第9話 今日の朝は、昨日の続き

 翌朝は、最低最悪の目覚めだった。

 普段なら起きてゆっくりと朝食の準備をしているところが、十分経ってもなかなか動く気になれなかった。なんとなく、マユミさんと顔を会わせ辛かったのもある。二十分経って、いよいよと起きないとまずい時間になり、ぼくは操り人形みたいに重たい身体をなんとか動かして着替え、階下へ降りて行った。


「あら、おはよ。今日は遅いね」


 キッチンに行くと、マユミさんが一人で朝食を食べていたので、面食らってしまった。この人は、一切の料理をやらないと思っていたのに。マユミさんの皿をよくよく見ると、千切ったレタスとプチトマト、オムレツ、ウィンナー、トーストと簡素ではあるが見栄えのいい出来の料理が盛られていた。


 味はともかく、そのクオリティの料理を作るにはマユミさんに天文学的確率の幸運が訪れない限り、起こり得ない奇跡に見えた。

 猿がシェイクスピアを書き上げるように、マユミさんだって料理が成功することもあるのだな、なんて思いながらぼくは、おはようを返した。ぼくはまだ、ぼんやりしていたのだ。テーブルの空席に置かれていた三組のナイフとフォークを見ても、何も疑問は浮かばなかったのだ。


「ヘイ!グッモーニン!リオン‼」

「へ⁉」

「おはよう」

「えぇ⁉」


キッチンに立っていたのは、制服にエプロン姿のメグと、そして耶衣子ちゃんだった。


「いやあ青春だねえ。こんな可愛い女の子が二人も朝ご飯を作りに来てくれるなんて」


 マユミさんは、そうしみじみと言ってパンを頬張った。


「御恩アンド奉公デス!昨日の御礼を返しに来マシタ!」

「お礼ってそんな。たいしたことじゃないよ」

「私は……」


 耶衣子ちゃんの言葉はそこで止まった。たっぷり間があって、


「なんで来たのか」

と、自分でも分かっていないようだった。


「ヤイコは、ワタシがふらふらしている所を、声をかけてくれマシタ。それで一緒に来たのデス」

「じゃあ、ネリーも?」

「ノン。ネリーはマイホームですやすや。朝が弱い小童には荷がヘヴィなのデス」

 よく分からないが、ネリーが朝弱いという事は分かった。


「とにかく、座るがよいデス」


 メグに促されるまま、ぼくはマユミさんの横の席に着いた。しばらくするとバターの豊かな香りと、焼けたパンの香ばしい匂いが漂ってきた。あっという間に、皿を持ったメグがキッチンから出てきた。


「ヘイ、お待ち!」


威勢のいい掛け声とともにテーブルに置かれたのは、マユミさんと同じ料理。ただひとつ違っていることとして、オムレツにはハート模様にケチャップが掛かっている。


「あ、ありがとう」

「ユアウェルカム~」


 メグの後ろからは、二つの皿を持った耶衣子ちゃんが付いてきて、皿をテーブルに置いた。どうやら二人も食べるらしい。メグと耶衣子ちゃんが対面に座った。


「それではご一緒に、イタダキマース!」


 メグの勢いに気圧されながら、ぼくはいただきます、といってナイフとフォークを手に取った。綺麗に整えられた張りのあるオムレツは、ぼくが作ったとしても、こう上手くはいかない。オムレツを一口大にカットする。切り分けた断面は適度に固まっていて、トロリと白いものが長く伸びた。


「チーズポテトオムレツ、デス。ワタシの得意料理なのデス」

「凄い上手だね」

「ふふん。それほどでもござりマセン。見た目だけでは、なしデスよ」

 メグは自慢げに胸を張った。実際これは、自慢できる出来栄えだ。早速、味の方も確かめてみる。


 一口運ぶと口の中に、芳醇なバターと卵の香りが広がった。味はというと、チーズやバターのほのかな塩味と卵本来の甘み、ケチャップの酸味が絶妙にバランスして味わいを演出し、ピリピリとしたペッパーがクドくなりがちな卵の濃厚さを引き締めている。とろけるような舌触りの中に、弾力のあるチーズと少し硬めの蒸したポテトが食感にグラデーションを与えて、食べ応えがある。

