12 盗まれたもの
「あのさぁ、おばさん。泥棒ってのは物を盗みに来たやつのことだよ? 盗む物もない部屋――というか、部屋とも呼べないような部屋には泥棒は入らないんじゃないかな」
「やかましいよ! 部屋とも呼べない部屋で悪かったね!」
階段を上りながら憎まれ口を叩いたラルナの頭をおばさんがぶっ叩く。「あぎゃっ!」。ほんと、バカ……。大袈裟に頭を抱えて物言いたげな視線を下に寄越すあなたに大きな溜息が出たけれど、言い方はともかく、ラルナが言いたい事は分かる。
私達の借りてる部屋は酒場の上にひっそりと広がった天井の低い2階の更にその上。屋根と2階の隙間にある物置みたいな――というか、私達がやって来る前は本当に物置だった場所。あんな屋根裏部屋に泥棒なんて、ちょっと信じられない。
急な階段を上りきって、おばさんが大きな体ではしごに掴まった。足を乗っけた瞬間、ギシッと軋むような音がした気がする。大丈夫かな……。「ねえ、はしごをあんまりいじめないであげてよ。そいつがいないと部屋に入れな……うげっ!」。ラルナの減らず口を蹴り飛ばして、おばさんははしごを上っていった。
「ユーリ!? ユーリも思ったよね!?」
蹴られた額を押さえながらこっちを見つめるあなたと私は目を合わせない。あのね、ラルナ。思う事と口に出す事は全然違うんだよ? というか、私はおばさんを心配しただけで、はしごが壊れるなんて思ってないし。……ないし。
ラルナはちょっと唇を尖らせてこっちを見ていたけれど、おばさんの体が半分屋根裏に消えると、すぐにはしごに飛びついた。高く上げられた膝からスカートの裾が滑り落ちたかと思えば、次の瞬間、スカートを跳ね飛ばすような勢いでラルナの体が持ち上がる。俊敏な動きに釣られるようについ顔を上向けて、はっと私は俯いた。あれ? なんで、顔逸らした? よく考えればそんな必要はどこにもないはずなのに、今更もう一度顔を上げるのも逆に恥ずかしくって、私は何故か熱くなった顔をじっと下に俯かせていた。
……何やってるんだ? 私は? バカじゃないのか? そうだよ、バカだよ。ラルナのアホがうつったんだ。バカだ。バーカ。呆れと一緒に何故か湧いてきた怒りを梃子にして顔を上げれば、ラルナの尻が目の前にあった。
「ちょっとおばさん。早く上がってよー」
「うるさいね。ちょっと……。ちょっと動けなくなっちゃったんだよ」
おばさんがはしごを上がれなくなっちゃったらしい。それでおばさんが上がってくれないから、ラルナも上がれない。だから、ラルナはまだはしごの中段で待っている。はしごに掴まり、左足をうんと上げて、上の横木に足を掛けた格好で。だから、ラルナのミニスカートのお尻が私の真ん前にある。
「左足が動かないんだよ。ちょっと、おい、どうにかしておくれよ」
「どうにかって、おばさんの足でしょ? 自分の足の面倒くらい自分で見てよ」
「人間、手前の面倒が手前で見られりゃ世話はないんだよ。それがどうして出来ないから、人生はややこしいし、私みたいな周旋屋や、あんたらみたいな代行屋が食べていかれる余地もあるってもんだろうが」
「うるさいなあ。つまり、どうして欲しいのさ」
焦れてきたのか、ラルナはぷらぷらと右足を揺らすと、ひょいっと足を跳ね上げて左足と同じ横木に載せた。前後に揺れる体に合わせて、波のように背中が動く。反れてはのめる、しなやかな運動――。驚く程に細い腰付、対照的に逞しい肩付、脹やかに膨らんだ尻の曲線。あのお城にあったクルル・ドヌアの彫像が想起された。月の女神ヤンリ・マヌラ。一時代の天才が削り出した女神の背中には、この世のあらゆる美と法則が具象していた。逞しくしなやかで、それでいて脹やかなあの背中――。
「いいから、とっととどうにかしておくれよ」
「それって冒険者に依頼するってこと? じゃあ、お金もらうけど」
