14 祭りの気配
エサタまで後2日。町に満ちるお祭りの気配に私は短い眠りから目覚めた。隣ではラルナがぎゅっと毛布を掻き抱くようにして眠っている。その切なげな寝顔を崩さないように気を付けて、私はそっとベッドから脱け出した。
日はもう高かった。下にはもうおばさんだけじゃなくて、他のウエイトレスさん達も集まっていた。
「ごめんなさい。遅くなって……」
「ああ、いいんだよ。悪いんだけど、朝の前にちょっと手伝ってくれるかい?」
「はい、もちろんっ!」
手早く身支度を終えて、私も手伝いに加わる。
「エサタの祭りだからね。こんな店でもちょっとくらい飾り付けをしなくちゃね」
おばさんはちょっと照れくさそうに弛んだ頰を揺らして笑った。
飾り付けに使うのはナラの枝葉に薄ピンクのリボン。ナラは小さな黄色い花を鈴なりに咲かせていて、店内は忽ちに華やかになった。
トネリコの枝で編んだ三角形の飾りをドアの外に吊す。町全体でエサタに向かって準備が進んでいて、隣の荒物屋さんや向かいの雑貨屋さんも同じような飾りを飾っている。「おーい。どいてくんな!」。大柄な男の人達が、焚火に使う大木を引き摺ってくる。
すごい。たった1日でまるで別世界だ。木靴を履いた女の子達がパタパタと駆けていった。ゴーンと教会の鐘が正午を報せる。わっと心が沸き立つ気がした。高まる気分に応ずるように春の風が吹き上がる。花の匂いを孕んだ暖かな風――。とうとう春が、やって来るんだ――。
「朝もまだなのに。悪かったね。ほうら、たんとお食べ」
お昼はリンゴパイだった。甘い香ばしさが鼻を突く。
「いいんですか!?」
「お祭りだからね。ほら、食べな」
丸いリンゴパイを切り取って、おばさんが私にくれた。サクッと心地良い音を立てて、パイは崩れて、甘味に変わる。
「エールもあるよ。さあ、みんなたんと飲んでおくれ」
おばさんは皆を一人一人労いながら、お酒とパイを振る舞った。あっちではおばさんの“どら息子”が常連さん達とテーブルを囲んでいる。
「ほら、あんたもどうだい?」
おばさんがコップを寄せてくる。つんと苦い匂いがした。受け取って、ちょっと迷って、ぐいっと飲んでみた。瞬間、顔が歪む。「ケホッ!」変な咳が出て、皆が大声で笑った。
「苦いかい? 大人の味ってやつさね」
おばさんは自分もエールを煽るとまた豪快に笑った。袖で口を拭い、コップの中の液体を睨んだ。何が美味しいんだろこんなの……。
「もーらいっ!」
温かな体温が背中に触れたと思った途端、あなたの手がコップを取り上げていた。「かあっ!」。一息に飲み干すと行儀悪く息を吐く。
「ラルナっ!」
あなたはもうパイを頰張っていた。髪はぼさぼさ、服はしわくちゃ、寝乱れたあなたの姿に私は「もうっ!」息を吐く。
「なんだい今頃起きてきたのかい? 手伝いもしないでむしゃくしゃと……」
もう二個目のパイに手を伸ばすラルナにおばさんは呆れた息を吐く。「エールおかわり」笑顔で空のコップを出すラルナにおばさんは大きく肩を落とした。「……はいよ」。
「この子は朝から働いてくれたんだけどねえー」
嫌味と共に突き出されたコップを「ありがとー!」あっけらかんと受け取って、ラルナはごくごくと喉を鳴らしてエールを飲む。「ぷはあっ……」気持ち良い声と共に輝くのは、誰もが思わず目を細めるような最高の笑顔。
「まったく……」おばさんが頭を小突く。「いでっ」わざとらしく頭を擦って、ラルナは口を尖らせた。
「だって、昨日はユーリが寝かせてくんないんだもーん」
「なっ!?」
何言ってんだ。このバカっ! 思わず掴んだ肩。「なに?」見返ったラルナはきょとんと首を傾げてみせる。
「……バカっ! 起きたなら行くよっ!」
「行くってどこに? ごはんもお酒もここにあるのに?」
「ほんとバカっ! ほら、行くよ!」
「ああー! ちょっとー!? わたしのおさけー!?」
襟首を引っ掴んで、私は無理矢理ラルナを引っ張っていく。ほんっとバカっ! アホっ! 髪ぼさぼさだし! 「っていうか、ボタンおかしいじゃんっ!?」掛け違えたボタンの隙間から臍が見えてる。だらしないんだからほんとにもうっ! 服を引っ張って隠しながら、私はラルナを屋根裏に連れて行く。ボタンを外して、留め直して、それから髪を梳いて整える。
ラルナは「ふわあ」生あくびでされるがまま。乱暴に梳かしたってアホ毛はやっぱり寝やしない。ぴょこんと跳ねてどこ吹く風。
まだ終わってないのにラルナは勝手に立って歩き出してる。喉から出掛かった声は静かな言葉に制せられた。
「……君の日記を探しに行こうか」
涼やかな微笑を残して、あなたははしごの口に消える。慌ててはしごを下れば、あなたの楽しげな背中が階段を下りて行く。私は慌てて駆け寄った。
