17 亡霊
寝られるかバカっ!!! って思ってたのに、火を吹き消してベッドに転がってしまうと、勝手に瞼がくっ付いている。
あなたと旅に出てから、眠れぬ夜なんて無くなってしまった。どんな時もやって来る眠りに溜息を吐き、昨日のあなたを思い出してまた溜息を吐いた。毛布をぎゅっと握り、思い切り叩き付けてから体を勢いよく起こす。屋根裏にはもうきらきらと日差しが注いでいて、早く早くと私を急かす。服を着替えて、髪を梳き、下に降りていくと、カウンターにラルナのアホ毛を見つけた。机に突っ伏して眠ってる。文句の一つも言いたくなったけれど、その切なげな寝顔を見ていると、やっぱり何も言えなくなる。
おばさんもまだ眠っているのか、カウンターには“どら息子”の姿があった。ラルナの言う通り、今日は皆寝てるらしく昼の酒場にはお客さんは無い。半分目を閉じている“どら息子”に目で挨拶をして、私は井戸で水を汲んで、屋根裏に運び、体を拭いた。きっと厨房にごはんがあるんだろうけれど、おばさんの許可を得ずに勝手に食べるのは気が差すから、私は取っておいた黒パンをカバンから出して、水に浸して柔らかくして食べた。
下に降りていくと、ラルナが目を覚ましていた。あなたはカウンターに頰杖、早速ジョッキを傾けている。また、お酒、いつでもお酒……。もうっ……。
「おはようっ!」
怒りを抑えて、笑顔を作った。なのに、あなたはこっちを振り向いてもくれない。「うん。おはよう」。気のない返事に思わずあなたの肩を掴みかけた時、カウンターの向こうでおじさんが眠たげな声を出した。
「ああ、ユーリちゃん……。手紙が来てたよ」
手紙? 私に……? 一瞬、あの人の顔がちらついたけど、それはあり得ない話だ。あの人は私がここにいる事を知らないし、だいたい、手紙を書く用も無いだろう。あの人が追ってるのは娘の私なんかじゃなくて勇者のラルナなんだから――。
じゃあ誰だろう? 私に手紙を書く用のある人の中で、私がここにいる事を知っている人なんていない。エド……? いや、だったら伝言や書き置きでいいし、そもそもエドには郵便利金を支払う財力も、手紙を書く識字力も無い。
ラルナが背を向けたまま、肩越しに封筒を差し出してきた。封蝋も印章もないけれど、きちんと封筒に入れて糊で閉じられたちゃんとした手紙だ。封はもうラルナに開けられていて、中から薄汚れた手紙が見えている。なんだろう? 訝りながら、二つ折りの手紙を引き出し、開いてみた。
我、常に影に在りて、死にながらにして生者を見る。
我は見たりける。汝ら、帝国の祭場より、財貨を盗まんと悪謀して、我ら亡霊の眠りを妨げん。
我、汝らの邪心を咎め、汝らの親しうする娘を隠す。
汝ら、悪心を悔悛し、祭場に供物を捧げ、贖罪の儀式を為せ。さすれば、娘は返らん。
さもなくば、娘は死ぬる物なり。
帝国の亡霊より
「なに、これっ……」
並んだ文字から、おどろおどろしい怨念が沸き立っているように見えた。
脅迫文と呼ぶにはその手紙は神秘的過ぎた。だけど、いたずらと呼ぶには生々しすぎる。
綺麗なゼーヴェ語。均一に並んだ斜体の文字。そして、手紙に捺された真っ赤な手形。まるで小さな女の子の手のような……。これはまさか、ひょっとして……。
つい見つめたあなたの瞳。琥珀の瞳は少しも揺らがない。
「……なんて書いてあったの?」
「えっ?」
あ、そっか……。これはゼーヴェ語だから、ラルナには読めないんだ。だけど……。なんて、説明しよう。だいたい、これが本物だって証拠もまだ無いわけだから……。
その時だった。すごい勢いで酒場の戸を押し開き、誰かが飛び込んできた。息も絶え絶え、額には大粒の汗、膝で体を支えながら、見上げた顔は悲痛な色に染まっている。エド――。
