第21話 コルネオーリ・ハワードの目線

 ぽつぽつとトタン屋根を叩く音に交じって、波の打ち付ける音がする。

 周期的なその音は普段なら眠りを誘う音であるはずなのに、マーガレット・ハワードにとっては、かくも忌々しいものは無かった。もはや音だけではない。彼女が知覚するものすべてを、彼女は憎んだ。


 崩れたコンテナと金属の端材が散らばる、汚らしい倉庫。冷たいコンクリートの床のネズミの糞。ふ頭から漂う潮の香り。


「ぐっ……!」

「メグ、大丈夫?」

「いいからっ、早くしなさい!」


 マーガレットは必死の形相で、眼前の光景を目に焼き付けた。

 木製のテーブルに乗せた右手は、コルネオーリ・ハワードによる治療の最中に合った。青白く陶器のような手。その親指と人差し指の間はおぞましい朱に染まり、朱の中にまだらの脂肪の白が露出している。今、その皮膚に針を通したコルネオーリは、手の甲の皮膚と手の平の皮膚を縫い合わせ始めた。


 歯を食いしばり、熱した鉄小手を当てられたような激痛に耐える。それは、これまで幾度となく彼女が経験してきたことだった。


 苦痛は、鋼を鍛え上げる槌。

 苦悩は、切っ先を鋭く尖らす砥石。

 そしてこの目を背けたくなる光景もまた、彼女を強くする。

 

 ――あの女たちを許さない。

 苦痛を、苦悩を何十倍にして取り立ててやると、彼女はその痛みに誓った。


 コルネオーリは苦しむマーガレットを、そして惨たらしい傷跡を前に、自らの心の灯を消した。無傷のままの自分と傷ついたマーガレット――鏡写しのような二人の対称的かつ決定的な誤りをコルネオーリは直視出来ずにいる。


 神は気まぐれだと、コルネオーリは思った。二人をこんなにも似せて作ったのに、心までは似せてくださらなかった。それはどれほど残酷で、どれほど不幸なことか。


 縫合を終え、マーガレットに鎮痛剤を注射したコルネオーリは、大きく息を吐いた。マーガレットの血だらけの手からは、剥き出しの白が隠れていた。その手を洗浄、消毒したコルネオーリは、手の稼働を妨げないように注意して患部をガーゼと包帯で保護した。


「これでひとまずは、よし。本土に帰ったらちゃんとした医者に掛かろう。しばらくは動かしちゃだめだよ」

「……ありがと、ミーシャ。……でも私、すぐに……殺さなきゃ……」


 コルネオーリはどきりとした。それはコードネームではなかった。


「ボクはネリーだよ、マーガレット。君は早く寝た方がいい。ベッドへ運ぶ」


 マーガレットをひょいと持ち上げて、ベッドへと運ぶ。

 彼女は軽かった。

 この細くて小さい身体のどこに、あれほどの力が備わっているのだろうか。でもそれは、ボクだって同じなのかもしれない。同じ背丈の人間を、軽々持ち上げられるんだから。


 ベッドに辿り着いたコルネオーリは、血で汚れたマーガレットの制服を苦労して脱がした。鎮痛剤が効いているのだろう、マーガレットは気を失ったように静かに眠っていた。


 下着姿になったマーガレットの身体は、美しかった。白く艶やかな肌には、いくつもの戦いの歴史が刻まれている。それは白い氷山のクレバスのように、長さも形も様々で、ふさがってはいるがミミズのような真皮の赤みが痛々しい。


 その一つ一つと、コルネオーリは共にしてきた。コルネオーリとて身体に残っている傷はあるが、マーガレットほどではない。マーガレットは何も言わないが、それはマーガレットがより危険な任務に率先して従事しているからだということを理解している。マーガレットの傷は、コルネオーリの傷でもあった。


 マーガレットが以前傷を負ったとき、そのうち私の白い部分は無くなるね、と笑って冗談を言っていたことを、コルネオーリはよく覚えている。鏡で自分を見るのが嫌になっちゃうかも、と彼女は笑った。コルネオーリは、そんなことは無いよ、と返した。

