第11話 二人きりの体育倉庫
まあまあ、落ち着こう。
「と、とにかく誰かを呼ぼう。ネリー、スマホはある?」
「……ない。着替えと一緒に、教室。凛音も?」
「同じく。それなら……騒ぐしかないか」
ぼくは、とんとん、と最初は控え目に、次第に力を込めて、どんどんと扉を拳の側面で叩いた。
「誰か‼ 開けてください‼ 人がいます‼」
その声は狭い倉庫の中にうるさいくらいに反響した。叫ぶのを止めて外の様子に耳を澄ます。室内に尾を引いていた残響が徐々に収まっていくと、静寂が訪れた。外からは、ぼくらの助けになるような音は聞こえなかった。
――おかしい。静かすぎる。
昼休みになると、放送部が音楽を流す校内放送があるはずだ。その音が、この体育倉庫からでは全く聞こえない。外を車が走るような音も聞こえない。
ぼくは、はっとした。
この場所は、道路からも学校からも距離があるのだ。――大きな音でも聞こえないくらいに。
額に雫のように浮き出した汗が、目じりのすぐそばを通って滴り落ちた。風の出入り口を失った体育倉庫は、熱の循環を止められて酷く苛立っているようだった。
確実に暑くなっている。ぼくは額の汗を腕で拭った。
「ちょっと、まずいかもね」
ぼくは努めて、深刻さを声に出さなかった。
もはや倉庫内は、外気からは考えられない暑さになっている。もし午後一杯ここに閉じ込められていたら、ぼくらは暑さにやられてしまうかもしれない――そんなことは黙っていた。ネリーを不安にさせたくなかったからだ。
「うん……でも、きっと誰か気付いて助けに来てくれるよね」
不安そうな、元気のないネリーの声が聞こえた。
ぼくもそう思う。なんたって、ぼくを追いかけるか引っ張っていくことに関しては何人も右に出る者のいない、耶衣子ちゃんが居るのだ。ぼくやネリーの不在に気付いてくれるはずだ。
「そう思うよ。たぶん耶衣子ちゃんあたりが」
ぼくは口に出して、自分に言い聞かせた。そうでなくとも、五限目が始まれば、生徒の誰かが不審に思うはずだ。荷物は教室に置きっぱなしなのに、二人の姿が忽然と消えている。これはどういうことか、と騒ぎになるはずだ。大きな騒ぎになってくれれば、F組のあの生徒――ぼくらが倉庫に入るのを見た生徒が、ぼくらの居場所を閃いてくれるかもしれない。
それまでの辛抱だ。たぶん、最低でも一時間か……。
それはどのくらいの長さだろうか。
一時間は一時間、なんて数学的物理的な話をしたいんじゃない。禅問答をしたいんでもない。それがどれくらい人間の生命に差し障る長さなのか、だ。
ぼくの記憶にサウナはない。人はサウナに、一時間入っていられるのか。
それも、水分補給なしで。体育で既に水分が失われた身体で。
お風呂ならどうだ。
ぼくは風呂だと、四十二度なら五分は続けて入っていられるが、それ以上だと辛くなる。お湯と空気では密度の違いから熱の伝わり方が違うから、ここの気温が四十二度程度なら、まあ五分、十分は余裕だろう。一時間となると、ぎりぎりだろうか。何か他に、参考になる指標は――。
どれくらいの時間、考えていたのだろう。ぼくの頭は、暑さでいろんなことが浮かんでは消えていった。考えがまとまらない。
まったく寒くないのに、ぞわぞわと鳥肌が立ち始めた。
「……そっちにいっていい?ボクも扉を見るよ」
ゆっくりとした足取りで、ネリーがこちらに近寄ってきた。暗くて顔色まではうかがえないが、顔を拭うような様子で彼女が汗ばんでいると分かった。
「一緒に引き戸を引いてみる?試しにさ」
ぼくは、あがきとばかりにそんな提案をした。
頷いたネリーと共に、片方の戸をぼくが、もう片方の戸をネリーが持った。
そして、せーの、で同時に引っ張る。
――やはりだめだ。戸と戸の間の隙間は、さきほどとまったく変わっていないように見える。
「駄目みたいだね。……ネリー?」
ネリーがぺたんと床に座り込んでいた。
「うん……」
その声に元気はない。
ぼくは座り込んだネリーのすぐ横にしゃがみ込んで、声をかけた。
「ネリー、大丈夫?具合悪い?」
「疲れてるだけだと……思う」
呼吸が浅い。はぁ、はぁ、と苦しさを吐き出すような呼吸だ。
ネリーがふらり、とぼくに身体を預けた。ぼくは咄嗟に、横から抱きかかえるような形で彼女の細い身体を受け止めた。
凄い汗をかいている。ぼくに伝わる彼女の身体は、ぼくより幾分熱い。
「あは、ごめん。それにしても、日本の夏、暑いね。ボク慣れてなくて……」
ネリーは消え入りそうに、途切れ途切れにいった。
彼女の顔がすぐ近くにあって、酷く苦しそうに喘いでいる。
とくん、とくんという、彼女のか細く早い心臓の鼓動を、ぼくの腕が感じ取る。それは手の平に収まった雀の鼓動のように、儚い。
――熱中症だ。
閉じ込められて何分経っただろうか。とてもじゃないが、あと一時間近くもここに居たら、命の危機だ。
ぼくは、倉庫にあったマットを狭い床に広げて、そこにネリーを横にした。
少し躊躇してから……ぼくは汗で濡れた自分のTシャツを脱いで、ネリーの首元に巻いた。汗で汚いが、服は濡れているから、身体を冷やすのに無いよりは多少マシだろう。
ぼくは倉庫を見回した。
――脱出に使えるものは無いか。
火でも起こして狼煙を上げるか。だめだ、燃やせるものはたくさんあっても、着火できるものがない。
戸の隙間を通るもの……ベースに文字を書いて外へ投げる。それもだめだ、字を書けるものが見当たらない。それか、字じゃなくても良いんだ。誰かが疑問に思ってくれればそれでいい。
何かないのか。何か――。
既に熱暴走しそうになっている脳を、火で焚きつける想いで奮い立たせる。
――ぼくの目は、大きなシャベルに留まった。
ちらりと、床で倒れているネリーに目をやる。依然として苦しそうだ。見ていて居たたまれない。これ以上ここに留まっていれば、彼女の命が危ない。
ぼくは決心し、その大きなシャベルを手に取った。
それを大きく振りかぶり――。
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