 うん、これは。


「美味しい」

 ぼくは自然と、そう漏らしていた。


「でしょでしょ?これだけは誰にも負けませぬ故~!」

 メグは破顔して、とても満足そうだった。


「あとは、ヤイコが全部やってくれマシタ」

 トーストやウィンナーなんかは、なかなか技術の現れるところじゃないけれど、焼き加減は丁度良かった。


「うん。こっちも、美味しいよ。二人とも、ありがとうね」

「よかったデス!」

「うん」

 ぼくが礼を言うと、メグは嬉しそうに笑って、耶衣子ちゃんは対照的に、控え目にこくんと頷いた。


 その様子を見ていたマユミさんは、にやにやと含み笑いをしていた。


「問題はねえ、凛音。そのハートマークを誰が描いたかってことよ」

「それは、ヤ――」

 メグの口が開いた途端、耶衣子ちゃんがメグの両方の頬を両手で挟み込んで、ぐいっと自分の方に向かせた。


「ふぐぐ」

「メグ。どっちだったかしら。すっかり忘れてしまって」

 耶衣子ちゃんの顔がメグに近付いて、ぼくからはすっかり、耶衣子ちゃんの後頭部でメグの顔が見えなくなった。


「オゥ、ソーリー。ワタシも、忘れてしまいマシタ」

「忘却の彼方、ということです。マユミさん」


 そう言って耶衣子ちゃんは、くるりとテーブルに向き直って、何事も無かったように朝食を再開した。


「あぅ……」

 メグの白い頬には手の跡が赤く浮き上がっていた。ちょっとばかり痛々しい。メグは今にも泣きそうな顔になっている。


「耶衣子ちゃんも、うかうかしてられないものね」

 くく、と笑いを噛み殺したマユミさんは、昨日にも増して愉快そうだった。


 ――そう、昨日。


 ぼくはトーストを頬張りながら、さりげなくマユミさんの横顔を眺める。普段と変わりない。けれど、よく見るとその目はいつもより赤く充血しているように感じた。

 ぼくは目を逸らした。マユミさんに、ぼくがマユミさんを見ていたと分からないように。

 温かい朝食を食べているのに、ぼくの中身は急速に冷えていくようだった。

 この家に、今の『ぼく』が初めて来たときのことを思い出す。


 マユミさんは、家を定期的に掃除してくれていた。だから家はそれなりに綺麗に保たれていて、記憶が病院から始まったぼくにとっては初めての家なはずなんだけれど、どこか懐かしい感じがした。それが『家』の持つ普遍的特性なのか、ぼくの大脳新皮質に刻み込まれた記録の片鱗が、ぼくにノスタルジィを喚起させているのか、それは分からない。

 彼女はぼくに、おかえり、と言った。

 ぼくは、ただいま、と返した。なんだかむず痒い、変な感じがしたのを覚えている。

 マユミさんは続けた。


――ここがあなたの家で、私は家族。


 その時にマユミさんは、ぼくに家族のルールを伝えたのだった。


――隠し事はしない。悩みがあれば相談する。私たちは家族なんだから。ただし、乙女には内緒もあるものよ。


 と、彼女はぼくにそう言ったのだった。

 今、マユミさんの横顔に見え隠れしているのは乙女の秘めたる内緒なのであって――彼女にとっては、ぼくに対する隠し事なんかではないのだと、刻み付けるように言い聞かせた。


 オムレツを口に運ぶ。

 あれほど美味しいと思ったメグのオムレツも、頭で色々な想像を巡らしているうちにその味が分からなくなって、ぼくは淡々と料理を口に運んだ。

 朝食を終えると先にマユミさんが家を出て、ぼくらは朝食の後片付けをしてから家を出た。


 空は綺麗に晴れていた。長袖の制服が丁度良いくらいで、風が吹くと少し肌寒い。その晴れやかな気候が、ぼくの陰鬱な雲をいくらか晴らしてくれた。

 家の玄関を出ると、ふと、視界の中で誰かがこちらを見ているような気がした。無意識にそちらに顔を向けると、そこは住宅街を歩くサラリーマンや子供がいた。その向こうで、白髪交じりのおばあさんが、こちらを見ていた。

 怯えたような――おばあさんは一瞬、そんな顔をした。


「凛音、行こう」


 耶衣子ちゃんがぼくの腕を引く。

 ぼくの注意が一瞬削がれた後、再びおばあさんが居た方に目を向けたけど、もうそこには誰も居なかった。

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