嫌な予感がした。やっぱり、エドはその言葉を口にした。
「……マリーが、マリーがいなくなったんだ!」
「それで……。その手紙にはなんて書いてあったのさ」
肩越しに見返り、ジョッキを傾けながら、あなたは煤けた顔で薄笑った。
「落ち着いて聞いてね」
私はそうエドに言い含めてから、手紙をレーヴェン語に訳して読み上げた。
「……ど、どういう事だっ!? マリーは亡霊に攫われたのかっ!?」
エドはやっぱり我を失った。
あっと思った時には、ラルナの襟首をエドが引っ掴んでいる。
「なあ、どういうことだっ!? なんでマリーが攫われるんだ!? 亡霊ってなんだよっ!?」
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いてっ!」
なんて言っても落ち着くわけない。エドは更に強くラルナを揺さぶるし、ラルナはと言えば何を考えてるのか、されるがままにしている。
「落ち着いてなんかられっか! おい、なんとか言えよっ! マリーはっ! マリーはっ!!! どうなったんだっ!?」
「落ち着きなさいっ!」
その声にエドがびくっと震えるように静止した。
私の喉から出た、だけど、私じゃない声。厳粛で冷え切った有無を言わさない絶対的な声色。
湧き上がった猛烈な自己嫌悪を髪と一緒に払うと、私はじっとエドを見つめた。
「落ち着いて。大丈夫。大丈夫だから。何かも、私達に任せれば、大丈夫だから。だから、落ち着いて話しなさい」
言い聞かせる――いや、言う事を聞かせる。一見優しげな、だけど優しげなだけの口調で、私は一方的に命じた。
エドの小さな体から力が脱けるのが分かった。ラルナの襟首から手を離し、ふらふらと後退るとエドは小さく頷く。
じっと何も言わないあなたが恐ろしい。こんな私をあなたはどんな風に思っているんだろう? 怖くてとても確かめられない。あなたの瞳から逃れるように私はエドに向かい合った。
「……あなたがマリーちゃんを最後に見たのはいつ?」
「…………昨日の晩だ」
「今日は会ってないの?」
「……昨晩は店で宴会があって遅かったんだ。だから、俺も起きたのは昼近くだったから、そしたらさっきマリーがいないって聞いて……」
「マリーちゃんはいつからいないって?」
「ランドンのババアが言うには今日の朝飯にはいたらしい。あそこも昨夜は遅かったから、10時くらいだ。だけど、昼飯にはいなくなってたって。ババアの飯はマリーが用意してるから、間違い無い」
「マリーちゃんはいつも通りおばあさんのいる離れに?」
「……たぶんそうだと思う」
「あそこはエドの家からも近いよね? 怪しい人は見なかった?」
「……分かんねえ。近所でも聞いて回ったが、みんな知らねえって」
人目のある町の中でマリーちゃんは忽然といなくなった……? そんなの……。まるで本当に亡霊が――。
「亡霊だ! 亡霊に攫われちまったんだ! 俺のせいだっ! 俺があんな洞窟にっ……!」
「落ち着きなさい! そんなことあり得ないっ! マリーちゃんを助けたいんでしょ!?」
水の入った皮袋を手渡して、私は飲むように促した。エドは震える手で栓を抜く。その間に私は考えを纏める。
亡霊なんて、そんな事あるわけない。そう言いながら私自身がそれを否定出来ない。マリーはあの離れにいた。それが真実なら、誰がどうやってマリーを攫う? 町の中には人目がある。自衛の為の相互監視網。ゴロツキなんか近寄れない。誰にも見咎められずに町の少女を家から攫ってみせるなんて人間には不可能だ――。だったら、誰が……? 斜体で記された古風な文面。赤く捺された手形。これは本当に亡霊からの警告――?
エドは震えた指で皮袋を押し込んだ。噴き出した水柱が舌を叩き、エドはゆっくりと袖で口を拭う。やや落ち着いた目がこっち見上げた。
「……まずは、洞窟に行ってみよう」
他にはどうしようもない。私の提案にエドは小さく頷いた。
ラルナは何も言ってくれなかった。
やっと洞窟に辿り着いた。
壁に空いた小さな穴。初めて見たあの時と何も変わらずに洞窟はそこにある。確かめたラルナの瞳はやっぱり無感動で、あなたは何も言ってくれない。
うるさい心音を無理矢理に抑え付け、私はゆっくりと洞窟の入り口に向かった。ぎゅっと歯を噛み締めて覗き込んだその中には――びっくりするくらい何も無かった。
霊も神も人もいない。誰もいない。空虚とした洞穴がそこには広がっている。拍子抜けしながら、立ち竦んでいると、ラルナがふらっと中に入った。
「ふぅん」
身を屈め、あなたは何かを取り上げた。
汝、贖罪の儀式を為し、疾く祭礼の道を帰れ。
汝、振り返る事なかれ。汝、疑る事なかれ。
さすれば、娘の身は自然の内に返らん。
帝国の亡霊より
やっぱりゼーヴェ語で書いてあった手紙を私はさっきと同じように読み上げた。
「謝って、とっとと帰れって? そうすれば、マリーを返すって?」
頭の後ろで腕を組んで、ラルナは薄笑う。「だけど、誰に謝るんだ? 死人に謝れるもんかよ」。
「……お、おい! 亡霊が見てたらどーすんだ!? 謝れって! それでマリーを……!」
「謝って許してくれるような物分かりのいい亡霊なら、端から攫ったりなんかするもんか」
必死な様子のエドを鼻で笑って、ラルナはじっとこっちを見つめる。意味深な視線。琥珀色の瞳の奥にひらめいた真意を悟る前に、あなたの方から目を逸らした。
「……まあ、しょうがない。今は奴の手に乗ってやるしかなさそうだ。――亡霊の陰謀にさ」
薄笑いに吐き捨てると、あなたは手紙をひっくり返した。
ヴァルゼー通り21の2
それだけレーヴェン語で書かれた住所を指すと、あなたはふらりと洞窟を出た。
慌てて町に戻ると、日はもう西の空に傾いていた。
通りには教会へ向かう人が列を成し、私達はそれに逆らうようにして、ヴァルゼー通りへ向かった。進む毎に通りから人気は失せ、やがて、ヴァルゼー通りに入る頃には辺りはしんと静まり返っていた。
古い混み合った住宅街、暮らしの跡をそのままにして、人の気配だけが消えている。
今日は月の無い夜だ。明日のエサタの為に人々は教会に集って祈る。消えた月が再び空に輝く事を。明日からの春が温かな物になる事を。天の運行が、季節の循環が、変わりなく永遠である事を。太陽と共に起き臥し、月と共に働き、そうして生まれて死んでいく、変わりなき、退屈な日々よ、どうか永遠であれ――。それは平凡で、だけど真っ当な人達の純粋な願いだ。普通に生まれて、普通に暮らして、そうして普通に死んでいく。百年前、千年前から変わらない、営みの循環――。それこそが真に幸福だと彼らは皆知っている。だから今日は天国を嘲笑う偏屈おじさんも、荒れた不信心の若者も、皆が揃って教会で祈るんだ。
だから、今日、町に人は無い。今、こんな所を彷徨いてるのは、そんな当たり前の日々から外れた、罰当たりのゴロツキだけ――。
「あれだな――」
ラルナが琥珀の瞳を怪しく輝かせた。狭い横道の奥に建つ青い屋根の家。ヴァルゼー通り21は二階建てになっていて、二階に上る外階段が付いていた。21の2はこの建物の二階を意味している。私達は外階段を上って、ゆっくりと夕日に浮き上がった白い扉に近寄っていった。ドアには大きな錠前が下がっている。「どーすんだっ!?」焦るエドに「まあ、待ってろって」にやと笑うとラルナは懐から針金を取り出した。
「昔取ったなんとやらってね。……はい、開いた」
ラルナはドアに触れると私に目配せした。私はエドの双眸を確かめ、それからラルナをもう一度見つめ、しっかりと頷いた。
古ぼけた扉をラルナが音も無く開ける。夕日の光線が部屋に差し込み薄暗がりを照らし出す。やがて、玄関の先に三つの人影が出来た。伸びる影法師の向こう、その先に人の姿。「マリーっ!」エドが駆け出す。だけど、違う。転がった朱い羽根の帽子――。
「テルーゾっ……!?」
