第20話 匣の中に残った希望

 これはマユミさんが知り得た情報であるが、明らかになっていないこと、話せないこともあり、情報の全てではないと前置きをしたうえで、彼女は話し始めた。


 ぼくの両親は、民間の生物研究所の研究員だった。

 九十九生命科学研究所。それが研究所の名前である。東京にある大学の大学院博士を卒業した父さんは、生物研究の道に身を置くことを決断した。そのとき母さんはというと、九十九研究所の遺伝子研究部門で既に働いていて、父さんと母さんはこの研究所で出会い、結婚し、そしてぼくらを産んだ。


 ぼくには一つ上の兄がいた。紫音という兄だ。ぼくらは家族四人、特筆するところのない、ありふれた普通の家族だった。

 でも家族の日常は、ある時から徐々に変容していく。


「警視庁公安部外事第一課、石黒真由。それが私の公的な立場。私たちは、凛音のご両親、比米島孝一郎氏・久美氏の両名からの通報を受けていた。九十九研究所は、大量殺戮兵器に転用可能な研究成果を、ロシアに輸出しようとしている、と」


 マユミさんは、そこで言葉を切った。霧の中に言葉を探しあぐねているように口を結ぶ。痛みを耐え忍ぶような悲痛な顔は、やがて救いを求めるようにぼくを見た。


「……ご両親が亡くなったのは、私のせいなの」


 詳しいことは業務機密上話せないけれど、と前置きしたうえで、マユミさんは話を続けた。


 通報を受け、詳しい話を確認するために警察で待機していたマユミさんのもとに、ぼくの両親は訪れなかった。

 この種の通報には、デマも多いのだという。両親が警察へ現れなかったことから、マユミさんはよくある悪質なデマだと思い、そこで対応を終えた。

 だが、その三日後のことだ。

 両親は突如として、マユミさんの前に現れる。

 ――山中で起きた、自動車転落事故の死亡者として。


 家族四人を乗せた車は、ガードレールを突き破り、谷底へ数百メートル落下した。路面は雨で濡れていて、ブレーキ痕もないことから、事故は悪天候と運転誤りを要因とする悲劇、として処理された。

 ――死者三名。意識不明の重傷者一名。ぼくは車外に投げ出され道路と谷底の中腹で見つかった。


 一家を襲った痛ましい事故は、台風接近のニュースに紛れ、ひっそりと報道された。ニュースは民衆にとって稀にみるセンセーショナルな不幸ではあったが、高速道路を逆走した車が正面衝突を起こしたニュースと合わされば、ごくありふれた悲劇の一つに過ぎなかったに違いない。


 しかし、それはただ一人――マユミさんにとってのみ、全く別の意味を伴って解釈されることになった。彼女は、比米島という珍しい苗字の通報者を覚えていてくれたのだ。


 ――善意の裏切り者に対する誅殺。


 彼女の頭を過ぎったのは、研究所による通報の隠蔽工作だった。

 そののち、公安警察は研究所職員に対する内偵を行う。地道な捜査の結果分かったのは、両親の通報内容がおそらく確からしいということと、ぼくの家族を襲った事故は、事故ではない可能性がある、ということだった。 


「私たちは、あなたたち一家に対する……共謀について、その時に知った。通報から転落事故までは、三日あった。私が、ご両親の通報を受けてすぐに二人を保護していれば……。あなたのご両親を、お兄さんを助けることが出来たはずよ。あなただって、事故に巻き込まれることはなかった。記憶を失うことだってなかった……」


 マユミさんの握りしめた手が、震えている。それは彼女の身を焼く激しい後悔が、出口を求めて彼女の中を暴れ回っているようだった。


「……それで、マユミさんは」

「私は、あなたの境遇に対して強い責任がある。だからあなたの後見人になった。あなたを保護すると決めた。犯人も、まだ捕まっていないから。私たちが知り得たのは犯行が共謀されていた事までだったわ。具体計画や、誰が、どうやって実行したのか、決定的な証拠が見つけられないでいる」

「……だからあいつらは、凛音を狙っているわけ?」


 それまで黙って聞いていた耶衣子ちゃんが、ベッドに寝ころんだまま口を開いた。


「そうよ。おそらくマーガレットとコルネオーリは、九十九研究所そのものか、あるいはその関係者から依頼を受けて、事故から生き残った凛音を狙っている。凛音が転落事件の決定的な証拠を目撃している可能性があるから」

