第15話 感想戦

 食堂に着くと、テーブル席には生徒たちがまばらに座っていた。放課後の時間は食事はできないものの、テーブル席は自由に解放されているので、友人と雑談したい生徒や、話しながら勉強をしたい生徒は食堂を使っている。

 ぼくらは、人がいる所から離れたテーブル席に座った。


「ごめんね、ぼくの都合で先延ばしになっちゃって」

 ぼくは改めて、約束を引き延ばしたことを詫びた。


「仕方ありませんわ。それに、会わないでいる時間が恋人同士の愛を育んでいくように、何かを待つ時間は宿願の成就をより甘美なものにしてくれます。私、比米島先輩とあの本のお話ができること、楽しみにしていました」

 上から目線で失敬、改めて思うがよくできた子だ。優しくて、善意の塊と言った具合で、非の打ち所がない。


「そう言ってもらえると、ぼくも嬉しいよ。早速はじめようか」


 今回の感想戦の題目本は、オーウェル最後の著作だった。ナターリアに勧められて本を借り、休日の間に読んでいたものだ。

一党独裁による全体主義社会。その社会で党員として表面上、党に忠誠を誓いつつ、統治に対する疑念を募らせ苦悩して生きる主人公を描いた作品だ。


「本の感想を伝え合う前に、少し回り道をしませんか?」

「回り道」

「そう、回り道。本の中身からちょこっとした部分を拾い上げて、二人の考えを言い合うのです」


 そう聞いても、あまりイメージが浮かばなかった。最初はナターリアに任せることにした。


「では私から。この本では、よく二重思考という言葉が使われていますが、先輩はこれ、どんなものだと思いました?」

「二重思考。一口で言うなら、記憶と精神の乖離……みたいに思った。体験したこと、知覚したことを、自分の意思で捻じ曲げて処理する、みたいな」

 ナターリアは頷く。


「私もまた、似たような想像をしました。心理学でいうところの認知的不協和ですね。かみ砕いていうならば、自己に潜む認知に矛盾が生じている状態、となるのでしょうか。これでも抽象的で分かりにくいですね。

 私の二重思考は――私は、甘いものが好きなので、週末はよくデザートショップに行きます。たまにお値段の張るデザートを食べるんですけれど、これが、残念ながらお値段程は美味しくないこともあります。

 そんなとき、私は二重思考をするのです。美味しくなかった、という認知と、値段が高かったのに、という認知がぶつかり合う。そこで私は、美味しくなかった、という認知を捻じ曲げて、美味しかった、と思い込む。こうした具合ですね」


ぼくはナターリアが、お洒落なカフェでデザートを愉しんでいる様子を想像した。その姿はお姫様のように優雅で、洗練されている。神聖さすら感じるその光景を実際に見てみたいと思った。


「先輩はいかがですか。二重思考」

 ナターリアに問われ、ぼくは考えながら話し始めた。


「この本だと、歴史として記憶していること、と、そんな歴史はなかった、という党の主張が主人公の中でぶつかり合って、そんな歴史は無かった、と記憶の方を捻じ曲げつつあったね。そういうことは――思いあたらないなあ」

 

 嘘だ。

 ぼくの頭を過ぎったのは、マユミさんだった。深夜に聞こえたマユミさんのすすり泣き。ぼくはあの時、たしかにそれを記憶したはずなのに、今となっては、あれは何かの勘違いだったんじゃないか、と思っている。

 いや、違う。信じたくないから、勘違いだったと思い込もうとしている。記憶といとも簡単に、捻じ曲げようとしている。

 ぼくはこんなところでも、二重思考を働かせていた。


「まあ。先輩は心が純粋なのでしょうね。認知を認知として、正面から受け止める――たとえそれで、自分が傷つくとしても。それは、なかなかできることではないです。人は、痛みに耐えるのが得意ではありませんから」

