僕の渡す硬貨を受け取った彼女の手は、力がなく、心持ち震えていました。

 今にも枯れてしまいそうな彼女を心配したのですが、若かった僕は気の利いた言葉を何一つ持ち合わせていませんでした。

 僕も詩を書くんですよ、くらいは言ったかもしれませんが、彼女からは「ああ、そうですか」と返されたきりだったのでしょう。

 会話らしい会話もできないまま僕は立ち去ることになりました。


 彼女の姿を見たのは、その夜きりです。

 しかも、それだけの話です。


 彼女の詩も、特に心に残るものはなかったけれど、ちぎれそうな何かを抱えているような作風だったと思います。


 彼女のことをふと、四半世紀もたってから思い出しました。

 家にいることもできず、あの夜、一所懸命な思いで作った詩集を街に出て売ろうとした彼女の境遇を思うと、僕も苦しくなります。


 あの場ではどうしてあげたら一番良かったのか、あるいは僕たちがどうなれたのかは今でもよくわかりません。


 ただ、恋にはならなかったと思います。

 買った作品を読み進めているうち、どこかで彼女が既婚者だと知ったからです。

 夫たる人がいて自分の家庭があっても、あの夜、新宿駅の片隅で沈んだ表情でうつむいて、床に自作の詩集を積んでいたことが当時の僕には不可解でした。


 でも、今なら少し分かる気がします。


 相も変わらず彼女の素性は分からないままだけど、あの孤独の匂いはたとえ家庭があっても夫がいても消せないことはあるかもしれない。


 今なら、そう推し量ることくらいはできてしまうのです。

 そして、それが僕の結婚しなかった理由になっていくかもしれないことも。




(了)

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詩集売りの彼女 悠真 @ST-ROCK

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