第24話 新しい光、新しい生活

 連れていかれたのは、文芸部エンタメ課の要する、部室兼、試写用の暗室だった。

黒いカーテンが引かれていて明かりが入らないようになっているし、防音性能もあり、映画視聴にはもってこいの部屋だ。背丈より高い、観音開きの衣装棚なんかもあって、他にも映画用の小道具が詰め込まれた箱がいくつか置かれている。他の生徒は、誰もいなかった。


 スクリーンを照らす一台のプロジェクターの明かりが、この部屋で唯一の光源になっている。部屋の中央に机と四脚の椅子があって、葉先輩はぼくに椅子を勧めた。ぼくが椅子に座ると、葉先輩はぼくの対面に座った。


「リーウォン君。悪いネ、突然」

「どうしたんですか、急に」

「その……ちょっとした悩み相談に乗ってほしいと思ってネ。二人きりで」


 葉先輩は、照れた様に頭を掻いた。

 普段は葉先輩の体操服姿ばかり見ているけど、今日の彼女は制服を着ている。授業直後だからだろう。そんな葉先輩の姿は新鮮で、年相応の女の子みたいで可愛らしい。葉先輩とはエンタメ課で一緒に部活をしていて、皆でわいわいと騒いでいるときは気にしたことも無いけれど、どうにもぼくは年上の女性と二人きり、というのに慣れていないらしい。今もまた、葉先輩の前で緊張してしまっていた。


「大変な目に遭ったそうじゃない?」

「大変な……ああ、体育倉庫の件ですね。大変と言えば大変でした。倒れて入院しちゃいましたし」


 あははっ、と葉先輩は快活に笑った。


「そうじゃないヨ! ついこのあいだ、君が殺されかけた方さ」


 葉先輩が全く自然に――今日の天気でも話すくらい自然に――話した言葉を、ぼくは一瞬の間、聞き逃していた。


「……え?」

「そう隠さなくてもいいネ。私は全て知っているから。君のことも、マーガレットのことも、コルネオーリのことも、ヤーちゃんというソルジャーのことも。況や、あなたの家に住む警察のこともネ」


 その丸く人懐っこい瞳に、プロジェクターの無機質な光が反射している。ぼくはその瞳を、たっぷり数秒間見つめていた。

 そうしてぼくの声帯は驚きのあまりに、意思に反して勝手に声を絞り出していた。


「どうして……それを」

「それは秘密。私の手の内ヨ」


 葉先輩はそう言って手をひらひらと振り、目を細めた。

 ぼくの手が震えていた。ぼくは震える手を固く握った。暗室の出口の様子に、そっと目を走らせる。


「怖がらなくていいさ。私は何も、リーウォンを縛り上げようとか、そういうわけじゃないヨ」

「では」

「もちろん、殺してしまおう、なんて思っているわけでもないネ」


 動揺。

 困惑。

 ぼくを占めていたのは、その二つだった。この人がメグとネリーの関係者で、ぼくを油断させて殺すつもりなのか、あるいはただの冗談が偶然にも真実と合致してしまっているのか――そんなあり得ない偶然を想像してしまうくらいに、ぼくの心は安堵を求めて警戒との間を行ったり来たりしていた。


 そんなぼくの様子を見かねてか、葉先輩は普段の笑顔を作っていた。


「回りくどくてすまないネ。ヤーちゃんがここへ来る前に、少しでもリーウォンの歓心を買っておきたかったのさ。……端的に言うヨ。私を手伝って、私と一緒に中国へ渡ってほしい」


 ――それは、まったく。

 まったくもって、ぼくが予想だにしない相談だった。


「話が……読めません」


 その時のぼくは随分間抜けな顔をしていたと思う。

 葉先輩は微笑みを崩すことなく続ける。


「詳しいことは今は話せない。私……いえ、我が国はリーウォンの両親の研究が欲しいネ。そして、その研究は今、誰の手も届かない場所にある。愚かな所長たちのせい。でも、鍵はある。鍵は分かっている。鍵はリーウォン、君なのさ」

「研究? 鍵?」


 まだぼくは、飲み込めていない。父さんや母さんが何を研究していたかなんて、ぼくは全然知らないのだ。


「今は分からないかもしれない。時間が出来ればゆっくり話すヨ。君が望むなら、高度一万メートル上空で話したっていい。これは、リーウォンにとっても利のある話ヨ。君は、メグやネリーが捕まったらどうなると思うネ?」

「彼女たちは逮捕される……ということですか」

「その先ネ。君に平穏があると思う? その未来予測は適当ではないヨ。彼らの目的は、君をこの世から追い出すことさ。つまり、もはや君は、手を変え人を変え、生命を脅かされ続ける定めにあるということ」