 それは本心だった。誰が何と言おうとマーガレットの身体は美しいと思った。たとえ、もっと傷が増えて、傷だらけになったとしても。


 マーガレットの腹部のひときわ大きな傷跡に、愛おしそうに唇を軽く触れ、接吻した。


「……おやすみ。メグ」


 小さく身じろぎをしたマーガレットに、コルネオーリは優しくブランケットをかけてあげた。

 彼女は、そばにある自らのベッドに横になり、目を瞑った。


 疲れているはずなのに、彼女になかなか眠りは訪れなかった。傷口や血を見て、興奮状態にあるからだろうと、彼女はそう結論付けた。

 横になっていると、疲労している脳に様々なイメージが水泡のように浮かびあがってきた。これまでのことと、それから、これからのこと。


 それはまず、少年だった。

 少年はベッドに横たわって眠っていた。

 そこへ少女と大人の女性がやってきた。少女はそれきり、ベッドの横で少年を見守っていた。


 それは学校だった。少年は少女に腕を引っ張られながら、緊張した面持ちで歩いていた。少女はぐいぐいと、少年を引っ張る。


 それから、街路樹の続く道。少年と少女は二人は並んで歩いていた。少年は、柔らかく安堵した顔を浮かべている。


 それは教室だった。少年と目が合うと、驚いた顔をしていた。

 階段で。食堂で。音楽室で。図書館で。畳のある部屋で。

 少年は困った顔をしたり、笑ったり、照れたり、ふてくされた顔をした。


 それは、暗くて狭い部屋。少年は心配そうな顔でこちらを見下ろしている。

 それは、雨に濡れた街灯の下。少年は泣いている。

 少年の姿が大きくなる。こちらが近づいているのだ。


 少年は涙を拭って振り向いた。強張った笑顔を見せた。

 少年の姿が、徐々に、視界一杯に広がって――。


 誰かが倒れていた。薄汚れた衣服から伸びる手足は浅黒い。それは息絶えている。背中に深々と、刃物が突き刺さっている。


 誰かが横たわってこちらを見ていた。眉間の間には小さく黒い穴が開いている。その顔は恐怖に歪んでいた。その目は何者も、見ていなかった。


 誰かが崩壊したコンクリートの建物に寄り縋っていた。腰から下が無い。赤くてらてらとした臓器が、千切れた衣服の間から重力に引かれるままに垂れ下がっている。


 誰かが椅子に力なく腰かけていた。首元に何かが生えていて、頭はだらりと力なく垂れている。首から下の紳士服は赤黒い鮮血に染まっていた。


 誰かが仰向けに倒れている。それはあの少年だった。消え入りそうな笑顔を顔に浮かべている。充血した目は虚ろに開かれて、虚空をさまよっている。少年はこと切れていた。胸元に刺さるナイフが、衣服を濡らす血だまりが、命の終焉を告げる。


 視界が地面を向いた。衣服に飛び散った返り血が、白い服に赤い斑点を作っている。持ち上げた両の手のひらは、真っ赤に染まっている――。


 コルネオーリはゆっくりと目を開いた。息を深く吐く。鼓動が激しく脈打っている。彼女が二度呼吸をする間に、鼓動は平時の状態へ落ち着いていた。


 ――ボクは。ボクたちは少年を殺す。


 彼女は少年の生を直視した。少年の死を鮮明にイメージした。それは数多ある死の一つに過ぎなかった。彼女が築き上げてきた屍の山の、一すくい。


 それは、彼女が任務の前に行うルーティンだった。

 この行為は彼女にとっての、認知の自己認識である。自らが、何を奪うのか。何を行おうとしているのか。その結果何が起こるのか。その全てに目を背けることなく、正視する。それを幾度となく繰り返す。彼女の頭の中で、何度も標的を殺す。


 最初は躊躇いがある。じきに慣れてくる。だが、慣れてはいけない。死の一つ一つを、頭に刻み付ける。幼い娘がいるのだと、想像の中で対象に命乞いをさせたこともある。そうして、殺す。


 イメージがリアルなほど確実性が増す。標的は、時として激することもあれば、哀れに泣き叫び、命乞いをすることもある。言葉や表情で何を訴えられようとも躊躇いなく任務を遂行するために、これは不可欠な行為だった。


 特別なことなどない、とコルネオーリは言い聞かせる。

 同じような年頃の、あるいはもっと小さな少年や少女を手にかけたことだってある。彼ら彼女らは、クーデターにより崩壊した政権下で武装組織に徴兵された少年兵であったり、時には政府要人の一人娘であったりした。


 彼女は目を瞑った。心配そうにこちらを覗き込んでいる少年の顔がちらついて、そして煙のように消えた。


 再び目を開ける。少年の姿はない。

 薄汚れた打ちっぱなしのコンクリートの天井が、暗闇の中にうっすらと浮かび上がる。トタンの屋根を打つ雨音は一層激しさを増して、まるで亡者が侵入しようと無造作に手を叩きつけているかのようだった。


 ――ボクが恨めしいか。


 天上に向かって、無言で問いかける。

 呼応するように、雨音が強くなった。思わず、口元を歪める。屋根の向こうで、血の気のない人の顔が、どこを向いているか分からないような惚けた黒い瞳が、こちらを見ていた。


 ――ばかばかしい。

 

 瞬きをすると、それは消えていた。


 「ん……」

 隣のベッドで、マーガレットが寝返りを打った。寝息を立てているマーガレットの横顔を見る。


 ボクはあと、どれだけ彼女の安らかな寝顔を見られるだろうか。コルネオーリは、ふと思った。願わくは、それが生ある限り永遠であってほしい。

 借金を返し終えたら。

 そのあとは、何者も寄せ付けないような寒冷でよそよそしい土地ではなく、二人で温暖な国に住む。その場所で、二人同じように老いて、同じように死ぬ。それだけでボクは十分幸福だろう。


 しかし――。

 コルネオーリは同時に、そんなささやかな幸福を否定する。

 ――幸福を望むには、この手は余りに血に塗れ過ぎている。

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