「はぁ!? あんたこの私から金を取るのか!? 恩ってもんが分かんないのかい? 日頃散々世話になった礼をしようとは思わないのかね!?」
「冒険者なんだから当たり前じゃん。恩や義理じゃ、おなかは膨れないんだよ。日頃のお礼ってことなら、そのでかい尻を今すぐぶん殴ってあげるけど」
「はぁー! 呆れた子だよまったくっ!」
あの女神は――。一体どんな顔をしていただろうか? 思い出の女神の顔を私はとうとう覗けない。記憶の中で、私はただその完璧な背中を眺めているだけで――。
「ばぁっ!」
女神の背中が不意に翻って、その顔貌が飛び込んできた。ただし、上下逆さまになった酷いアホ面で。
「っっぅ!?」
吞んだ息が胸で詰まって、変な呻り声になった。まさかそうやって翻るなんて思わないし、まさかそんなバカみたいな顔してるなんて思わない。過去と現在が綯い交ぜになって、混濁した思い出をラルナの笑顔が塗り替えていく。
はしごにぶら下がった逆さまの女神様は天真爛漫、底の抜けたような笑みで私を見上げていたけれど、きょとん、私の狼狽に気付いてか、可愛らしく小首を傾げた。野暮ったい前髪が下に――つまり、上に――落ちて、大きな額が露わになったあなたはいつもより幾らか幼くて、愛嬌があった。まるでただの童女みたいに、バカらしくって愛らしい。そんなあなたについ誘われて、噴き出すように笑えば、あなたもまた笑って、二つの笑い声が重なって大きくなる。
「ちょっとなに笑ってんだい! 助けておくれって!」
あ、忘れてた。そう言えば、そんな話だった。おばさんの声に釣られてはしごの上に目を向けかけた私は、その瞬間、また咳き込むような呻き声を上げた。はしごに足を引っかけて逆さになったあなたと一緒に、その短いスカートも真っ逆さまに翻って……。
「ああっ!!」
おばさんの情けない叫び声が耳朶を打った。はしごの上の暗黒から、何か大きな物が降ってきて、それと同時にあなたのアホ面が私に向かって飛んできて……。
「ぎゃあっ!?」
「ひゃあっ!?」
「きゃあっ!?」
どんっとぶつけた頭の痛みが何もかもを吹っ飛ばした。
「もうなにやってんのさ」
尻餅を付いた私に手を貸して、それからひっくり返ったおばさんを助け起こすと、ラルナは一人颯爽とはしごの上に消えた。
慌てて、私も後を追う。
「うわ、ほんとに荒らされてるじゃん」
滅茶苦茶にされた屋根裏部屋を見回して、ラルナが意外そうに言う。
「ほら、ほんとだろうが!」
それを聞き咎めてはしごの下でおばさんが怒鳴り声を上げた。
「だけど、こんな部屋でいったいなにを盗むんだろ? なんか荷物置いてあったっけ?」
私は黙って首を振る。「だよねぇ……」ラルナは不思議そうな顔で、ひっくり返った部屋を物色し始める。
「何を盗られてるか、よく確かめなよ!」
はしごの下から飛んできたおばさんの声にラルナは首を傾げた。
「んなこと言ったって、盗まれるものなんて……」
あ。と口の形だけで言って、わざとらしく私を指差す。
「バカ」
ふざけたあなたをどんっと押し退けて、私は部屋を検める。
ベッドはひっくり返ってるし、棚の引き出しは全部引っ張り出されてる。だけど……。
「盗られた物は何も無さそう……」
「もともとないけどね。持たぬ者は幸いである?」
「そうだね。どっかの誰かさんが、全部賭けちゃうから」
「わたしはなんにもいらないのさ。ただ、きみさえここにいれば」
「私は色々欲しいんだけど? 今日のごはんとか、安全な寝床とか」
アホのラルナを押し退けて、私ははしごの口に向かって叫んだ。
「大丈夫そうです。何も盗られてません」
「がっかりするくらいにね」
ラルナの憎まれ口が頭上を飛び越えたかと思えば、そのままラルナははしごの口を落ちていった。その後を追って、私はゆっくりはしごを下りる。中段くらいに差し掛かると、不意に腰に腕が回った。はしごを掴む手を離すのと同時に、くるっと運ばれて、あなたが床に下ろしてくれる。「ありがとう」「どーいたしまして」。
