第10話 それは、メロドラマのようには甘くない二人きり

 学校に着くと、ネリーはまだ来ていなかった。

 ホームルームが始まろうかという頃に、ようやく教室にネリーが入ってきて、眠そうに欠伸をして席に着いた。


「眠そうだね」

 ぼくは、ネリーに声をかけた。ネリーはもう一度欠伸をして、目を二、三度こすった。


「……メグ、凛音の家に行ってたの?書置きがあったけど」

「ぼくが朝起きたら、家で朝食を作ってたよ。チーズポテトオムレツ」


 ネリーは、面白くなさそうに鼻で笑った。


「よかったね。おかげでボクの朝食はパン一枚だ」

「朝食をつくるのはメグの担当なの?」

「もしよければ、今度はボクの作る朝食をごちそうするよ。胃腸薬の備蓄と病院の空き病床を確認しておいてね」

「うん……遠慮しておく」

 双子でも、二人は随分と違うみたいだ。もっとも双子が全く同じ人間、という風に考えるほうがおかしいのかもしれない。


 ……おかしい、といえばぼくが完全に無意識下に押しやっていたおかしな問題がある。

 ネリーが女子でありながら、男子の振りをして学校生活を送る、謎めいたチャレンジだ。そしてぼくは、そのチャレンジの共犯者だということ。

 ネリーは男子の制服を着ていると可愛らしい男子、といった感じで性別を感じさせないから、特に意識することなく接していたけれど、問題は授業だ。


 体育の授業は、当然、ネリーは男子と一緒。着替えだって一緒だ。

 運動自体は、柔道とか、肉体的な接触がある種目を選択しなければどうとでもなる。この高校にはプールの授業も無い。だが、着替えだけはどうにもならない。男子はみな、教室で着替えるのだ。


 そしてぼくがそのことに気が付いたのは、こともあろうに四限目の体育の前、休み時間に入ってからだった。

 ぼくは、すぐさま、ネリーに小さな声で声をかけた。


「ねえ。体育はどうするつもり?」

「どうって。もちろん参加するよ」

 ネリーは馬鹿なことを聞くなってくらいに、即答した。


「それは構わないけどさ。大丈夫なの?着替えとか、あと、その……」

 ぼくは、口をもごもごさせて、それとなく目線をネリーの胸元へやった。


「……えっち」

 ネリーはいたずらっぽく笑って、囁くように呟いた。ぼくの反応を愉しむように、目を細めている。


「ちがっ、そういうわけじゃ」

「問題ないよ。着替えはさっき、トイレの個室で済ませた。それに透けないようにシャツも着てる。……わからないさ、元々、メグほど……」


 最後の方は、よく聞き取れなかった。

 でも、とにかくネリーにも羞恥があって、対策もあったんだとぼくはホッとした。でもそれなら、ぼくは何をしたらいいんだ。


「柔軟とか、ペアになる時は一緒にやってよ。男子に触られたくない」


 ぼくも男子なんだけど、という言葉が喉まで出かかって飲み込んだ。それはぼくが何に思われているかを尋ねるのと同義だからだ。まさか女子ではあるまいから、ミジンコみたいな塵芥か、それともミドリムシみたいに動物か植物か良く分からない奴、などという評価を聞かされた日にはもう、ぼくの心は月面のように荒れる。


