第7話 長い一日の終わり

 家のドアの玄関にはかぎが掛かっていて、いつものように鍵を開けて中へ入った。マユミさんはいつもどおりなら、一九時頃には帰ってくる。

 ぼくは、荷物を部屋に置いてから、キッチンに立った。晩御飯はぼくの役目だ。

 あれやこれやと料理を作っていると一九時を過ぎて、一九時半頃になると、マユミさんが帰ってきた。


「ただいまぁ~~疲れたぁ~~」


 玄関から聞こえたのは、そんな情けない声だった。

 廊下を歩く音がして、スーツ姿のマユミさんがひょっこりキッチンに顔を出した。短いポニーテールが揺れる。


「ん~いいにおい」

「おかえり」

「今日はなあに?」

「照り焼きチキンと、ポトフと……」

「おぉう! すぐ着替えるからね‼」


 ばたばたと階段を駆け上がる音がして、それからだぼだぼの、キャラクターのついたTシャツとハーフパンツに着替えたマユミさんは、大急ぎで椅子に座った。縛っていた髪も解いて、彼女の髪は無造作に広がっている。


「待たせてごめんね、ありがとね」

「ちょうど出来たところ」

「そうなのね。じゃ、頂きましょうか」


 合掌して、ぼくらは食べ始めた。

 チキンをぱくり、と口に運んだマユミさんは、顔をみるみる綻ばせた。


「うん、美味しい。また腕あげたねえ」

「大したことないですよ」

「ぶっぶー!敬語禁止ペナルティ。チキンをひとつ寄越しなさい」

 そう言ってマユミさんは、ぼくの皿から照り焼きチキンをひとかけ奪った。


「酷い」

「社会ってね、残酷なの」

 と、マユミさんは悲しそうな顔をした。

 残酷なのは社会ではなく、他でもないマユミさんだ。


 ちなみにこの敬語禁止ペナルティとは、マユミさんがぼくと一緒に住むにあたって設けたルールの一つで、お互いに敬語は使わない、とそういうものだ。彼女なりに、ぼくが過ごしやすい環境を作ろうとしてくれているのだろう。そんなルールが我が家にはいくつかある。


 家事は交代で。

 感謝と思いやりを忘れずに。

 食事は一緒に取る。

 門限は八時。遅くなる時は、六時には連絡すること。

 隠し事はしない。悩みがあれば相談する(乙女の内緒は別腹ダゾ★)

 一日一善。


 といった具合だ。ただし一部形骸化したルールもあって、食事だけはぼくが作るようにしている。食事はぼくの脳内の記録にしっかりと刻み込まれていたみたいで不便しなかったし、なによりマユミさんが作る料理は……独特だからだ。その料理は些かぼくの口には合わなかったし、マユミさんの口にもあわなかった。曰く、


『どうしよう。これ、東京湾のヘドロみたいな味する』


 だった。ぼくはヘドロを口にしたことは無いが、たぶんあんな味がするのだろう。二度と口にするのはごめんだ。


 ぼくと一緒に暮らす前はマユミさんは食事をどうしていたのだろうか。まさか、毎日霞やヘドロを食べていたとは言うまい。


「休み明けの久々の学校は、どう?」

 ぼくから奪ったチキンをパクリと口に運んで、マユミさんは聞いた。


「今日はイギリスから転校生が来たんだ。マーガレットと、コルネオーリっていう双子の子で――」


 それからぼくは、二人と耶衣子ちゃんと一緒に学校を回ったことを喋った。

 マユミさんはうんうんと頷いて、時に笑ったりしながら、話を聞いていた。


「そりゃ、愉快だね。大切にしなよ、出会いってやつをさ」

「うん。二人ともいい子だし……仲良くするよ」

「それがいい。大人になるとね、結構出会いって少なくなるからさ。職場で毎日おんなじ顔見てんの」


 ぼくはその言葉に、ちょっぴり心苦しさを感じた。

 それからマユミさんは回転式機関砲の如く職場の愚痴を発射して、ぼくは笑ったり、マユミさんが悪いと言ったりして、食事は終わった。

 洗い物は、マユミさんがやってくれる。

 ぼくは、テーブルを拭きながら、胸にへばりつく重石を外そうと試みた。


「マユミさんも、たまには外で食べてきてもいいんだよ?誰かとさ」

「んー?誰かって誰よ」

 洗い物に熱中しているのか、気もそぞろな返事だ。


「そりゃあ、会社の人とか、それ以外の……いい人とかさ」

「どうしたよ急に。いい人って。田舎のオババかよ」

 とマユミさんは噴き出した。

 ぼくだって、なんで急に話す気になったか分からない。直球体質のメグやネリーに当てられたのかもしれない。


「結婚とか考えてる人、いないの? ほら、マユミさんは外見はそれなりだし、どちらかと言えばカッコいい系って感じだけど、モテそうだしさ」


 それはぼくが、彼女が一緒に住むと聞いてから常々気にしていたことだった。マユミさんは二十代も後半で、ぼくからこんな事を言われるのは本当に余計なお世話だろうけれど、そういうことを考える年齢だと思っていたから。