「買い被りだよ」


 ぼくはそっけなく言った。だって言葉通り、彼女はぼくを見誤っている。そんな高尚な人間では、断じてない。


「そんなことはありません。先輩はもっと自分に自信を持つべきです。自分を大切にするべきですわ。自分の命は自分だけのもの。他の誰のものでもありません。だから、自分を一番大切にできるのは、自分だけなんです。私には先輩が……自分を価値のない人間だと思っているように感じます」

「…………」


 ぼくは言葉を失った。

 今日、誰かから聞いたばかりの言葉たち。

 そんなことはないよ、なんてことは、とてもじゃないが言えなかった。自分に価値があると思っている人間が、この世界にいったいどれくらい居るだろうか。少なくともぼくは、そう思っていないのだ。


 それとも、ぼくだけなんだろうか。

 ぼく以外の人はみんな、自分には価値があると思っていて、自信に溢れていて、自分を大切にしているのか。


 ――無理だ。

 考えるまでも無い、ぼくには絶対に無理なのだ。

 ぼくは自分に価値があると思える過去が、自信を育む過去が、自己を大切に思える過去が、何一つ存在しないのだから。


「……私は、先輩がご自分のことをどう思われていようとも……どのように卑下されようとも。ずっと、お慕いしておりますわ」

 伏し目がちに話すナターリアの言葉は、ぼくの耳を通り過ぎていった。

きっと彼女の言葉は、ぼくではなく、彼女の中のぼく、彼女が理想とするぼくが聞くべき言葉だ。このぼく、ではない。


「話が随分、回り道しちゃったね。そろそろ、感想の話をしようか」


 ぼくは、閑散としていく心と反対に、努めて明るい声で仕切りなおした。

 声は感情を塗り替える。切り替えろ。

 それが、ぼくがぼくを守る方法――二重思考。

 ぼくが提案すると、ナターリアはその顔に微笑みを取り戻した。


「そう、ですね。では本題の方に。比米島先輩はこの本を読んで、何を思われましたか?」

「全篇を通じて……仕事、生活、思考に至るまで管理され監視されているディストピアを心底恐ろしいと思ったよ。だから、今の自分の生活がとても恵まれているように感じた」

 ナターリアはゆっくりと頷いた。


「そうですね。事実が闇に葬られ、仮初が新たな事実として立脚する。私も恐ろしい事だと思います。でも……私はあえて反対の立場をとってみましょうか。すべてが管理され、統制された世界。それは一つの幸福の形ではありませんか?」

「え?」


 予想外の問いだった。不自由こそ幸福なのではないか、という。

 ナターリアは器用なもので、感想戦の時には感想を深めるために、彼女はぼくと反対の立場をとってみることがある。今回はそのケースのようだ。

 ぼくは少し考えて、言った。


「どうだろう。人間は自由であることが保障されていてこそ幸福だと思う。人は生まれながらにして、自らの自由を差配する権利がある」

「自由とは罪であり、そして生者の業です」

「……というと?」

「自由には絶対的な責任が伴います。私がここにいる自由。比米島先輩と話している自由。それはあったかもしれない他の無数の選択肢を全て排したうえで選択した、自由の内のひとつですわ」

「そう言えるかもしれないね」

「では、切り捨てた自由をよく眺めて見てみましょう。この時間、その自由の中で私は、数学の問題を解いていました。二年後の大学入試で、偶然勉強していた範囲が出題され、合否を分けたのがその一つの問題だった……としたら。私は先輩と話す選択をしたことで、不合格に舵を切ったわけです」

「……それは迷惑をかけたね」

「ふふ、仮定の話ですよ」

 ナターリアはくすくす笑う。


「それにこの場合、悪いのは私です。先輩と話すという選択をしたのは私で、全ての責任は私に帰属しますわ」

「そりゃそうかもしれないけど……そんなこと言っちゃ、雁字搦めにならないかい?あったかもしれない未来を想像して落ち込むなんて、無駄な後悔じゃないか」


「その通りです。そして人は生きている限り無駄な後悔をせずにいられない。選択の自由そのものが、必然的に後悔を生むようになっているのですから。

 みな、思うのです。あの時こうしていたら……もっといい未来があったはずなのに、と。後悔を繰り返して年を重ね、死の間際に人は最後にして最大の後悔をするのです。

 それは行き場のない罪、死の瞬間まで寄り添う伴侶こそ、後悔と言う名の永遠の責め苦。その罪を犯したのは他ならぬ自分自身であり、後悔こそ課せられる罰なのです。人は自由である以上、この罪と罰から逃れられない定めにあります。この世に生れ落ちた瞬間から背負わざるを得ない業ですわ。これを不幸と言わずして、何と言いましょう」


「それは……行き過ぎた悲観主義の極みだね。それと自由のない世界がどうつながるんだい?」


「自由のない世界、そこに罪はありません。全てが赦される。だって選択を下すのは、私ではないんですから。誰かが選択した仕事、誰かが選択した思考、誰かが選択した結婚相手……それに従えば、安寧が約束されている。罪がなく、平穏で安定した人生――そこには後悔もありません。こんな世界にこそ、現世における至上の幸福があると思いませんか?」


 また、ぼくの心は騒ぎ始めている。

 ――それは違う。

 ぼくは否定したい。否定しなくちゃならない。そんなことはない。

 自由が罪であるなんてことは。


「不自由が幸福なんて、それはおかしい。そんなのは誰かに責任を押し付けているだけだ。自分が従う選択をしたのに、その責任を放棄しているだけだ」

「いいえ違います。この世界には、従う、従わぬという選択すら許されていないのです。従わない人間は、存在しません。思考警察がすべてを見ている」


――違う。

言いなりになるのが幸せ?

そうではない。

人間は、自由を勝ち取るために権力と戦ってきた。人類史がその証明だ。

人は生まれながらにして自由に苦しめられるだって?


「――先輩はたくさん、たくさん選んできたのですよ。その選んだ先にあるのが私で、この時間です。それ以外の全てを、否定したのです」

 ナターリアの声が海の底から響いているように聞こえる。ナターリアがぼくを見ている。ぼくの思考を視ている。


 ぼくが否定した?

 何を否定した?

 ぼくは、ここにないものを否定したんだ。

 あったかもしれない未来。

 ――違う。


 ぼくは選択していない。

 ぼくのせいではない。

 ぼくに何かが出来たのか?

 ぼくの選択が何かを変えられたのか?

 分からない。

 だってぼくには、記憶が無いんだから。

 だれかが、ぼくの記憶を奪っていったんだから。

 

 だから今のぼくには、何の責任だってないんだ。罪も、罰も、業も。

 ――なにも、ない。

 そう。なにもない。

 価値も、自信も、肯定も――記憶も。

 なにも、なにも、なにも、なにも。


「――先輩?」

 気が付くと、ナターリアがぼくの顔を心配そうにのぞき込んでいた。


「顔色が悪いです。お具合が優れないですか?」

「あ、ああ。少し、考え事をしていただけ」


 心臓が、ばくばくと脈打つ。衣服の下を、つぅと汗が流れ落ちる冷たい感触があった。胃液が喉の奥にせり上がっているような、不快感がする。


「それなら良いんですけれど……。すみません。随分熱が入りすぎてしまったみたい。もう下校時間も近いですから、部室に帰りませんか?」

 ナターリアが恥じ入る様に言った。


 だが今のぼくは、その提案を受け入れるだけの余裕がなかった。

「……やっぱり、まだ本調子じゃないみたいで、具合が良くないかもしれない。ぼくはもう、家に帰るよ」


 ぼくは椅子から立ち上がった。すると頭に白いもやがかかったみたいになって、すうっと力が抜け、ぼくはすんでのところでテーブルに手を付き、なんとか身体を支えた。


「先輩?やっぱり、部室か保健室で、少しお休みされた方が……。私、お付き合いしますから」

「大丈夫。大丈夫だから……これで帰る」


 寄り添ってきたナターリアを手で制して、ぼくはその場を後にした。

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