だったわね。日にちは確か、十九日」


 一年近く前のことを、マユミさんはよくしっかりと覚えているなあと、ぼくは暢気に思った。


「事故があったのはいつ」

「三日後だから、七月二十二日ね」


 耶衣子ちゃんは、その答えを聞いて頷いた。


「うん。それで今はもう五月。研究所は一体、なぜ動かないのか。昨年の七月から取引相手だって待っているはず」

「そりゃ、私たちが見張ってるから迂闊には――」

「あっ」

 ぼくはそこで、ようやく簡単なことに気が付いた。マユミさんの怪訝な瞳がこちらを向く。


 耶衣子ちゃんはぼくに一瞥をくれてから、

「警察が動いたのは、事故があってから。通報は三日前。なぜ通報を把握していた研究所は、さっさと研究内容を持ち出さなかった? その時なら、警察の監視だってなかったのに」

「それは、研究が未完だとか、持ち出す準備が出来ていなかったとか……」

 マユミさんは腕を組み、首を傾げた。


「研究内容を取引する、という話。成果の出ていない研究の取引はできない。通報があったときに、取引可能な研究成果は出ていたと考えるのが妥当。取引できる状態にあった」

「それじゃあおかしいでしょ。警察の立場で言うのも可笑しな話だけどさ、私たちが動く前にさっさと取引しちゃえばよかったじゃん」

「その通り」

「え?」


 更に分からなくなった、という具合にマユミさんの疑問符が口から飛び出た。でもぼくには分かった。ぼくはマユミさんが知らない情報を持っている。葉先輩の言葉だ。


 ――その研究は今、誰の手も届かない場所にある。

 彼女はそう言っていた。

 これは、研究内容が研究所により厳しく管理されていて、研究所以外の人間にはアクセスできない、ということだと思っていた。でも、そうじゃないんだ。ぼくは思いついたままを、口に出した。


「研究所は、研究内容を失ってしまっている……そういうことだね?」


 ぼくの声は自分でも分かるくらいに震えていた。誰の手も届かない所。それは文字通り、研究所の人間ですら、到達できないということ。


 耶衣子ちゃんはぼくの答えに、こくり、と頷いた。

「私はそう考える。できたはずのことを、しなかった。これはつまり、出来なかったから」

「えぇ⁉ どうしてそんなことになってんのよ。人為的ミスってこと?」


 驚くマユミさんをよそに、耶衣子ちゃんは至って冷静に、首を横に振った。


「違うと思う。人為的ミスがあったとしても、研究を再現すればいいだけ。バックアップデータだってあったはず。それなのに、これほど長い期間に動きが無いのは、研究の全てが再現不可能なまでに喪失したからだと思う。そんな規模、もう過失ではなく故意」

「……ぼくの、両親だ」


 気付かぬうちに、ぼくは夢遊病患者のように喘いでいた。

 そうに違いない。それ以外のだれが、研究所を妨害するような行為をしようものか。


「推察ばかりになる。凛音の両親か、その協力者が通報前後のどこかで研究内容を研究所ですら確認できないような状態にした。それは、研究を流出させないための善意の行為だったかもしれない。とにかくその抵抗のお陰で、おそらく研究所は今なお、その研究内容を取り戻せないでいる」

「うーむ……」


 椅子の背もたれに身体を預けたマユミさんが、天井を仰いだ。腑に落ちないところがあるみたいだ。


「でもさあ。それなら……さっき凛音が言ったことを踏まえてだよ? 凛音が何か研究について知っているかもしれない、っていうんだったら、凛音を狙うより凛音を招き入れた方が良いんじゃないの」


 平然と言ってくれるが、ぼくなら両親の仇であるような人間たちに易々と協力しようとは思わない。マユミさんは、耶衣子ちゃんに意見を求めて目線をやった。

 耶衣子ちゃんはといえば、黙ったまま、その目線を迎え撃っている。


「ん?」

「あなたがいるじゃない。お邪魔虫」

「あぁ……そういうこと。私が近くにいるせいで、凛音とは接触できないってわけ」

「研究内容が手に入っても、警察に逮捕されるんじゃ意味が無い」

「ぼくなら、頼まれたって手伝ったりしないけどね」

 見くびらないで欲しい。


「それで、結局耶衣子ちゃんが言いたいのは、研究内容はもう無くなってるから、研究所の取引を監視しててもしょうがないってこと?」


耶衣子ちゃんは首を横に振って否定を示した。


「研究内容は、ある」

「なにそれ、謎々? もう訳が分からなくなってきたよ……」

 マユミさんが両手で頭を抱える。それを見て耶衣子ちゃんは、くすっと笑った。彼女はこういうところがある。人が困っている所を見て笑う。良い性格をしていると思う。ぼくとて、耶衣子ちゃんが何を考えているのかさっぱり分からないけど、困った顔はしてやらない。


