第16話 知らない人

 耶衣子ちゃんたちに合流する気は起きなかった。パンパンに膨らんだ風船に目に見えない小さな穴が開いていて、少しずつしぼんでいくみたいな、そんな脱力感があった。

 ぼくは何かを考えている余裕なんてなく、ただ体が覚えている帰り道を辿って、気が付いたら家に辿り着いていた。

 家の前に、人が立っている。


「あの……なにか」

 ぼくはほとんど反射的に、喋っていた。

 その人は驚いてぼくの顔を見た。

「あなた、凛音君? 凛音君よね」


 その顔には見覚えがあった。いつだったか、朝にぼくの家の方を見ていたおばあさんだ。

 ぼくは、なけなしの警戒心で、はいともいいえとも答えなかった。


「どちらさまですか。どういった御用で」

「……私は、あなたのお母さんのお母さん。つまり、おばあちゃんよ。日野貞代と言います。あぁ、会えて嬉しいわあ!」


 貞代さんは、大げさに喜んだ。

 彼女にとっては感動の再会かもしれないが、ぼくにとっては最悪の状態も相まって、忌避すべき状況だった。


「少し時間あるかしら。あなたに話したいことが有るの。とても大切な話よ」



 ぼくらは、家の近くにある喫茶店チェーンの店舗に入った。貞代さんをなんとなく、家に入れたくなかったのだ。


「見ない間に、大きくなったわねえ」

「ありがとうございます」


 久しぶりに会った孫と祖母の定型文みたいなことを、貞代さんは喋った。

 ぼくは、いくら祖母といっても初めて会う人だし、それほど馴れ馴れしくできなかった。それに、するつもりもなかった。

 ぼくがぼくである期間――つまり入院中に目覚めて、退院して、それから学校に通っている期間はそれほど長くない。長くは無いけれど、ぼくはその間に一度も、マユミさんから貞代さんの話は聞かなかったし、貞代さんがお見舞いに来たこともなかった。ぼくの未成年後見人になってくれたのだって、マユミさんなのだ。例え血の繋がりがあったのだとしても、ぼくにとって貞代さんは他人だった。


「それで、お話というのは何でしょう」

「やだわあ。凛音、敬語なんかやめなさいな。私達、家族なんだから」

「……わかったよ。話ってなに?」


 ぼくはそんなこと思っちゃいなかったけれど、気分を害されて不利益を被っても困るから従った。

 それに――。

 今更、何の話があるのか分からないが、よくない話のような予感がしている。不幸を運んでくるのは、いつも人だ。


「凛音。あなた、うちでおばあちゃんと、おじいちゃんと住まない?」


 貞代さんの口から飛び出した言葉は予想の範疇ではあっても、実際に言葉にされるとどうしようもなく、ぼくに少なからぬ衝撃をもたらした。


「どういう……ことでしょう?」

「それか、私達があの家に住むのだっていいわ。凛音だって、通っている学校を転校したくはないでしょうし。それにあの家は新しいし、三人でも不便なく暮らしていけるものね」


 勝手に。勝手に妄想が広がっている。

 それより待て。今、おかしなことを言わなかったか?


「さんにんで?」

「そう、三人で。おじいちゃんとおばあちゃんと、それからあなた」


 何を言っているんだこの人は。

 話が飛躍しすぎている。マユミさんは――どうなるんだ。


「それを言うなら、四人で、の間違いじゃない? マユミさんだって、今あの家に住んでいるんだから。マユミさんも家族でしょう」


 ぼくがそう言うと、貞代さんの顔はみるみる歪んでいった。彼女は汚いものを吐き出すように、言い捨てた。


「マユミ……。あんな子、家族じゃないわ」

 ぼくは、ただでさえ弱まった血の巡りが、すっかり止まってしまったような寒気がした。その言葉は嫌悪と憎悪に溢れていた。


「それは、流石に酷いんじゃありませんか。あなたの娘じゃないか」

「娘。どういうことかしら?」


 貞代さんは怪訝な顔で言った。

 マユミさんは、娘じゃなく、元々息子だった――とそういうことなのか?だから両親に勘当されて。


「二人の間で何があったかは知らないけど、マユミさんはあなたが産んだ子供でしょう。今のあの人はだらしないところもあるけど、尊敬できる人です」

「私が産んだ! あんなこそ泥を! 酷い……こんなことってあるかしら。やっぱりあの女なんかに従うんじゃなかったわ‼」


 貞代さんはこめかみに血管を浮き上がらせ、顔を真っ赤にして声を荒げた。


「いい、凛音。あの女はね、私の子供でもなければ、あなたとだって何の血縁関係も無いのよ。赤の他人。あなたがそのマユミから、どういう話を聞いているかわからないけどね‼」

