第13話 記憶にある部屋と、記憶にある少女

 目を覚ましたぼくは、ぼんやりした脳が作るぼんやりした感覚の海を漂っていた。意識が徐々にはっきりしてくると、誰かがぼくの左手を握っているのを感じた。握られている、というよりも重ねられている、が正しいのかもしれない。それほどの握力を感じないのだ。


 上半身を起こして左手のほうに目線をやると、その光景に既視感を覚えた。

 カーテンの隙間から零れる光の雫は、クリーム色の室内をやわらかに照らしている。ぼくはそこで、白いフレームのの白いベッドに寝転んでいる。これは病院のベッドだ。そして、左手の先には――。

 

 ぼくは、今度はちゃんと覚えている。

 左手の先には、突っ伏して寝ている幼馴染の耶衣子ちゃんがいる。

 彼女は静かな寝息立てて寝ているので、ぼくは彼女を起こさないように、そっと手を引き抜こうとした。

 すると耶衣子ちゃんはまるで猫のような俊敏さで跳ね起きて、


「……おはよう。起きたの」


 と、平然とした顔を作って言った。

 もっとも、本人は平然としたつもりなんだろうけど、口元に涎の跡が有ったり、前髪が明後日の方向に跳ね上がっていたりで、しまりのない顔だ。


「おはよ。なんだか、随分寝てたような」

「それほどでもない。昨日の昼から」


 昨日の昼。何があったんだっけ。

 いったい全体、どうしてぼくはまた入院なんて――。


「――あっ!ネリーは⁉大丈夫なの⁉」

 ぼくの脳はようやくサボるのをやめて働き出した。

 そうだった。ぼくらは、体育倉庫に閉じ込められて、ネリーが倒れたからマットに寝かせて、それで……それで?


「問題ない。私が救護した時点で彼女は回復した。入院するほども無かった」

「よかった……」


 ぼくは安堵した。ネリーはとても苦しそうにしていたから、助かって本当に良かった。

 ただ、ぼくは何かが引っかかった。ちょっとした違和感。でも重大な何か。


「……彼女。誰のことかな」

 ぼくは白々しくも惚けた振りをしてみせる。


「ネリーのこと。身体特徴から言えばネリーは女。救護の際に服を脱がそうとして気づいた」


 なんたる悲劇だろう。耶衣子ちゃんには助けてくれたところ感謝すべきなのに、彼女の手際が良すぎるせいで、秘密はこうも容易く露見してしまった。


「……凛音、知ってたでしょ」

 彼女のシックスセンスには脱帽する。卓越した観察眼に基づくコールドリーディングなのか、無意識下における知覚情報の組み合わせのなせる本能的直感なのか、いずれにせよ彼女は鋭すぎた。


「うん。本人に聞いた。皆には黙っていて欲しいって。耶衣子ちゃんはこのこと、誰かに話したの?」


 ぼくはあっさり白状して、それから訊いた。いつかバレるとは思っていたから、耶衣子ちゃんを責める気は全然なかったのだけど、気になったのだ。

 耶衣子ちゃんは首を左右にふるふると振った。

 よかった、ネリーの秘密は水際で守られたらしい。


「それにしても、凛音を見直した。てっきり、ネリーが朦朧として倒れたのをいいことに、マットの上で汗だらけのくんずほぐれつ――」

「ばっ、馬鹿な事言わないの!」

「冗談。でも、凛音はよくやった」


 耶衣子ちゃんの冗談は、冗談か本気か分からなくなる。でも彼女がぼくにくれた称賛の言葉は、不思議と彼女の本心だと思えた。都合の良い言葉だけ信じたい、そんなぼくの妄想なのかもしれないけど。


「ただ、無茶ではあった。もっと自分を大切にしてほしい」

 その諭すような言葉に、いつになく真剣な眼差しに、ぼくには返す言葉が見当たらず言い訳を全て飲み込んだ。

 それから、耶衣子ちゃんはぼくがどれほど危険なことをしたのか、語ってくれた。暑さのせいか、ぼくはあの時の記憶が鮮明では無かった。


 ぼくは、スコップを使って倉庫の壁面壁の小さな穴を、何とかボール一つ分通せるくらいに拡張した。そのあたりから記憶が怪しくなってくる。

 耶衣子ちゃん曰く、ぼくは脚をケガしていた。周囲には血の付いたスコップと、血液の塗りたくられたボールとベース。これらを勘案して、ぼくはどうやら自分で脚を傷つけて、目印代わりにボール達に塗りたくったうえで、外へ投擲したらしかった。

 その細工のおかげで、白いグラウンドにボール達が紛れることなく発見されたということだった。


「私が着いたときには、凛音の方が重症だった。脱水に失血」

「面目ない」

「本当に。自分の身体を大切にすべき」

「でも……心配だったんだよ、ネリーが。体調が悪そうだったし」

「人のためなら自分は死んでもいいの?」

 耶衣子ちゃんはそんな物騒な言葉にも躊躇いをみせず、ぼくに訊いた。


「そういうわけではないけどさ……。うん、ごめん。考えが足りなかった」

 ぼくにも言い分はあった。でも耶衣子ちゃんだって、ぼくを非難したいわけじゃなくて、心配だから厳しく言っているのだと思うと、その想いを無下にもできなかった。


「体育の時間も一緒に居よう」

「駄目でしょそれは」

「私は男装もいける」


 と、耶衣子ちゃんは自慢げに胸を張ったように見えた。

 そもそも顔がバレバレだから無理だろう、と思いながら、ぼくは自然と耶衣子ちゃんの全身を眺めた。ネリーのように小柄な体格なので、男性の服装をしていれば、完全なる第三者が見れば男と思わなくもないかもしれない。

 目を上げたところで、耶衣子ちゃんと視線が交錯した。視線が刺さる。


「舐め回すような嫌らしい目つきね。今、失礼な事を思った」

 それは言い方に語弊があるだろう。平易な感情で眺めただけだ。


「思ってないけど」

「嘘。貧相な体だから男装が似合いそうだと思った」

「いや、そこまでは」

「では似たような事を思ったと。最低の屑。豚の小便にも劣る。見損なった」

「酷い言いがかりだ……」

 誘い罠に乗っかって、まんまとやり込められてしまった。褒めたり貶したり、今日の耶衣子ちゃんは忙しい。


「罰として体育の時間は一緒に居よう。凛音が女装をする」

 それだけは絶対に御免被る。


「似合うよ。服を貸す」

 そんなわけがないし、今の耶衣子ちゃんは絶対にぼくをからかって楽しんでいる。その証拠に、真面目そうな振りをして耶衣子ちゃんの口元の端が吊り上がっていて、いかにもぼくの女装姿を妄想して笑いを堪えているといった具合だ。


「……楽しんでるでしょ」

 ぼくは呆れて言った。


「非常に。凛音は楽しくないの」

「ま、一人で病室にいるよりはマシかもね」


 これ以上は耶衣子ちゃんに隙を見せてはいけないと、ぼくの本能が言った。

 そんな言い合いをしていると、耶衣子ちゃんは唐突に立ち上がって、学校に行く、と言って出て行った。

 入れ替わりで今度は、マユミさんが来た。出勤前に顔を見に来たという。


「行いは立派。でも、心配になるからあまり無茶なことはしないでね。もっと自分を優先したって、いいんだよ」


と、耶衣子ちゃんと同じことを言った。それから、退院したらお祝いにごちそうを作るから、と意気込んだマユミさんをぼくは必死で押し留めて、帰ってもらった。

 

 体調の方はすっかり戻っていたので食事は食べられた。お医者さんに言わせれば、容態は回復しているということで、明日退院できるらしい。

 夕方になると、今度は耶衣子ちゃんとメグ、ネリーがやってきた。

 ネリーの様子はすっかり、元通りに見えた。


「ネリーはもう、体調はいいの?」

「うん。耶衣子ちゃんおかげ。それに、凛音のおかげでね。自分を傷つけてまで……本当に有難う」

 ネリーは深々と頭を下げた。


「私からも。センキュー凛音‼ あと、ヤイコも凄かったデス。あっという間に階段を駆け降りていきマシタ。あれはそう……ジャパニーズニンジャ。その動き、ワタシ分かっちゃいました。ラブ、なのデスよ。ラヴュ」

 それは目も眩む早さだった。メグの両方の頬は耶衣子ちゃんの両手によって押し潰され、メグの顔は、ひょっとこになっていた。


「ヤイホ、やめへぇ」

「ごめんなさい、大きな蚊がいた。まだ手の下で動いているわ」

「ヤイホ……」


 やはりメグはあまり日本語に強くないらしい。ラブでは好意だ。耶衣子ちゃんの場合は、厚意が適切だろう。英語で何というかは分からないが。

 耶衣子ちゃんはメグの両頬を、両手でぷよぷよと弄びながら楽しんでいる様子だった。メグは観念したのか、されるがままになっている。ぼくは無邪気な耶衣子ちゃんとメグの変な顔がおかしくて、笑っていた。


「……羨ましいな」

 ぼそり、とそんな小さな声が聞こえた気がした。

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