第17話 マユミさんとぼく。ときどき、オカン。

 喫茶店で日野貞代と別れてから、ぼくはできるだけ人通りの多い道を選んで自宅への帰路に着いた。周りを警戒しながら歩いたけれど、結局ぼくは誘拐されることはなかった。貞代さんがぼくを誘拐するつもりだった、という考えは捨ててもいいかもしれない。


 家に着くと、鍵を開けて中に入る。喫茶店を出たのは一八時前だったから、今は丁度一八時頃だろう。マユミさんはまだ帰って来ていない。

 ぼくは階段を上がって二階の自分の部屋に着くと、制服を着替えた。そのとき、ちょうど一八時を知らせる地域放送の音楽が流れた。


 ぼくは、意を決した。

 別に今日でなくていいのではないか、そんな声がぼくの中に響いていたが押し込めた。貞代さんの気が変わって違う行動に出るかもしれない。

 自分の部屋を出ると、廊下を右に折れた。廊下の先には、マユミさんの部屋がある。女性の部屋に無断で入るのは気が引けるが、致し方ない。


 ぼくは、貞代さんの言葉を全て嘘だと断罪して、まったく信じなかったわけではない。貞代さんが語った言葉の中には、いくつか真実らしいものもあった。ぼくの両親の遺産の話など、そうだ。


 喫茶店からの帰りがけ、ぼくはスマートフォンで親が死亡した場合の遺産の相続順位について調べた。第一位が配偶者で、配偶者が居ない場合は全ての遺産が子に相続されるという。ぼくの場合は両親が二人とも亡くなっているので、二人の遺産はぼくに相続されていることになる。


 つまり、マユミさんが何らかの理由でぼくに遺産のことを黙っている、というのは真実なのだ。

 そう思うと、ぼくは胸がじりじり締め付けられるような息苦しさを感じた。

 ――隠し事はしない。悩みがあれば相談する。

 そう宣言したマユミさんの姿が思い浮かぶ。


(これも乙女の内緒ですか。マユミさん)


 ぼくは口には出さず、マユミさんを詰った。

 マユミさんの部屋の前に辿り着いて、ぼくは部屋のドアを眺めた。

 元々母親の部屋だったその場所に、マユミさんが収まった。母さんの部屋、と書かれた木製のプレートは、ぼくらがこの家に来てから、そのままの姿で掲げられている。


 ――思い出は変えない方がいいでしょう?いつか、懐かしむ日がくるかもしれないから。


 そんなマユミさんの声が、頭に響いた。

 彼女は――思いやりのある人だ。そんなマユミさんの姿が思い浮かぶにつれ、ぼくはやるせなくなる。

 けれど、行動する理由と権利がぼくにはある。それは亡き両親の名の下に課される、ぼくの義務でもあるはずだ。もし両親の遺産が、ぼくの財産が不当な扱いを受けようとしているのならば。


 ぼくは、ドアノブに手をかけて回し、ゆっくりと押した。すると、ひらりとドアの隙間から何かが落ちた。フローリングの床に落ちたそれは、小さな紙片だった。五センチ四方といって程度だろうか、メモ用紙にも見えるそれは両面とも、何も書かれていない。


 なんでこんなものが……と思った瞬間、ぼくはすぐ思い当たることが有った。スパイ作品で見たことがある。紙片を扉の間に挟んでおき、留守の間に人が入ったかどうかを確かめるのだ。紙片が床に落ちていれば、だれかが入った、という事になる。

 ぼくは焦って記憶を探った。部屋を出るときには、これを元通りにしておかなくてはならない。


 この紙はどこから落ちたのか。手元のあたりから落ちたような気がした。

 ぼくは急いで廊下に出て、ドアを閉めてみる。ドアとドア枠の間には隙間があって、先ほど拾った紙片は隙間に引っかかることなく、簡単に下に滑り落ちてしまう。

 ならば、とぼくはドアノブのすぐ横、ノブを回すと出たり引っ込んだりするラッチを見た。ここに乗っていたに違いない。慎重に紙片を乗せてみると、無事に紙片はラッチに乗ったようで、落ちることは無かった。


 これでいい。あとは、部屋を出るときにこの紙片をラッチに乗せて出ることを忘れないようにしよう。

 紙片をポケットに入れて、ぼくはあらためて、部屋の中へ入った。

 マユミさんの部屋は綺麗に整頓されていた。

 部屋は小さな座卓とベッド、引き出しの付いた大きな机と、本棚。そして腰の高さほどの衣装ケースが、壁際に置かれている。ベッドの足元側には、押入れがある。

 マユミさんがこの部屋を使う前に一度、ぼくはこの部屋に入ったことがあったのだが、その時と大きく変わっていないように見える。一緒に運び入れた衣装ケースが、その時と違っているくらいだ。ぼくは部屋の様子に、亡き母へ慈しみを感じた。できるだけ、元の部屋の様子を保って生活をしている、そう思えたのだ。


 探すところはそれほどない。机の中か、あるいは押し入れか。

 悪いと思いながらも、ぼくは机に近付いた。机の上にはライトスタンドとパソコンが置かれているくらいで、その他にめぼしいものはない。ぼくは引き出しを上から開けていった。

 机の天板の真下、一番大きな引き出しには鍵がかかっていた。ぼくは諦めて、キャスター付きの四段になった引き出しに手をかけて、上から順番に空けていった。

 引き出しの中に入っていたのは、ホッチキスで閉じられた英語の論文、保険会社のパンフレット、ぼくの小中学校の頃の学校の事務書類、それから大学の合格証とか、博士学位の証明書とか、そんなものだった。どれも、母さんのものだ。マユミさんのものは、全然見当たらない。押し入れの中も探してみたが、めぼしいものは見つからなかった。