「ちょっと待って……!」
「ほら、行くよ!」
右手でテーブルからパイを掴むと、空いた左手で私の手を引っ張る。「ちょっと!」叫ぶけれど、聞きゃしない。引き摺られるように私はラルナと酒場を出た。
「もうっ……」
私の不満にもどこ吹く風、あなたはパイを囓りながら、町を眺めてる。トネリコの飾り、連なった蝋燭、ナラの枝葉にピンクのリボン――。
「……お祭りだ。ワクワクするねー」
「だよねっ! ワクワクするよね! なんだか……」。その先の言葉は続かなかった。言葉とは裏腹にラルナの瞳は酷く無感動で、まるで石ころみたいなその瞳に背筋がぞっと寒くなった。
パイを平らげ、指を舐めると、ラルナはふらりと歩き出す。「ユーリ?」。怪訝に振り返った顔に慌てて付いていった。
正午の太陽を燦々と浴びながら、ラルナは通りを行く。
テルーゾ達はまだあの宿にいた。祭りに沸き立つ町に紛れて、私達は中を覗う。テルーゾ達もお祭り気分、中でお酒を飲んで上機嫌だ。
ラルナはいつかと同じようにひょいっと気楽に忍び込む。その後を慌てて私は追い掛ける。
部屋はこの前より更に汚い。饐えた臭いを堪えながら、部屋を探す。いつかの手紙が同じように放ってあって、その脇に一冊の手帳が転がっていた。中には拙いレーヴェン語で何かが綴られている。ペラペラ捲って、拾い読んでみる。
恋と愛とは 月と太陽 愛が消えれば 恋が生まれる
長い旅には 欲しい道連れ 酒と女と 煙草とカード
大きなドラゴン 背に跨がって 世界の果てが 見てみたい
「まさか……暗号?」
「……詩じゃないの?」
ひょいっと後ろからあなたが覗き込んできた。「ほらやっぱり。なんとかって詩の形式だよ。最近流行ってる」
「これが……? ……見た事無い」
「そりゃ、宮廷なんかで詠まれる詩じゃありませんから。……それより君の日記だけどさ。レーヴェン語で書いてる?」
「…………ゼーヴェ語だけど」
「ゼーヴェ語? 司祭が使ってるあれ? ふぅん……」
怪訝な顔をしたのも一瞬。ラルナはさして興味もなさそうに頷いた。「……あれ習ってないや、わたし」。知ってる。……だからだよ。
「やっぱり無駄だな。行こう」
ぎゅっと私の手を引いて、あなたは私を抱き上げる。次の瞬間には廊下に飛び出して階段を駆け下りていた。そのまま窓枠を跳び越えて、「よっ」あなたは私を下ろすと何食わぬ顔で雑踏に紛れていく。そのままあなたはちょっと歩いて、ピンクのリボンで飾られた大きな木の陰で立ち止まった。あなたは木の幹に背を預けて蹲る。
「こら、道端で座らないっ! スカート!」
私は慌てて駆け寄った。もう、こんなに人通りがあるのに! あなたはちらっとこっちを見上げると足を伸ばした。もうっ……。
「休憩するなら、ここじゃなくて……」
「……おかしいよね」
「え?」
琥珀の瞳がじっと見上げてくる。
「……探してない」
「……財宝?」
言われてみればそうだ。テルーゾ達はいつも遊んでる。財宝を探す様子がない。だけど、テルーゾはアルンスト伯と既に商談を交わしている。見つけたアヌルア金貨40枚をそのまま全部買い取らせるつもりだ。もう見つけてる? それはあり得ない。だったらとっとと売り払う。なのに、奴らは何もしない……。この汚い宿屋で毎日ゴロゴロと……。エドは聞いた。『次は一ヶ月後……』。それって、やっぱり……。
「……待ってるんだよ。洞窟が開くのを。ルペタルナの一月後、エサタの夜に洞窟は開くんだ。2日後だ! それを奴らは待ってるんだよ……!」
「かもね……」
琥珀の瞳が俯き、「ふわあ」無邪気なあくび顔が上向いた。両手をうーんと上に投げ出すと、ラルナは「ふはぁ」。もう一度小さなあくびをして目を瞑った。
「……ラルナ?」
「君も座りなよ、ユーリ。祭りの昂揚が気持ち良いよ」
「何言ってるの!? エサタはもう2日後なんだよ! 奴らもそれを待ってるんだ! そうと分かったら一刻も早く謎を解いて……」
言葉は中途で途絶した。喉が、もう動かない。
琥珀の瞳がぱちりと見開き、伸びた膝がゆっくりと立ち上がる。茶色のスカートが滑り落ち、白い肌の下で筋肉が動くのが見えた。
むんと覇気が立ち上ったような気がした。ぺろりと唇を舐めたその様はまるで小さな猛獣に見える。
「……だからだよ」
片膝を立てて、ラルナはじっと宿の方を睨めた。テルーゾ達のいる宿に一人の男が走って行く。「どけっ!」「どけよっ!」祭りの雑踏を乱暴に掻き分けるその男は目に見えて度を失っていた。戸を開く音がここまで聞こえてきた。少しして、テルーゾ達が飛び出してくる。
何だ? 何が起きたんだ?