 ただ――表面上の同性同士なら、すべての身体接触を防ぐというのは難しいんじゃないだろうか。肩を組んだり、お腹をくすぐったり。

 ネリーの、ナメクジみたいに湿り気のある視線がぼくをねめつける。


「騎士の役目をお忘れ?」


 全てを妨害しろ、ということらしい。もし失敗したとしても、触った男子には悪気が無いので、つまり悪いのはすべてぼくってことだ。世知辛い。

 こうしてお互いの役割がはっきりしたところで、ぼくらは体育に向かった。


 今日は、ぼくらF組とE組とが合同で、グラウンドでソフトボールである。

 体育に臨んだぼくは衝撃だった。それはもう悲劇と言っていい。

 今日に関して言えば、ぼくは人の心配などしている場合では無かったと、反省したい。


 外に出ると、五月といえど日差しは暑かった。日中と朝晩の温度差が大きく、天気予報によれば今日の日中は今年の最高気温になるらしい。

 その強烈な日差しの前に、砂のグラウンドも配下に下ったらしかった。その白い地面がこれでもかというほど、御日差し様を跳ね返してくる。


 そんな最悪のコンディションだったから……とぼくは言いたい。これは言い訳ではない。――否、こればかりはもう、弁解のしようが無いだろう。

 元々あまり運動に気乗りしていなかったが、やはりぼくの本能がそうさせていたらしい、ぼくにとっての――記憶にある限りの――初体育は散々なものであった。言葉にするのも恥ずかしい。


 ネリーの方はというと、ぼくより数段、運動能力が高かった。小柄で細いネリーにはホームランは無理だったが、綺麗に打つし走れば早い。グラブ捌きも慣れたものだった。


「コルネオーリ、やるじゃん!」

「元々野球か何かやってたのか?」


 ホームベースに帰塁したネリーは、男子たちにちやほや持て囃されている。そんな彼女の姿を、ぼくはセカンドの守備位置で眺めていた。

 おっと、ハイタッチをしている。

 ネリーにもこればかりの接触は許容して欲しい。チーム競技でチームが違えば、ぼくができることなんて何もない。


 だが、そうは問屋が卸さない。頑固な問屋のネリーさんは口元にディスプレイ用の笑顔を顔に張りつけたまま、こちらを振り向いて睨みつけてきた。ぼくは今ばかりは問屋のご機嫌を伺っている暇など無く、飛んでくる打球をなんとしても捕球しようと躍起になっていた。


 後ろに球をこぼすとフォローが難しい外野より、内野の方が良いだろうということでセカンドを任されたのだが、これがまた、強い打球が飛んでくる。

 ぼくはやる気満々のふりをしながら、心の中でひたすらボールが飛んでこないように呪詛を唱え続け、そういう時に限って飛んでくるので、身体で泥臭くボールを止めてファーストへ送球した。何とかアウト。攻守が交替した。


 バッティングだってお世辞には良いと言えないけど、守備よりはマシだ。なにより個人の責任が薄い。守備はエラーすれば責任が当人にダイレクトだ。

 苦難の山と谷を乗り越えて、ぼくはなんとか体育を成し遂げた。終盤はネリーを注視している暇など全くなかった。多少、申し訳ないと思っている。


 体育が終わった。

 ぼくは這う這うの体だった。

 最後に道具を片付けて解散という事で、ぼくはベースを回収していた。これが意外に重い。


「ボクも持つよ」

 と、ネリーが駆け寄ってきてくれた。


「ありがと。それなら、これをお願い」

 ぼくはそう言って、ネリーにベースを二つ渡した。そして二人並んで、グラウンドの端にある体育倉庫に歩いていく。他の生徒達も、グラブやらバット、ボールやらを集めて体育倉庫に運んでいる。この体育倉庫がくせもので、グラウンドを挟んで校舎と反対側にあって、非常に便利が悪い。グラウンドの端から端まで歩かされることになる。


「楽しかったね」

 ネリーがぼくの隣で言った。その横顔は、機嫌がよさそうだった。


「凄い活躍だったね」

 ぼくの方はというと、緊張とプレッシャーで楽しむどころではなかったので、ネリーにはその他の点で素直な感想を伝えた。


「ありがとう。自慢じゃないが、運動はそこそこ出来る方なんだ。君も……よく頑張ってたね」

 頑張ってあの有様だったのだけど、頑張っていたのが伝わったならそれに勝る喜びはない。諸所の至らなかった点については、どうか頑張りに免じて恩赦を頂きたいところだ。


 そんなぼくの思いが通じたのか定かではないものの、ネリーはそれ以上話さなかった。もしかしたらぼくを憐れんでいるのかもしれなかった。

 ぼくらが体育倉庫に入ろうとした時、ちょうど中から見知らぬ生徒が出てきて、ぶつかりそうになった。F組の生徒だろう。


「おっと、悪い。それで最後だから、仕舞ったら鍵返しといてくれよ!」

 ぼくは、わかったよ、と返した。

 

