第18話 マーガレット・ハワードという少女

 家を出たとき、外は雨が降っていた。

 そんなことにかまう気にもなれず、結果ぼくは全身ずぶ濡れになって橋の下に座り込み、雨をやり過ごしている。濡れた衣服が肌に纏わりついて気持ちが悪い。


 あの時。

 マユミさんに質問をした時。

 マユミさんは酷く悲しい顔をして、押し黙った。ぼくは身震いした。また同じことを繰り返していると、悟った。


 おまえは、また知らなくていいことを知ろうとしている。

 知れば後悔することになる。


 そんな声が聞こえた気がして、気が付けば家を飛び出していた。

 知らなくてもいい事、というのは、知らなくていい様にできているのではないか、そんな気がした。


 知れば、不幸になる。

 ぼくは、ナターリアの話した言葉を思い出していた。

 ――自由とは罪であり、そして生者の業。


 ぼくは日野貞代から、知らなくても良いことを知ってしまった。もし知らなかったら、今頃は家で夕食を作りながらマユミさんの帰りを待っていたはずで、夕食をとりながらマユミさんの冗談を適当に聞き流し、ぼくもまたマユミさんに口撃しながら、いつもと同じ他愛のない生活を送っていただろう。


 考えるまでも無い。

 知る前のぼくは幸福で、知って選択肢を得た今のぼくは、不幸だった。


 車が通るたび、頭上の橋で水を跳ね飛ばす音がする。雨は強さを増して、まだ止む気配はない。

 対岸の堤防道路を超えた向こうに、大きなマンションが見えた。

 ぼくはふと、そこに住む人たちのことを想像した。


 広く、綺麗な部屋。暖かな照明の下、ダイニングキッチンで食事をする家族。父と、母と、そして子供。

 ――ねえ聞いて!今日学校のテストで、一〇〇点取ったんだよ!

 ――へえ、すごいじゃない!よく頑張ったわね。

 ――偉いぞぉ。そうだ、ご褒美に、週末は遊園地に行こうか!

 ――やったぁ!

 皆、幸せそうに笑っている。

 

 事故に遭う前のぼくも、ぼくたち家族もそうだったんだろうか。

 雨を吹き飛ばすように強い一陣の風が吹いた。五月の夜風はまだ寒い。からだが濡れていれば猶更だ。


 だというのに、ぼくの目頭はどんどん、どんどん、熱を帯びる。

 ぼくは惨めじゃない。不幸じゃない。可哀想じゃない。

 ずっと、そう否定してきた。

 記憶が無いから分からない、比較できない。今思えばそれはぼくの、ぼく自身を守る無意識の防御反応だったに違いなかった。

 

 ぼくがみんなと同じように、ぼく自身をそう思ってしまったら、その時は。

 その時は取り返しがつかないじゃないか。ぼくは本当に『可哀想』になってしまう。


 そして、もう――全てが遅かった。

 誰も見ていないはずなのに、ぼくは両手で顔を強く覆った。

 歯を食いしばる。でも止めようとすればするほど、唸るようなしゃくり声は、気持ちとは反対に激しさを増す。

 あぁ、ぼくは。

 やっぱり、どう抗いようもなく。


 ――不幸なのだ。


 そう、思ってしまった。


「ハウアーユー?」


 聞き覚えのある声に、ぼくは振り返った。


「酷い雨デス。傘をさしてても、ちょっぴり濡れてしまいマシタ」

 制服姿のメグが、照明の明かりの下で照れ隠しみたいに小さく笑っていた。手にしている畳んだ傘から、雫が滴っている。


「リオンも、今日は雨模様?」

 ぼくは慌てて、濡れた服で顔を拭った。


「どうしたの、こんなところに」

「マユミから、リオンが居なくなったと聞いたデス」


 メグが近付いてきて、ぼくの隣に座った。ぼくはメグに顔を見られたくなくて、メグに背を向けた。


「……帰りたくないデス?」

 背中でメグが囁く。


「どうなんだろう……わかんないや」

 ぼくは、何がしたいんだろう。マユミさんと、どう在りたいんだろう。


「メグ。ぼくは可哀想だろうか」

 そんなことを口にしていた。

 慰めて欲しいのか、同情して欲しいのか、とにかくぼくは、なんでもいいから誰かと話がしたかった。


「……私から言わせれば、あなたは……この国の人間は、余程幸福。社会情勢が安定していて、紛争も無く、食べ物に溢れてる」

 背中越しにメグの優しい声が聞こえた。

 それは、そうだ。内紛で戦闘の絶えない地域と比べれば、十分に。

 でも、だからといって自分の身に起きた不幸を、不幸と思わない人間はいない。体験しない他国の争いは、ぼくらにとってただの情報だ。


「可哀想な子」

 濡れた背中に重みと、メグの体温を感じた。じわじわと、ぼくに温かい熱を伝える。メグの腕が、ぼくのお腹に回った。


「私は知っている。爆裂し崩壊する建物。耳をつんざく悲鳴。目の前で子を失い慟哭する親。地雷に吹き飛ばされた下半身。銃弾に割れた幼児の赤い頭蓋。泥水の味。この世の不幸を煮詰めた地獄の光景」


 メグの腕に、僅かに力が籠る。


「この国では、そんな現実もテレビの向こうのドキュメント。動物の赤ちゃんが生まれたことが、世間を賑わす。平和で、富んでいて、幸福で。でもこの国の人間の心は冬枯れのように貧しい。知らないでいるならまだ上等、知っていて知らないふりをする。愚劣で貧相で――本当に、可哀想」


「……メグ?」


 メグの様子が、話し方が変だ。すっかり流暢な日本語だ。まるでいつものメグではない。

 背中から回した腕で、メグはぎゅっと、ぼくを抱きしめた。


「あぁ腹が立つ。自分が世界で一番、不幸みたいな顔をして。あんたは何のことだって、これっぽちも! ただのこれっぽっちも分かっちゃいない癖に‼」

「め、メグ……苦し……」


 それはもう、抱きしめるなんて生易しいものじゃなかった。絞り上げるように引っ張られたぼくの服が、首をぎりぎりと絞めつけている。

 ぼくはメグから逃れるように立ち上がると、思いのほか容易く彼女の拘束は緩まった。


「君は……何を……」


 ぼくは咳き込みながら、メグの方を見る。

 メグは微笑んでいた。それは彼女がこれまで見せたような、夏の陽光にも似た笑顔ではない。光も熱もない、荒涼とした月の裏側のように冷たい笑み。


「私はね、この世界のどん底より幾分幸福で、あなたより不幸な人間なの」

「どういう……こと?」

「可哀想なあなたを助けてあげる。それはとても、幸福なことなのよ」


 メグの手元で、何かが光ったように見えた。


「悩むのは辛いでしょう。苦しいでしょう。そんな責め苦から、私が救済するの。それが私の天命」

 メグがゆっくりと、ぼくに近付く。ぼくは彼女のただならぬ様子にたじろいだ。彼女の左手に握られているものがはっきり見えた。


 ――ナイフ。


「怯えています? どうか怯えないで。あなたは絶望に打ち勝つ。そしてあなたは無に還る。罪と一緒に」

「メグ、よしてよ。冗談にしても、たちが悪いよ」

「冗談。そう、冗談。この世は神の気まぐれで、冗談。きっと神は酒飲みね。正気に戻って等しくお与えになったのは、ただ最期の静謐だけ」


 白い頬に仄かな朱が差している。薄い笑みを依然としてそこに浮かべたまま、メグはこちらににじり寄ってくる。

 もはや会話にならない。どうしてメグは、ぼくを刺そうとしている? 


「さようなら。束の間の我が友人」


 メグが、ナイフを構えた。

 瞬きしたぼくの眼前に、切っ先が迫って――。


 次の瞬間にぼくは、身体を強く地面に投げ出していた。何かが身体にぶつかったのだ。咄嗟に目を瞑ったせいで、ぼくはその何かを認識できなかった。


「また、あなた」


 メグの声が聞こえた。

 身体は痛くない。頭の後ろに手のひらの感触があって、どうやらぼくが後頭部をコンクリートに打ち付けずに済んだのは、この手のお陰らしかった。

 ゆっくりと、目を開ける。

 ぼくの目に映ったのは、倒れたぼくに覆い被さる耶衣子ちゃんだった。


「や――」


 耶衣子ちゃん、とぼくが彼女の名前を呼ぼうとすると、彼女はすぐさま身を翻して立ち上がり、メグに正対した。彼女は黒いポンチョのような物を着て、ぴっちりとした黒いレギンスを履いている。


「マーガレット。これは何のごっこ遊び?」

 耶衣子ちゃんの声は冷静だった。冷静に、メグを見据えている。


「惚けたこと。耶衣子は最初から、分かっていたでしょう?」


「……あの発信機の事。あなたは潜入前に現地人をもっと学ぶべき。初対面の異性にあんな挨拶のハグをしていたら、誰でも変に思う。たとえ相手が、あなたのような間抜けな英国人だとしても」

「オゥ、手厳しい。でもワタシ、よくいる留学生に見えたでしょう? 日本のこと、勉強しましたデス」

「やめて。その喋り方、臭くて鼻につく」

「お気に召さないようで」

 そう言って、メグはため息を付いた。


「耶衣子、あなたは餌に集る蠅のよう。あなたさえいなければ、雨の中を出張らずに済んだのに。私の絶品料理で凛音もマユミも今頃仲良く天国でした」

「蠅に邪魔される気分はどう」

「どうもありません。蠅は蠅。叩いて潰せば終わりです。でも――」

 メグはそこで。困ったような顔をした。


「私はできれば汚れたくない。素直なあなた、凛音を渡してくれませんか?」

「断る」

「どうしても?」

「あなたが荷物をまとめてこの国から出て行けば、あるいは」

「私のカスタマーは、お金をはずんでくれるかもしれません。あなたの今のサラリーのうん倍も」

「口を閉じて巣に帰りなさい。ドブネズミ」


 ぱしゅん、と掠れた破裂音がした。空気が漏れたような音だ。

 直後、耶衣子ちゃんが崩れ落ちた。


「そう、跪いて。あなたはやっぱり素直ね。これで彼がよく見える」

「……っ!あんた、滅茶苦茶をっ……」

「耶衣子ちゃん!」


 ぼくは反射的に耶衣子ちゃんに駆け寄った。耶衣子ちゃんがお腹を押さえて苦しそうに喘いでいる。その顔は、苦痛に歪んでいる。

「馬鹿‼ 私から離れてさっさと逃げろ!」

「で、でも」


 耶衣子ちゃんを置いてはいけない。

 咄嗟に、メグの方を見た。

 彼女は右手に細長い黒い物を持ち、こちらへ向けている。


「じゃあね」


 ああ、本物は初めて見る。これは拳銃だ。あの細長い銃身は、消音器というやつだろうか。道理で、変な音がしたわけだ。

 こちらを向いているから、ぼくは死ぬんだな。

 なんでぼくは死ぬんだろうか。ぼくが、何かメグを苦しませていたのか。


 ――いずれにせよ、これがぼくの選んだ自由の末路。


 ぼくは耶衣子ちゃんに覆い被さるように身を丸め、固く目を瞑った。

 ぱしゅん。

 気の抜けたような、掠れた音が響いた。



 ぼくは、閉じた暗闇の中で何かが思い切り地面にぶつかったみたいな轟音を聞いた。

 身体はまだ、痛くない。弾は外れたのか。

「うっ……!」

 噛み締めるような苦悶の声が聞こえて、ぼくは瞑っていた目を開いた。

 青ざめたメグが、膝をついていた。左手で右手をかばうように掴んでいる。

その指先から、赤黒い液体が滴っていた。


「両手を挙げて。地面に伏せなさい」


 メグは忌々し気に、声のした方を睨みつけた。

 ぼくも、その視線の先を追う。


「マユミさん……」

 そこに居たのは、拳銃を構えたマユミさんだった。


「……わぉ。良い腕。日本のポリスも案外やりますね」

 メグは苦しそうに、乾いた笑いを漏らした。


「もう一度言います。両手を挙げて、地面に伏せなさい」

 マユミさんの声は、いつものふざけた様子とは違って、何者も寄せ付けないほど冷たい。


「……コルネオーリはどうしました?マユミ」

「余計なことは喋らなくていい。最期の警告よ。従わなければ左腕を打つ。両手を挙げて、地面に伏せなさい」


 メグは、右手をかばっていた左手を離した。その手の平は、真っ赤に染まっている。右手を滴る赤黒い血が、小さな水溜まりを作っている。

 両手がゆっくりと、メグの頭上に上がっていく。


 かん。

 なにかが、コンクリートに落ちて甲高い音を上げた。それは、メグのすぐ近くに転がって――

「マユミ――」

 誰かの声がした。

 その途端、世界は真っ白になった。

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