「そんなこと……」


 ない、とは言い切れない。

 もし、研究所を締め上げる証拠が何一つ見つからないままならば、葉先輩の語った未来は現実になるかもしれない。


「次第に見境がなくなって……。君の周りの人間も、大勢死ぬことになるかもしれないネ」


 葉先輩は、悲哀を込めて、声を静めて言った。

 それは葉先輩がぼくを煽る演技だったのかもしれない。それでもぼくには、その言葉は十分に効果的だった。


「……先輩について行けば、どうなるんです?」

「リーウォンを保護する。生涯困らないだけのお金と、生活を約束するネ。研究成果の解明に、少し手を貸してもらうだけでいい。それだけで君は、安定した生活を手に入れて、君の大切な人を守ることが出来る。ヤーちゃんも、あの警察も、それから君の友人たちもネ。君はそうして、沢山の人のためになることができる。それはとても素晴らしいことさ。それにもし用が済めば、この国に帰って来てくれたって、かまわないヨ」

 葉先輩は、真剣な眼差しで滔々と説明した。


 その提案はぼくにとってある種の魅力を孕んでいた。

 マユミさんや耶衣子ちゃんがぼくと離れることで、危険に晒される恐れがなくなること。そうすればマユミさんは、ぼくに煩わされることもなく、研究所の捜査に専念できるかもしれない。

それにぼくが日本を離れてしまえば、メグとネリーの任務が打ち切りとなって、二人は自由の身になるかもしれない。ぼくを殺すなんてこと、しなくて済むかもしれない。この学校に戻ることだって、あるのかも。


 ぼくが中国に行くという、ただそれだけで、沢山の人が幸せになるような、そんな気がした。ぼくだって、それほど酷い生活を送る訳じゃない。生活を保障してくれるというのだ。ぼくが目的なら、好待遇とはいかないまでも、ぼくの機嫌を損ねない程度の生活は用意してもらえるのだろう。


 ただ、今日のネリーを巡る一連の考えが、ぼくの頭にはあった。中国に行くにしても、周囲の人たちにケジメを付けて出て行きたい。


「ぼくの答えは、いつ返したらいいんですか」

「今すぐに。でなければ、君はメグ達に殺されてしまうかも知れないネ。そうなれば全てご破算。君が了解と言えば、すぐにこの国を出るヨ」

「今すぐ、ですか」

「そう。……本音を言えば、君に周りの人間に相談して欲しくないネ。この約束は、正規の手続きを踏まないもの。違法ヨ。君の周りは、君を止めるだろうからネ。君のことが、大切だから。……それは勿論、ワタシにとってもだけどネ」


 ――ぼくが大切。


 その言葉が、ぼくの頭の中をリフレインする。

 皆、ぼくを大切に思ってくれている。皆、ぼくの境遇を知っていて、ぼくを支えようとしてくれている。それはぼくが『可哀想』な境遇だからだ。ぼく自身になにか、大切にされるような価値がある訳じゃない。


 それなのにぼくは、既に大切にされてしまった。これからもそうだろう。

 でも、葉先輩の提案を受け入れれば、今ならぼくは、その恩に報いることができるんじゃないだろうか。


 ――ようやく、分かった。


 ぼくは、誰かにとって価値あるものになりたかったんだ。

 誰かから施されるばかりの価値のない自分を、変えたかった。そう思っていた。だから、ネリーを命がけで助けようとしたんだと思う。

 そして今だって、皆を救うことができる葉先輩の提案に魅せられている。


「答えを訊くネ」


 葉先輩は、微笑みを浮かべて右手をこちらに差し出した。


「来てくれると、嬉しい」


 ぼくはこの人の提案に、言葉に、瞳に、表情に……魅せられていた。ぼくの心は、砂糖に群がるアリのようにふらふらと、誘引されていく。抗うことのできない甘美な蜜が、そこにあった。


 ぼくの手が、重力に歯向かって持ち上がる。

 この人なら、ぼくが本当に欲するものを与えてくれる。そんな気がする。

 ぼくが我慢をすれば皆が救われる。ぼくが犠牲になれば――。

 誰かの声が、聞こえた気がした。


 ――人のためなら自分は死んでもいいの?


 ――もっと自分を優先したって、いいんだよ。


 ――自分を一番大切にできるのは、自分だけなんです。


 そんな声たちに、ぼくは答える。


 ――ちがうよ。この選択は、皆のためだけにするんじゃない。ぼくのためでもあるんだ。ぼくが、価値あるぼくになるための我慢。ぼくがぼくを大切にするための、一つのプロセス。


 ぼくが言うと、声たちは静かになった。ぼくは満足した。

 葉先輩の差し出された手が、すぐそばにある。


「――可哀想な人」


 その声に、ぼくの手はぴくりと止まった。

 頭の中の声じゃない。現実の声だ。


「……どちら様ネ?」


 葉先輩は、椅子に座ったままで、くるりと体の向きを変えて、暗室の入り口を向いた。

 隣室に差し込む眩い夕陽が、生徒の髪を照らしている。それはまるで、黄金の稲穂のようだった。

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