 体育倉庫の中は蒸し暑い。窓がないからだ。コンテナを改造したような簡素な作りで、コンテナよりは大きいのだけれど、断熱材が入っているようには見えない。そのせいだろう、五月というのは夜と晩は涼しいのだけれど、日中は夏かと思うくらいに日が照るので、直射日光をモロに受けている体育倉庫は蒸し風呂みたいなものだ。


 倉庫の中は、石灰で白線を引くための名前のわからないやつとか、何に使うのか分からないプラスチック製の円盤のような物、大きなシャベル、柄が木製で出来ている旗、バッドやグラブなど、雑多なもので溢れている。


「ベース、どこに仕舞うんだろう」

「凛音は知らないの?」

「面目なく。体育は見学ばかりで、楽しそうにやってるなあ、という感想がぼくの体育の全知識だね」


 ネリーは少し考えるようにして、言った。


「とりあえず、同じようなものを探してみて、なかったら目立つところに置いておこうよ。どうせ次に体育をする人たちが使うだろうしさ」

 ぼくは頷いた。


 ぼくらは二手に分かれて、倉庫の中を探し始めた。とりあえず奥の方からだ。

 入り口から入って倉庫の右奥には、小さな裂け目があった。錆びて老朽化しているのかもしれない。そこから僅かな風と、明かりがさし込んでいる。

 その微かな光だけでは暗くて探しにくいな、と思っていた矢先、がしゃんという音とともに、光が失われた。慌てて入り口を振り返る。扉が閉まっていた。

 外から微かな声。


「……ちゃんと閉めとけよなぁ……」

「……い急げっ!……パン売り切れるぞ!」

 まだ居るんだけどなあ、なんてぼんやりと考えながら、ぼくはそんな光景をぼうっと見ていた。


「暗いね。ここ、電気はあるの?」

 暗闇からネリーの声が聞こえた。


「入る時に探したけど、なかったと思う。そもそもコンテナみたいなもんだしね」

「不便だね。入口を開けないと中が見えないなんて」

「まったくだよ」


 少しずつ暗さに慣れてきたぼくは、どこかの隙間から漏れている微かな光を頼りに、倉庫の入り口に向かった。そうして取っ手に手をかけて、金属製のスライド式引き戸を引く。が、空かない。


「ん?」


 片側が締め切りだったのか?

 ぼくは左右の引き戸を、両手でそれぞれ反対方向に引いた。

 がん、という音がして、左右の引き戸の間に数ミリの隙間が空いた。しかし、それ以上開かない。


「あれ……?」


ぼくは、左右の引き戸が何かに引っかかってるのかと思って、引き戸が引かれて収まるべきスペースを見る。だがそこには何もない。

 もう一度、引き戸を左右それぞれの方向に引っ張ってみる。

がしゃんと言う音がして、開かない。


「……どうしたの?」


 心配そうな声が聞こえた。声のした方には、今度はネリーの輪郭が見えた。倉庫の端の方で座り込んでいる。

 ぼくは扉を、手前に引いたり奥に押したりしてみた。もちろん開かない。


「……開かない」

「え?」

「……鍵、閉められちゃったかも」

「えぇ⁉」

 ぼくは、ネリーのそんな素っ頓狂な声を初めて聴いた。


「ここの鍵はどういう鍵なの?」

「確か……外から南京錠を掛けてた気がする」

「じゃあ、中からは……」

「開けられない」


 ――閉じ込められた。


 さっ、とそんな考えが頭を過ぎった。こめかみに溜まった汗が、つつっと顎先へ流れ落ちる。それまで感じなかった暑さが、急に一段と増したような気がする。

 厄介なことになった。ぼくの第六感が、気色悪い粘り気を伴って背筋を這い上ってきた。

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