ラルナは左膝だけで跳ねるように立ち上がった。
「行くよ?」
にっとあなたは微笑むや、小さな体を翻し、奴らの後を追いかけていた。
町の外れ。汚い小川に沿った猥雑とした通りだ。テルーゾ達はそこまで駆けて来た。
こんな場所には春も祭りも関係無いらしい。麗らかな午後の日差しもここでは薄く翳るだけ。狭隘な通りはいかがわしい空気に沈み、ふと見れば道の角に男が一人無気力に蹲っていた。
雑踏に紛れて上手く尾行してきたけれど、こんな通りに女の子二人、どうしたって目立つ。どうする? と目を向ければ、ぐいっとラルナに手を引っ張られた。倒れ込んだ私の体をひょいっと抱えて、次の瞬間、屋根の上に跳び上がっている。
そのままラルナは丸くて赤い煉瓦の屋根を足音も無く進む。
しばらく屋根を行くと、ラルナは私をゆっくり下ろした。身を屈め、這うようにして屋根の下を覗うと、ちらとこっちを見返って私を呼んだ。
落ちないように、ぎゅっとあなたに掴まりながら、私も屋根の下を覗った。
朱い尾羽はよく目立つ。――テルーゾだ。テルーゾは建物の入り口でゴロツキ達と何かを話している。中から更に一人男が出てきた。
その男にはっと驚いた。緑のシャツに深紅のチョッキ、黒い細身のズボン。その男は他のゴロツキ達より、随分、背が低い。
つい伸ばしかけた首をあなたに引っ掴まれた。そのままぎゅっと抱き締められるや、屋根と空がひっくり返る。気付けば、屋根から飛び降りて、路地に降り立っている。一瞬の浮遊感はあなたの体の感触に吸い込まれた。
「静かに」
上げかけた悲鳴はあなたの手に制せられた。小さな柔らかな手がぎゅっと口を抑え付けてくる。猛禽を思わせる鋭い目であなたは角の向こうを睨めている。ゆっくりと首を伸ばして覗いたその先ではその小さな男が屋根の上を見つめていた。
まさか、気付かれた? っていうか、あの男は、エドの言ってた特徴と――。
目で訊いた。ラルナは黙って薄笑う。
「行くよ」
私の手を引いて、ラルナは建物の脇に回り込んだ。まさか……。窓に伸ばしたラルナの腕を私は慌てて掴んだ。
「ちょっとなにやってんの!?」
「入るんだよ。今奴らは表にいる。これって、チャンスじゃん?」
「入るって……! だって、あんなに大勢のゴロツキがいるんだよ!」
「宿には忍び込んだろ?」
「あれとは状況が……! ひゃっ!」
有無を言わさず、抱き抱えられていた。ぴょいっとラルナは窓枠を跳び越える。胸がドキドキする。どうかしてしまいそうだ。なのに、あなたの心音は酷く静かで、その横顔は酷く冷たい――。
私を下ろすと、ラルナはふらり廊下を平然と歩いて行く。
怖くて怖くてしょうがないのに……! 「待って……」。なんて言ってもあなたは決して待ってくれない。私はその背に必死に付いていく。
声がした。男の声だ。何か言い争ってる? 耳を澄ませた時、不意に手を引っ張られ、部屋に連れ込まれた。後ろに倒れた体をラルナの腕が抱き止める。口を塞がれ、「しっ」と耳元で命ぜられた。
直後、廊下をすごい足音が響いていった。ラルナは戯けたような――だけど酷く冴えた瞳を四囲に向けて、とんと私を離した。躱すように前に出て、ラルナは音も無くドアを開く。隙間から猫のような仕草で廊下に滑り込むその背中に慌てて私は付いていく。
ねえやっぱりやめようよ。あとにしようよ。そんな弱気おくびも出せない。声なんて掛けらんない。傲然、ラルナはどんどん進んでいく。頭の中がバクバク鳴っている。苦しくって、怖くって、だけど、あなたが行ってしまうのが何より怖くって、ただ必死に付いていく。たったそこまでの廊下が無限のように感じられた。
角を折れると最奥の部屋に着いた。半分開いたドアの隙間から陽光が白く漏れ出している。
ラルナはゆっくりとドアを押し開く。
開いたドアの向こうから、強い光が発した。思わず私は目を閉じる。立ち竦んだラルナの姿が長い影になって伸びる。
ゆっくりと目を開き、ラルナの向こうを窺った。突っ立った小さなその向こうに――。
「っ……」
頭が理解するより先に体が勝手に後退った。嘘だ。だけど、違いない。午後の眩しい日差しに照らされながら、だけどその頰はどこまでも暗い。ひやりとした冷たさが空気を伝わって感じられた気がした。背筋がぞっと寒くなる。
暖かな光に包まれたその部屋には、死体が転がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます