第26話 本当の修羅場

「これって、どういう?」


 耶衣子ちゃんは無表情で、廊下に立っていた。けれどもその瞳は一片の乱れもなくぼくを捉えていて、ぼくはその目に彼女の猛烈な憤りを察した。

 彼女からすればこの現場は、鬼の居ぬ間の洗濯と見えなくないし、警護の隙をついて逢引とはお盛んなことで、と怒り冷めやらぬ思いになるのも、当然だろう。私の気も知らないで、と。


 ぼくには即時の弁解が求められていた。

 しかし、先に応えたのはナターリアだった。彼女は、ぼくからゆっくり身を離すと、怯えた様子で声を漏らした。


「南先輩……そこに、大きな蜘蛛が居ませんでしたか?」

「見ていなかった」


 耶衣子ちゃんは即答する。


「もう、逃げて行ってしまったのかしら……」


 ナターリアは、何かを探すように部屋を見回して、

「その、恥ずかしいんですけれど……私、蜘蛛が大の苦手で。この部屋に入ったら、目の前に大きな蜘蛛が居ましたの。それで慌てて、誰かに助けてもらおうと思って、比米島先輩にお声掛けしたんです。お二人が御用事の途中でしたのなら、申し訳ないことをしました」


 それは見事な変身であった。無論、毒虫のような気味の悪いものではありえず、さながら高原をひらひらと舞う蝶である。涙を湛えた瞳は、いじらし気な少女の演出に一役買っており、男子を相手にすれば庇護欲をそそらせること請け合いだろう。その変わりように、ぼくは心の中で苦笑した。


「凛音?」


 本当なのか、と言外に耶衣子ちゃんは尋ねている。相変わらずその顔には表情が無くて怖い。


「勝手に離れちゃってごめん。ナターリアがとても動揺していたから、ぼくも思わず……」


 ぼくは、ナターリアに乗っかることにした。

 葉先輩とナターリアが、ともに何かしらの秘密を抱えていたことは分かった。それも、この国の法律に照らし合わせれば、真っ黒か、少し白の混じった鈍色みたいな具合だ。


 そうならば、このことを耶衣子ちゃんに伝えるのは躊躇われる。

 二人はぼくに暴力を振るったわけではないし、ぼくの生活を脅かすわけでもない。二人の存在を警察と縁がある耶衣子ちゃんが知れば、彼女も黙っているわけにはいかなくなるだろう。耶衣子ちゃんにも重たい役目を背負わせることになってしまう。三人を救う最良の手段は、ぼくが黙っていることだ。


 耶衣子ちゃんは顔を動かすことなく、目だけでぼくらを交互に見て、

「……行くよ、凛音」

 すたすたと、廊下を歩いていってしまった。


「……比米島先輩。わざわざ有難うございました」


 ナターリアが頭を下げた。その声は、背を向けて遠ざかる耶衣子ちゃんにも聞こえる大きさだっただろう。ぼくらの間には、ぼくらが語った以上のことは無かったという事だ。抜け目がない。


「それじゃあね」

 ぼくがナターリアに手を振って、その場を後にした。


 静かに怒れる耶衣子ちゃんの背中を追う。しばらく、口をきいてくれないかもしれない。

 耶衣子ちゃんから滲み出る怒気に神経を研ぎ澄ませながら、ぼくはあることを考えていた。

 葉先輩が語った言葉。

彼女の言葉はぼくの頭の中に一つの疑問をちらつかせていた。ぼくが、父さんや母さんの研究の鍵、という話である。

 その詳しい内容を推し量ることができれば、いつまで続くとも知れぬぼくを取り巻く状況を、大きく変えることが出来るのではないか――と。

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