「そんなバカなこと……だってぼくは何も覚えていないんだよ。そんな人間、殺したって何の意味もないじゃないか!」

「記憶だって、消えてなくなったわけじゃない。いつか思い出すかもしれない、と考えているんでしょうね」


 ぼくは、ぼくを支えている骨や肉が、ドロドロに溶けて無くなっていくような、そんな感覚に襲われた。力を入れているのか、脱力しているのかも分からない。つまりは〝念のため〟殺しておこう、とそういうわけだ。そのためにメグとネリーは、手の込んだ手法でぼくに近付いた。


「メグとネリーは、ぼくを油断させるために……。全て、演技だったの?一緒に学校を回ったのも、朝ご飯を作りに来てくれたのも、全部。体育倉庫で倒れたことだって、偽装だっていうの?」


 ぼくの叫びは虚しく病室に響いた。音は部屋を揺らして掻き消え、哀しみと沈黙が居座った。誰も、その質問に答えてくれない。ただ沈黙だけが、ぼくを肯定した。


「ごめんなさい」

 沈黙を破ったのはマユミさんだった。顔が見えないくらい、深く頭を下げている。


「なんで……謝るんです」

「あなたの家族を死なせてしまった。あなたをこうしてもう一度、危険な目に遭わせてしまった。そしてそれ以上に、辛い思いをさせてしまった。全部、私のせい。私には、こうすることしかできない。凛音は私を許せないと思う。それでも、ごめんなさい……」


 最後は消え入りそうな声で、マユミさんは肩を震わせていた。ぼくはそんな彼女の姿を見て、ようやく血の一滴が身体を巡ったような心地がした。


「……許しません」


 ぼくの言葉に、顔を伏せたままのマユミさんの肩が、ぴくりと揺れた。ゆっくりと顔を上げたその瞳は、今にも零れ落ちそうなほどの涙を湛えている。


「絶対に許しません。謝罪だって、受け入れません」

 ぼくは、断固たる決意で言い放った。


「凛音……私……ほんとうに、取り返しのつかないこと――」

「だって、マユミさんは悪くないじゃないか‼ マユミさんは……耶衣子ちゃんはぼくを守って、助けようとしてくれた。悪いのは全部、その研究所の奴らだ。ぼくがマユミさんを許すも何もない、謝らないでください。

 それどころかぼくは、ぼくを支えてくれている二人に、言葉じゃ言い表せないくらい感謝してる。だから、ぼくが二人に伝えたいのは、寧ろありがとうなんです。ぼくと一緒に居てくれて、本当にありがとう。そしてこれからもずっと、よろしくお願いします。――まったくもう、泣き虫なんだから」


 両手で顔を覆ったマユミさんは、嗚咽しながら日本語なのか外国語なのかよく聞き取れない言葉を喋っていた。

 ぼくは、こんなマユミさんを知らなかった。でも今は、彼女のこんな一面を知ることが出来てよかったと思う。だってぼくは、今までよりもっと、マユミさんのことを好きになれた。


「んっ……敬語禁止ぃ……」

 嗚咽するマユミさんからやっと聞き取れたのは、そんな言葉だった。今は許して欲しい。


「……重婚禁止」

 耶衣子ちゃんが、そっぽをむいてぼそりと呟いた。


「ちが、ぼくはそんなつもりじゃ! というか、ぼくらにはまだ無理じゃないか。十七だし」

「……私、派遣社員。フリーの傭兵。十八歳超えてる。詳細は業務機密」

「そんなバカな、信じないよ」

「……信じてないな。これはほんと。あと……ごめん。幼馴染は、嘘」


 ぼくからは、背を向けて話す耶衣子ちゃんの顔は見えなかった。

 薄々、分かってはいた。

 といっても、耶衣子ちゃんがメグからぼくを助けてくれた、その時からだ。どこの世界にだって、日常的に防弾ジャケットを着こんだ女子高校生の幼馴染は居まい。というか、耶衣子ちゃんが派遣社員なら、女子高校生ではないのか。いずれにせよ同じこと。彼女がぼくを救ったことは変わらない事実だ。


「ぼくを、守ってくれていたんだよね」

「……それが仕事。外事課は人使いが荒い」


 家から外に出れば、耶衣子ちゃんはずっとぼくのそばにいた。学校でも、ぼくが熱中症で倒れて入院してた時も、メグが朝ご飯を作りに来た時だって、そうなんだろう。それ以外でももっと、ぼくは耶衣子ちゃんに守られていたのかもしれない。


「騙して、ごめん。私だって……逃げてた。マユミと同じ」

「確かにぼくは、耶衣子ちゃんにもまんまと騙されていたわけだ。記憶が無いんだから、可愛い女の子に幼馴染なの、なんて言われちゃ信じるしかないよね。酷いよまったく」

「……馬鹿なことを言わない」


 ぼくにはしっかりと見えた。耶衣子ちゃんはぼくに背を向けていて表情は見えないけど、すっかり血が巡って赤くなっている耳が。

 普段ぼくを揶揄っている罰だ。ぼくは存分に仕返ししてやろうと思った。

 耶衣子ちゃんがどんな目的でぼくと一緒に居たのか、なんてのは、本当に些末なことだ。ぼくは彼女と居て楽しかったし……何より救われていたから。


 命を、というだけでなくて、彼女が救ったのはぼくの心だ。ぼくが自分がそれほど不幸ではないと思えたのも、彼女がすぐそばにいて、ぼくを引っ張ってくれていたからだろう。

 と、そんなことを口に出せば、今の耶衣子ちゃんは身体じゅう真っ赤にして茹でダコになってしまいそうだったので、病み上がりの彼女には手加減をすることにした。ぼくは、ほどほどに優しいのだ。


「でも本当に、そればかりは残念だな。こんなに可愛い女の子がぼくの幼馴染だったら、ぼくはどれだけ前世で徳を積んだんだろうって思うよ。マユミさんが耶衣子ちゃんを選んでくれたのは本当の幸運だね。ぼくにとっては、天使みたいな存在だよ」


 と、ぼくは思いつく限りの美辞麗句を並びたてた。

 さてどんなものか、と耶衣子ちゃんの反応を見ると、永久凍土のような目が凍てつく冷気を伴ってこちらを見ていた。


「……よくもそんな、歯が月面着陸しそうな浮ついた言葉が言えたな」

 ゼロケルビンの声色が、ぼくを襲う。


「嘘だと思う? 本気だよ」

 ここで引いてしまえば敗北は必至である。貫き通せば偽りもまた真なりや。


「……そう。どうぞご自由に」


 くるっ、と耶衣子ちゃんは再び寝返りを打って、ぼくに背を向けた。どうやらぼくの勝ちのようだ。


「あの、あんまり人の居るところでイチャイチャされると……その、気まずいっていうか。イチャイチャするのはいいのよ? 二人の自由だしね。ただちょっと場所を選んで欲しいかな、って」


 マユミさんが大変に言い辛そうに、賢明に言葉を選んで言った。

 ぼくはなんだか、急に恥ずかしくなってきた。そういえば人前で耶衣子ちゃんと話すことって、あまりなかったかもしれない。


「べ、別にイチャイチャなんて! こんなのいつものことですよ!」

「え⁉ あんたたち、いつもこんなやり取りしてるの?」


 そんなに驚かれることだろうか。もはや、毎日のことでぼくには日常だ。

 マユミさんの目が、ぼくらを遠巻きに眺めるようによそよそしくなった。


「耶衣子ちゃん。差し出がましいようだけど、保護対象との関係構築は――」

「分かってる。私はもちろん……凛音にだって余計なお世話」

「……頼むわね」


 マユミさんと耶衣子ちゃんのやり取りを聞いていると、本当に耶衣子ちゃんは普通の高校生とは違うんだということを認識させられる。普段の耶衣子ちゃんは、体格もそうだが、社会で働いているようなイメージが見受けられないから、こうしたビジネスライクの会話が似合わないように思ってしまう。

 ともかく全て事実だと信じるとして、ぼくは日本にフリーの傭兵という職業があるとは露ほど知らなかった。


 ――警察に、傭兵。


 二人はそれぞれ、仕事としてぼくと一緒に居てくれたのかもしれない。それでもぼくにとって、二人はかけがえのない人だと思っている。

 パンドラが箱の中に希望を残したように、ぼくの最悪の災厄にも、まだ二人という希望が残っているから――。

 ぼくは希望を胸に、前を向いて歩いていける。

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