「ほんとかい? 大丈夫だったかい? その、“あれ”は……」
不安げなおばさんに、にっと笑ってラルナが指を振る。指の先に挟まれたのはキラキラ光る
それを見ると、おばさんは深く大きく息を吐いた。
「はぁー。よかったよ。ほんとに良かったよ……」
へたり込んだおばさんを支えて、一緒に酒場に下りる。おばさんを椅子に座らせて、私は改めて尋ねる。
「状況を教えて貰えますか?」
おばさんはカウンターからワインを出してきて、コップに注ぐ気力も無いとばかりにそのままぐいと飲んでから答えた。
「……あんたらが帰る少し前さ。店も暇だから、わたしゃ、カウンターで居眠ってたんだよ。それがいけなかったんだね。妙な物音がすると思ってね。あんたらが帰ってきたのかと思って、部屋を覗いたら……。誰かが部屋を漁っててね。取っ捕まえてやれりゃ良かったんだが、わたしゃびっくりしてはしごから落っこちちまって、その間に盗人は逃げちまったんだよ……」
「顔は見ましたか? 背格好は?」
「いや……。覚えてない。ごめんよ……」
「いえ、大丈夫です。おばさんに怪我がなくて本当に良かったです」
おばさんは微かに笑って私を見つめる。
「……あんたは本当に良い子だね」
「知らなかったの? ユーリはとっても良い子なんだよ」
ラルナがえっへんと胸を張る。なんであなたが自慢げなの? ちょいっと肘で突いてやる。そんな私達を見て、おばさんは馬鹿らしそうに笑った。ぐいっとまたワインを呷る。
「……面倒が増えるばっかりだから、自警団は呼んでないけど、良かったかい? 何か大事な物を盗られてるなら、私から口を利いてみるけど……」
「いえ、大丈夫です」
「というか、呼ばれたら困るよねー。盗られた物が見つかっちゃうもん」
「ん……? そりゃどういう……」
「なんでもありません! とにかく大丈夫ですからっ!」
バカっ! 余計な事を言うラルナを睨みながら、私は必死に誤魔化した。おばさんは不思議そうな顔をしてたけど、一応どうにか誤魔化せた。ラルナはペロッと舌を出す。バカっ!
「そんな事より、お店の支度は大丈夫ですか?」
「あっ! ああ! そうだ! 今日はハンナもテティも休みなんだった! ぼやぼやしちゃいらんない」
「急ぎましょう。手伝います」
「ああ、ありがとう……!」
おばさんは慌てて立ち上がる。
さっき2時の鐘が鳴った。まだまだ混むまで時間はあるけど、準備を考えるとあっという間だ。店の様子を見回して、あれこれ考えを巡らせていると、じっと視線を感じた。ふと見れば、おばさんが心配そうに私を見つめてた。
「その……。あんたら、大丈夫かい? なんかヤバい事に……」
「大丈夫です」
押し被せるように私は言った。
「これでも、冒険者ですから」
落ち窪んだ瞳がじっとこちらを見つめて、それから小さな息を吐いた。
「ああ、そうだね……。年は喰いたくないもんだ」
おばさんは小さく肩を竦めてから、声を張った。
「さあ仕事だ! ぼやぼやしてると客が来ちまう!」
「はいっ!」
元気になった瞳を見つめて、私は大きく返事をする。そんな私達を見上げて、ラルナは嬉しそうに頷く。
「そうそう。お仕事頑張って。……というわけで、わたしはー」
ワインに伸びたその手をぺしっと叩いて、私はラルナの首根っこを引っ掴んだ。
「ラルナも働くの! お酒は仕事が終わったら!」
「ああー!! ひどいっ! けち! ちいちい! あたじけなすび!」
「訳分かんない事言わないの! ほら、着替えるよ!」
「ああ!!! わたしのおさけー!!!」
手足をばたばた抵抗するラルナを引き摺る私を見て、おばさんはお腹を抱えて笑ってた。
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