第25話 激流
「ナターリアです。葉芷琳先輩。先輩に用事がありましたので、お迎えに」
暗室の出入口に立ったナターリアは柔らかい口調で、そう言った。
彼女の姿は、いつも文学課でしか見ないからか、こんなところで会うのは意外だった。先輩、というのはぼくのことなのだろうか、それとも葉先輩のことだろうか。
ぼくが何か言おうか迷っていると、先に口を開いたのは葉先輩だった。
「……君か。鍵をかけていたはずなんだけどネ。まあいい。今、ワタシがリーウォンと大事な話をしているところネ。出て行ってくれると嬉しいヨ」
その葉先輩の声は明るい音調を保っているけれど、その中には敵意が見え隠れしている。
今の話は、聞かれていたのだろうか。そうなれば大変まずいことになる。葉先輩は違法だと自ずから喋っていたし、ぼくも違法だと分かってその誘いを受けようとしていたのだ。
ぼくは、ナターリアの反応を注視していた。そして、彼女がこのまま何事もなく立ち去ってくれることを望んだ。
だけど、望みはかなわなかった。ナターリアは、葉先輩が含んだ敵意に動じることなく、ゆっくりと首を横に振った。
「残念ですが……出て行くわけにはいかないのです。周明華(シュウ・ミンホア)さん。あなたは逮捕されます。罪状は、偽造旅券の行使による出入国管理及び難民認定法違反」
葉先輩はぴたり、と動きを止めた。
ぼくは、彼女の言った「逮捕」という言葉にどきりとして、葉先輩を見た。ナターリアはこんな、愚にもつかない嘘で他人を脅かすような子ではない。彼女を信じるなら、葉芷琳という名前は偽名で、旅券も偽造だというのか。
でも、今のぼくにはそんなことさえ、至極もっともなことに思えた。葉先輩が父さんと母さんの研究成果を秘密裏に盗もうとしているなら、身分を偽っていることは容易に考えられる。
葉先輩が、ナターリアを嘲笑った。
「面白い冗談ネ。ナターリア、君は警察のつもり?」
「私のことなんて、どうでもいいではありませんか。国家安全部のあなたが、こうして本当の素性を私に知られてしまっている。その事こそ、あなたが憂慮すべき目下の問題だと思いませんか」
葉先輩は沈黙した。ぼくからは、彼女の顔が伺い知れない。
葉先輩を見つめているナターリアは、突如微笑んだ。
「その選択は賢明ではありませんわ。あなたは私の背後にどれだけのバックアップがいるのか、ご存じない。私の口を封じたところで、あなたは罪を重ねて捕まるだけ。私が何の対策もせずに、無防備であなたの前に姿を現したと思いますか。私はあなたを知っている。あなたは私を知らない。優位なのはどちらでしょうか」
「……何が望みネ? ワタシとお喋りをしたくて、来たわけじゃないはずヨ」
その声は、もはや敵意を隠していなかった。苛立ち、罵るような気勢を含んでいる。
「あなたが差し出すのは、比米島先輩の身柄の解放と、先輩への今後一切の不干渉。私からは、あなたの名誉をお返しして差し上げます」
「名誉」
ナターリアは頷く。
「そうですわ。あなたは諜報部員にあるまじき、素性を暴かれて警察に逮捕される大失態を回避できるチャンスが与えられている。私の手によって」
「……脅しという訳ネ」
「ええ。平和的でしょう?」
ナターリアはにっこりと微笑んでいる。
「君が嘘をつかないという根拠は?」
「あなたのことをこれだけ知っていた私は、あなたをどう扱うこともできたのです。それを根拠と思っていただきますわ。これまで黙って見ていたのは、あなたが私の害でもなければ、あなたの素性を明かす得が無かったから。でも今は違う。比米島先輩を連れていくというのなら、私はあなたに立ちはだかります。でも手を引いてくれるなら、これまでと何ら変わりません。平和な偽りの学生生活をお返しします」
「また平和! ……平和ネ」
葉先輩は呆れたように笑って、おもむろに立ち上がった。そしてナターリアへと近づいていく。ぼくはその様子を見ていることしかできなかった。
ナターリアはそんな葉先輩を、静かな瞳でじっと見つめている。
ナターリアの目前で、葉先輩は立ち止った。
「平和。なんとも耳障りのいい響きヨ。皆、在りもしない平和なんていう虚像を思い描いて、敷き詰めた藁の上で暢気に寝息をたてている。燻ぶる戦火に、いつしか身を焼かれるとも知らず。全てが燃え尽きた後、最後に立っているのはどちらであろうネ。……ワタシか、君か」
「そのどちらでも、ないかもしれません。藁小屋の管理人だって、ちゃんと藁を見張っていますもの」
「……せいぜい見ているがいいネ。全てが燃え尽きるまでさ」
そう呟いた葉先輩は、ナターリアの脇を通って暗室の出口へと歩いていく。
そこで彼女は。挨拶をするように右手を挙げた。
「バイバイ。凛音。君と一緒に帰れなくて、残念ネ」
ぼくは椅子から立ち上がった。そして、
「先輩! ぼくは先輩に――」
ついて行きます、という言葉を伝えるべき相手の背中は、瞬く間に視界の外に消えていった。声は、それ以上出なかった。
部屋には、プロジェクターのファンが駆動する音だけが、虚しく残った。
「――可哀想な人」
ぼくは、次の瞬間にはナターリアのもとへにじり寄っていた。
「ナターリア。君は何もかも知っていたんだろう? どうして邪魔をしたんだ。ぼくは……ぼくは葉先輩について行くつもりだった。その選択は、ぼくに委ねられていたんだ! 君が口を出すような話じゃない‼」
ぼくは初めて、怒りに任せて彼女を罵っていた。
手が届きそうだった希望、それを取り逃した怒りと絶望。ぼくは、自分を変えられるかもしれない機会を、ナターリアのせいで逃してしまった。
ぼくから希望を奪った目の前の彼女は一筋の涙を流していた。唇が、小刻みに震えている。
「先輩は可哀想です。何も知らない。知ろうとしない。先輩を利用したい人にただ利用されて、それで自分の欲求を満たしたいだけでしょう? あなたの行為がどういう意味を持つのかなんて、考えもしていません。自分には価値が無いって思って、あなたを大切に思う人と向き合う自信も無くて、ただこの場所から、その人たちから逃げたいだけでしょう?」
「君に分かるもんか! ぼくの心が、誰にだって分かるもんか‼ 自分の中身が空っぽな人間もどきの気持ちが、分かってたまるもんか‼
ぼくだけだ。それは、ぼくにしか分からないんだ。
君だって、誰だって、ぼくなんか見ちゃいないんだ。ぼくを構成している情報を見ているだけだ。ぼくの後ろに射影される影を見ているだけだ。理想を捏ねて作ったぼくの像に勝手に期待してるだけだ!