どうして、なんでっ? どうして――。混乱する頭を訓練された理性が抑え付ける。どんなに信じられなくても、起きた事だけが現実だ。そして、起きてしまった現実はもう決して覆らない――。テルーゾが、倒れている。うつ伏せに倒れている。夕日の差すその背には深々と刺し込まれたナイフ――。マリーを攫って、抵抗されて? いや、あり得ない。マリーの背丈で長身のテルーゾの背中が刺せるわけがない。
「……ともかく、マリーちゃんを探そう!」
エドと二人、家の中を見て回る。だけど、この家にはマリーちゃんどころか、他の誰の姿も無い。
「ふふっ……」
ラルナが小さな笑声を上げた。テルーゾの死体の傍らに立ち、ラルナは不気味に薄笑っている。取り上げたのは一枚の紙切れ。そこに書かれているのは――。
神、古の昔、天より
我、今再び地上に真なる教えを齎す者なり。
母の髑髏を祀る者、父の髪を燃やす者、子の骸を流す者、何れも地獄の火に灼かる者なり。
我、彼の人の
ただ、地上には神の教えこそ唯一在らめ。
さっきまでの手紙とは違う。踊るような書体で斜めに走り書きされたのは聖典の引用――。
福音伝の一部分、古い迷信を咎め、神の子と教会の絶対性を語っている。『ただ、地上には神の教えこそ唯一在らめ』最後の一節が二度繰り返して引用されている。崩れた文字の後ろに嘲笑する人の影が幻視され、猛烈な足音がそれを引き裂いていった。
家に押し入ってくる男達。ゴロツキだ――。乱暴に扉が閉じられ、男達の中から、地味な服の小男が進み出てくる。
「……おい、われっ。――こりゃ、どういう事だ? なんでテルーゾさんがそこで死んでる?」
ドスの利いた声。さりげなく私を庇うように前に進み出て、ラルナは軽い声で答えた。
「そりゃ、こっちが聞きたいくらいだよ。……ここに来たら、もう死んでた」
「はっ、信じられるとでも?」
「そりゃあんた次第だ。けどさ、ちょっと冷静になって考えてみようよ。これってちょっと都合良すぎない? 誰かに仕組まれてるっていうか……。わたしたちが争う理由って実はないと思うんだけど……」
乾いた音がその先を引き裂き、床に穴が穿たれた。もくもくと白い煙を吐き出すピストルを懐に仕舞い直し、ダッドはペッと噛みタバコを吐き出した。
「……ああ、……うん」
ぎこちなく苦笑うラルナを睨め付けてダッドは獰猛に笑った。
「…………せっかくの儲け話をわやにされたんだ。落とし前、付けて貰わにゃなあ……」
「だよね。……だと思ったよ、うん。……そうじゃなきゃ、ゴロツキなんかやってない」
「それとも大人しく売り飛ばされてくれるかーい?」
「その前に俺達と遊んでよー!!」
下品に笑うゴロツキ達を睥睨して、ラルナはちらとこっちに合図する。さりげなく近寄れば、ラルナは背を向けたまま小声で囁いてきた。
「……悪いけど、二人も同時に守れない。……どうしようか?」
ラルナは左手をひらめかすとちらと視線を向けてきた。――最強無敵の勇者でも手は二本しかない。
「……聞く意味あるの? ……勇者さま」
「いいや、ないかも。じゃじゃ馬姫さま」
見返ったあなたの笑顔をじっと見つめ、私は命じる。
「――エドを守りなさい。私はどうにか脱け出すから」
それに、なんとなく分かってきたんだ。この事件の真相が、私の推理が正しいなら、多分もう時間が無い。
「……無茶を仰る。お姫さま」
「でも、出来るでしょ? 勇者さま」
「そりゃ、まあ……」
横目に見つめた目をラルナは二三度迷うように動かした。それから、すっと手を寄せてくる。触れるか触れぬか、甲と甲でぶつかる手。じれったい。あなたの手を私はぎゅっと握り締めて引き寄せた。視線が通い、微笑が通じた。やがてあっちから手が離れた。掌に残った小さな何か。「もう、分かってるだろ? それがなんなのかさ」。薄笑うとあなたはその名前を囁いた。ああ、そうだ。やっぱり、そうだったんだ。ただ、私はそれから目を逸らして、考えないようにしていただけで――。
「……おいっ、どーすんだよ!?」
エドが狼狽えた目を向けてくる。その襟首を引っ掴み、ぐいっとラルナは傍に寄せた。
「どうもこうも、やるってんだからしようがない。とにかく口閉じてじっとしてな。――じゃなきゃ、舌噛むぜ」
場の空気が張り詰め、ゴロツキ達がじりじりと寄ってくる。
「行けっ!!!」
吠えるようなラルナの声に私はドア目掛けて駆け出した。
西の空では太陽が正に没して、消えていった――。
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