 やはり、あの机の引き出しが一番怪しい。だけど、机の引き出しの中にはそれらしい鍵は無かったから、おそらく鍵は本人しか分からない場所に隠しているか、あるいは鍵を携帯しているのだろう。残念ながらぼくにはピッキングの技術も無いので、これ以上はどうしようもない。


 もう破れかぶれだ。無理やりこじ開けるか。なにか、引き出しをあけられそうなものは――。

 部屋を見回していたぼくの視界に、本棚に目をやった。


「あっ」


 ぼくは唾を飲み込んで、本棚に近付いた。

 ぼくが知りたかったのは、マユミさんの真意であった。それに、日野貞代の言説の真贋である。マユミさん本人に関する文書が見つからないなら、その逆――母さんについて、ぼくは確かめればいいんだ。


 母さんの妹は、本当にマユミさんなのかを。


 ぼくの目に入ったのは、本棚に並んでいるアルバムだった。なになに学校卒業写真集、と背表紙に書かれた学校時代のアルバムが並ぶなかに、黒地の、背表紙のないファイルが一つあった。

 ぼくはそれを、震える手でそっと取り出した。

 これが母さんのアルバムだとしたら、母さんだけではない、家族の写真だって綴じられているはずだ。


 ぼくはそっと、ファイルの表紙を開いた。何かメッセージが書かれているでもなく、一ページ目から写真が綴じられている。各ページには、2L判の写真を二枚差し込むポケットが付いている。


 最初のページは、病院で女性に抱かれている赤ん坊の写真だった。色あせていて、薄暗くて少し怖い。女性は長い黒髪をしているが、その顔つきは日野貞代に似ている気もする。赤ん坊の方は……おそらく母さんだろうが、ぼくには判断が付かない。生まれたばかりの赤ん坊と言うのは、これと言った特徴がなく同じ顔に見える。


 次のページを捲る。

 畳の上で、ハイハイをしている幼児の姿。黒い髪の毛が生えている。一歳頃の写真だろうか。

 次の写真では、幼児用の小さな椅子に手をついて、立っている写真だった。

 ぼくは急いでページを捲る。どこかに、家族で撮影した写真があるはずだ。マユミさんと母さんは、八つも年が離れていると言っていた。少なくとも、母さんが小学生の頃より後の写真には、マユミさんが写っているはずだ。


 ぼくの感情は入り乱れていた。

 マユミさんを見つけたい気持ちと、もしかしたら見つからないのではないかという不安をぶつけ合わせながら、ページを一枚、一枚捲っていく。

 一枚、また一枚。

 母さんはどんどん成長して、小学生になって、中学に入学した。高校でバレーをしている写真があって、学士帽をかぶって微笑んでいる写真があって、それから、ウエディングドレスを着ている母さんの写真になった。


 ――ない。どこにもない。

 もう手掛かりはない。ぼくは祈るような気持ちで、更にページを捲った。

 次の写真は、病院だった。

 母さんが赤ん坊を抱いている。結婚して、出産したのだ。ぼくが一六歳だから、これは一六年前の写真になるはずだ。つまりこれが、ぼく――。


 ファイルが、ぼくの手から滑り落ちて、裏返しになって床に転がった。

 ぼくは、息の仕方まで忘れてしまった。

 苦しい。呼吸をしているのに――苦しい。

 心臓が暴れ牛みたいに跳ね回って、どくん、どくんと煩い音を立てている。


 ――こんなのは、何かの間違いだ。


 ぼくは崩れるように床に尻を付いて、それから力なく、裏返しになったファイルを拾い上げた。開いていたページがそのままだ。

 ぼくはもう一度、その写真を見る。母さんがベッドの上で赤ん坊を抱いている。これはぼくだ。

 震える手で、ぼくは顎に手をやった。そこはつるつるとして、何もない。

 赤ん坊の顎にある、一目見てわかる黒子。それがぼくの顎には、なかった。


「感心しないなぁ」


 ぼくは心臓と、身体ごと飛び上がった。

 開きっぱなしのドアの向こうに、マユミさんが苦々しい顔で立っていた。


 その時のぼくはいったい、どんな顔をしていただろう。それはぼくにも分からない。だってぼくにも、ぼくがいったいどういう感情を持ち合わせて、目の前の物事を処理したらいいのか、全く分からなかったから。


 マユミさんの目線がぼくの手元に移って、それから彼女の瞳にさっと暗い陰が差した。

「……何をしてたの?」

 いたずらをしていた子を諭すように、マユミさんは穏やかに言った。


 ――ああ、やっぱり。


 ぼくは思った。やっぱり、こんなことをするんじゃなかった、と。

 知らなくていいものを知ろうとしてしまった。日野貞代が持ち込んだ、パンドラの箱だ。不幸はまき散らされた。そして殊更悪いことに、希望は箱の隅を突いてみても、顔を見せてくれやしない。


「ぼくは」


 どこから説明したらいいんだろう。

 ――祖母と出会いました。

 ――あなたが嘘つきだと聞きました。

 ――あなたを疑って、家探ししました。


 そうして見つけたのは、ぼくは母さんの子供じゃないってこと。

 そんなことを言うのか。

 マユミさんの瞳は悲しみの陰を連れて、ぼくを捉えたまま離さない。その瞳は、ぼくを透かしている。一時の青春の過ち、気の迷いなんかではないと、看破している。だから彼女は、ぼくが何かを言うのをただ待っているんだ。


 よしてくれ。

 もう分からない。何も、ぼくには分からない。

 何が正しくて、誰が嘘つきで、なぜ間違っていて、どうしてぼくはここにいるのか。


「ぼくは……誰なの?あなたは……いったい誰なの?」


 ぼくはうわごとの様に、虚ろな言葉を吐くことしかできなかった。

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