誰も、本当のぼくなんて、見ちゃくれないんだ。
ぼくは本当のぼくを見せたくない。本当のぼくには、何もないから。誰よりも薄っぺらい、吹けば飛んでいくくらい、軽くてスカスカの麩菓子みたいなもんだ。だから、ぼくは、精いっぱい、人間の振りをするんだ。ぼくは……普通の人間になりたいんだよ……」
深い絶望と、哀しみと憤りが、奔流となってぼくの身体をかき乱して、喉から出て行った。次から次に込み上げてくる感情をぼくはただ、脈絡もなく手あたり次第、駄々をこねる子供みたいにして、ナターリアに投げつけた。
顔が熱い。目が熱い。伝うものが、冷たい。
それでもぼくは、吐き出さないではいられなかった。
ぼくの声が、暗室の中に響いた。ナターリアはぼくが話している間、黙ってぼくの目をじっと見つめていた。
「先輩は甘えています」
その瞳が揺れている。
「口にしなければ分かりません。言葉にしなければ伝わりません。怒ったり、笑ったり、泣いたりしなければ、感情は伝わりません。そういう努力をしないで、誰かに分かってほしいなどというのは、甘えです」
ぼくはそう言われて、目を逸らしそうになって――
「私を見てください! 私と向き合え‼ 私が、先輩をっ! 先輩を大切に思ってる気持ちと、ちゃんと向き合ってよ‼」
ナターリアが涙を必死で堪えて、ぼくに語りかける。彼女がそれほど声を荒げるのは初めてだった。その言葉は今度こそ、ぼくの耳を通り過ぎることなく、ぼくの頭に響いていた。
「……ぼくには、なにもない」
「あります。私は過去の先輩を知っています。それを忘れていても、先輩は先輩です。過去も今も未来も、少しずつ変わっていっても、先輩は先輩です」
「ぼくには、価値がない」
「あります。私の中では、とびっきりに。だから、価値だなんて、物みたいに自分を卑下する言葉を使わないでください」
「ぼくには、自信がない」
「持ってください。私のような可愛い後輩に大切にされているという自信を、持ってください」
「……そういうことは、自分で言うもんじゃないと思う」
吹き出しそうになって、笑ったつもりだった。うまく笑えたかわからないけれど。
ずっと消化できずにいた悪いものを全て吐き出して、ぼくの気分は幾分すっきりとしていた。もちろんそれは、ナターリアが真正面から付き合ってくれたおかげだという事は、言うまでもない。
目の前の後輩は、目を赤くしながらも薄く微笑んでいた。
ぼくは彼女の背景に、色んな人を見た。マユミさんだったり、耶衣子ちゃんだったり、行李先生だったりした。葉先輩でもあった。皆、ぼくに微笑みかけていた。なぜ彼女たちは微笑んでいるのかとふと思った。その答えは、今の、ナターリアに対峙するぼくの中にあった。それは相手に対する好意や慈愛の表れに違いなかった。
自然と、笑いが込み上げてきた。
憐憫は確かに、人に付随する情報から生じるのかもしれない。子を亡くした親。親を亡くした子。彼らに向けられる同情だ。
ただ、微笑みは違う。それは相手を認め、愛を差し出す精神の抱擁。向けられた微笑みの分だけ、ぼくは皆から愛を受け取っているという単純なことを、目の前で、穏やかな笑みを浮かべる不思議な後輩から教えられた。少しくらい自分のことを信じてやってもいいのかもしれないと、思った。
突如、ナターリアがぼくの胸元にしなだれかかってきた。ぼくは思わず仰け反りそうになりながらも、彼女の重みを受け止める。
「な――」
「喋らずに聞いてください。私は先輩の後輩で、先輩の味方で――先輩の敵なのです。どうかそのことを、覚えておいてください。近いうちに、お話しできる日が来るはずです」
彼女の顔が近い。なんとか聞き取れるぐらいの囁き声だった。
「それって、どういう――」
「聞きたいのはこちらのほう」
誰もいないと思っていたところから声がして、ぼくは咄嗟に顔を上げた。
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