 ぼくはマユミさんに養われていて、彼女にとってぼくは大きな子供みたいなもので、今の状況ではどう考えたって『いい人』と添い遂げるには、ぼくは余計なオマケだと、それぐらいの認識はあった。

 結婚したくても、マユミさんは結婚できないんじゃないかってこと。

 マユミさんの実子ならまだしも、他人の子供のぼくまで引き受けてくれる、その意気やよし、という豪気な男性が現れない限りは。


「いないよ、そんなもん。凛音は余計な心配しなくていいって。私はね、いまの生活、結構気に入ってんだから」

 ぼくは彼女の様子を見ていたけれど、それが果たして彼女の本音なのか分からなかった。


「明かりが点いてる家に帰ってくるって、いいもんよ。誰かと美味しいご飯を食べる。これも良し。一人暮らししてた頃は、どっちも無かったね。だからさ、私は寧ろ凛音に感謝してる」

「それなら、いいんだけどさ」

「不服そうねえ。私にそんなに結婚して欲しいの。それじゃあさ。――凛音がしてよ」

「ぼくがって……え?」

「……けっこん」


 マユミさんの挑戦的な目に射竦められて、ぼくはりんごを丸呑みした鳥みたいに、息を止めて言葉を失った。

 それはぼくにとって、完全な失態だった。


「ぷっはははは‼」


 マユミさんは泡の付いた手でシンクをバンバンと叩いて、それはもう愉快そうに笑った。


「本気にした? 今本気にしたでしょ? 告白された、とか思っちゃった?」

「な……」

「ごめんねえ。思春期の男子高校生の純情を弄んじゃって。いやぁ今の凛音のか・お。写真撮ってスマホの壁紙にしたいくらいだったよ。あー、なんか自身付いたわ。案外私、高校生相手にもイケるのね。大人の色香ってやつ?」


 かあっと、ぼくは顔に血が巡ってくるのが分かった。顔が熱い。

 言っておくがマユミさんに大人の色香なんてものを感じたことは無い。毎日家ではダボダボのだらしない服を着ているし、まあスーツを着ているときは似合っていてカッコいいと思うことも、あるんだけどさ!


「ま、まさか、ぼくが本気にしたと思っちゃいました? あはは、マユミさんもまだまだ、大したことないね」

「まあ、そうだったの! 迫真の演技、ってやつね。真に迫っていて、すっかり騙されちゃった♪」

 マユミさんは、いたずらっぽく、にやにやと笑っている。

「……ぼく、お風呂先入ってきますから!」

「そう。ごゆっくり」


 口撃では敵わないと悟ったぼくは、戦略的撤退をした。これは負けではない。次の戦いへの準備だ。

 ぼくは苛立ちなのか恥ずかしさなのか、訳の分からない感情を抱えてお風呂に入って、お風呂から出るころには多少そんな汚れも流れ落ちたような気分だった。


 ぼくがお風呂を出ると、ダイニングキッチンのテーブルに突っ伏して、マユミさんがすやすや寝ていた。

 仕事帰りで疲れていたんだろう。

 マユミさんの寝顔を見て、身内割引を取っ払っても、黙っていればそれなりに美人に見えるのに、なんてことを思った。


 そしてぼくが同時に考えていたのは、やっぱり感謝だった。

 マユミさんが仕事をしているのは、今ではマユミさん自身のためだけじゃなくて、ぼくを養うためでもある。こうして疲れて寝てしまうくらい仕事をして、それでもぼくとの夕食に間に合うように帰って来てくれて。ぼくが家事をしてマユミさんが楽になるなら、ぼくはそれを喜んでしてあげたいと、そう思った。


 その時のぼくは――いたずらの腹いせにそのままマユミさんを寝かせておくことだってできた。

 でも、翌朝バタバタとお風呂に入って、どうして起こしてくれなかったの、とぼくを詰って、急いでご飯を食べて出て行くマユミさんを想像したら……とてもそんな気にはなれないと、苦笑いした。たまったもんじゃない。それにあと、おまけに感謝もあるし。

 五回揺すったところでようやくマユミさんは目を覚まして、まだ寝ぼけていたので風呂に引っ張っていき、ぼくの仕事は終わった。

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