「凛音はどう?」

 耶衣子ちゃんはこちらをくるりと振り向いた。謎々はぼくの番らしい。


「そうだね……皆の心の中に……ってことかな」

 ぼくが思いついたのはそれくらいだった。耶衣子ちゃんが文学的解答を求めているとは思っていなかったが、やはり間違いだったようで、ぼくは彼女から呆れと軽蔑を多分に含んだ眼差しを頂戴した。大きな溜息もセットで。


「マユミ。警察が犯罪者を逮捕するには、何が必要?」

「何って……証拠とか」

「凛音のご両親だってそう考えたはず。警察に動いて貰うには、通報した内容の証拠がいる」

「でも、データは全部消去されたって言ったじゃん!」


 口を尖らせたマユミさんが反抗的に言う。


「そう。ただし凛音のご両親は、データを警察に提示するために、自分たちだけがデータを再生できる細工を施したのではないか――これが私の推測」


 確かに、耶衣子ちゃんの言うことはもっともに聞こえた。

 取引対象となる研究データが昨年の七月には揃っていたと思われるにもかかわらず、取引が行われていない。

 研究所としては相手を待たせておく理由は無いはずで、それは取引に不利に働くだろう。とすれば、一日でも早く取引を終えたい。そして、警察の目には触れたくない。両親の通報に気付いた直後に、急ピッチで取引を行うのが最善策だったろう。


 それでいて取引は今なお行われていないとなると……加えて、ぼくを狙うなんていう警察に目を付けられかねない行為に走ったとなると、とてもじゃないけど警察の目をかいくぐるために取引を待機しているとは思えない。


 ――データは失われた。ぼくの両親に破壊された。ただし、両親が証拠として使うつもりで、データの再現方法がどこかに存在している。

 そしてぼくが――その鍵なのか。


「普段から凛音のそばを離れないようにしていたけれど……今日、つきっきりで凛音のそばにいるのは難しいと感じた。お互いに配慮を残しつつではあるけど。籠城戦ではジリ貧。こちらから攻める必要があると思う。だから、得た情報をどう扱うかは後で考えるとして、凛音の言った可能性と私の推測に賭けてみるのはどう? 私は研究データを探りたい」


 耶衣子ちゃんが、ソファからぽんっと立ち上がった。黒いワンピースの裾がひらりと舞い上がり、小さな膝が一瞬、露わになった。彼女の試すような瞳は、マユミさんを捉えたまま離さない。


「ぼくも、そうしたい」


 葉先輩の言葉は今や、ぼくの中で確信に変わっていた。


 ――ぼくは何かを知っている。


 どうやったらその記憶をサルベージできるのかは全く分からない。でも、何もしなければ何も分からないままだ。ぼくは今こそ、過去の記憶に向き合わなければならない。

 例えそれがぼくにとって、甚だ苦痛を伴うものであったとしても。

 これが……自分に向き合って、自分を大切にして、皆を大切にする、ぼくのより良き未来のための選択肢。


「私の業務命令は、凛音の警護なんだけどなぁ……」

 マユミさんは苦笑した。それから、ぼくと耶衣子ちゃんの顔を見比べた。ぼくと交錯したその目は、くりくりと、愉快そうに煌めく。


「二人がやる気ならしょうがないね。いっちょ、やってやりますかね!」

 満面の笑みを浮かべたマユミさんは、それからとんでもない条件も付け加えた。


「もし私がクビになったらさ、主婦として雇ってよね。凛音」

 その手には乗らない。ぼくは学習している。

「マユミさんの一人や二人、全然構わないよ。今からでもいいくらいだね」

 にやにやしているマユミさんに、ぼくは笑いを堪えながらそう言い返してやった。何度も同じ手でやられてたまるものか。


「まあ、男らしい! 凛音の十八歳の誕生日には婚姻届けを出しに行かなくちゃいけないね。あと年末には、私の秋田の実家にも挨拶に来てもらわないと。妙齢の一人娘を娶るんだから、それなりの覚悟を示してもらわなきゃ。思い立ったが吉日、今から両親に電話しておくわ」


 と、電話をかけ始めたマユミさんを、その演技をどこまで続けるのか見ものだと楽しんで観察していたぼくは、マユミさんという人間を理解しきれていなかった。

 彼女は本当に両親に電話をかけており、電話を替わったぼくは焦り、娘さんにいつもお世話になっておりますなどという、月並みな感謝の言葉を並べ立てて、ご両親にはさぞ不可解な電話対応を強制させられた。

 その間、電話片手に困り果てるぼくをマユミさんは腹を抱えて笑っていた。

 耶衣子ちゃんは無言で、再びその身をソファに委ねていた。呆れたようだ。

 ぼくだってこの人の突拍子のなさには、呆れたかった。

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