「なにを……」


 言っているのか、分からない。

 マユミさんはお母さんの妹で、ぼくの叔母で。

 初めて会った時から、ぼくらは叔母と甥だったのだ。


「叔母ですって! あの狸も考えたものね、そんな嘘で凛音を騙して取り入って‼ もう我慢できないわ‼ 凛音、あなたはすぐにあの家を出なさい。それともあなた、もしかして、その……あの女といかがわしいことをしていないでしょうね⁉」

「ば、馬鹿な事言わないでください! そんなことある訳ないじゃないか‼」


 ぼくは夢中になって声を荒げていた。

 貞代さんは驚いて口をわなわなと震わせている。

 そのときようやく、ぼくは店内が静まり返っていることに気が付いた。窓際のテーブル席に座っている女性の二人組が、何事かとこちらを見ていた。

 いけない。すっかり熱くなってしまっている。


「そんなことは、断じてありません。ぼくと、あの人の名誉に誓って」

 ぼくは、声を小さくして言った。


「……わかったわ、それは信じる。でもね、早くあの女と縁を切るの。あの女、あなたの財産を乗っ取るつもりよ」

「財産?」


 ぼくに、財産と言えるものがあるだろうか。この身体と、あとは服だとか、ぼくの部屋にあるもので、それほど価値がある物なんて見当がつかない。


「あの家だって、あなたのものなのよ。あなたはね、両親の遺産を全て相続しているの」

「……両親の遺産だって?そんなこと、ぼくは一言も……」

「聞いていないんでしょう。あの女があなたから財産を奪うその瞬間まで、黙っておくつもりだったんだわ。あぁ、身の毛がよだつ。自分から後見人になりたいだなんて、本当に悪魔のような女」


 貞代さんは考えるのも汚らわしいというように、首を振った。

 ぼくは――すっかり身体の力が抜けてしまった。

 ぼくが両親の遺産を相続していた。それも全て。ぼくのほかに兄弟はいないから、父さんと母さんの財産が、全てぼくに相続されたのか。それはあながち、確からしく聞こえる。

 それにしても、なんでマユミさんは、そのことを黙っていたんだ。それに、自分が叔母だなんて嘘までついて……。


――うそ。


 どくん、とぼくの身体の中を、なけなしの血液が一巡りした。その血液が、穴だらけのスポンジみたいな脳を活気づける。

 そう、嘘だ。

 ぼくは、目の前で喋り続ける故障したラジオのようなおばあさんを、無感情に眺めた。


 この日野貞代とかいうおばあさんが、まったくの赤の他人でぼくに嘘をついている可能性だってあるんじゃないか。

 手練手管でぼくを欺いて、ぼくとマユミさんの関係を絶たせて、家出したぼくを匿うといって誘拐する。その対価は、身代金としての両親の遺産。

 そんなことは考えられないか。

 ぼくは自問自答する。ない、とは言い切れない。もっともその役目は、力のないおばあさんよりも、力のある人間の方が合理的に思えるが……ぼくを油断させるための罠ということも考えられる。現にぼくは、まんまと貞代さんの話を聞いてしまっている。


 そもそも、ぼくはこの日野貞代が本当に日野貞代であるのか、ぼくの祖母であるのか、確かめる記憶がない。ここには証明してくれる人もいない。

 つまり、ぼくはこの人が本当に日野貞代というぼくの祖母であることを確かめない限りは――あるいは確かめたとしても、その真意を理解しない限りは、到底この人の言うことは信じることが出来ないんじゃないか。

 ぼくは、小さく吸った息を大きく、長く、深く吐き出した。

 それから、出来るだけ明るい声を出した。


「おばあちゃん、教えてくれてありがとう。ぼくはすっかり、あの人に騙されていたみたいだ」

「そう、そうなの! これは凛音のためなのよ! だから今から家に帰って、荷物をまとめてすぐあの家を――」

「そのことなんだけど」


 ぼくはある計画を、貞代さんに話した。

 貞代さんは怯えたような顔で、声を高めた。


「……そんなこと、やめておいた方がいいわよ。あんな得体の知れない女、もう一秒だって関わりたくない」

「でも、ぼくの気が済まないんだよ。騙されてたとあっちゃね」


 何度かやり取りを繰り返して、貞代さんは渋っていたが、ぼくは約束を取り付けることに成功した。何かあったら連絡するから、その時は迎えに来て欲しいと連絡先の交換もぬかりなく。

 こうしてぼくは、いくばくかの猶予を得ることが出来た。

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