11 読めるものは

「まあ、所詮夢は夢だからさ。そんな気にしなくていいんじゃないの?」

 散々私の頭をぐちゃぐちゃの滅茶苦茶にしておきながら、ラルナはあっけらかんとそんな事言うと、暢気に朝ごはんのパンを囓ってる。こっちはもう訳分かんなくて、意味分かんないのに。ほんっとバカっ! あほっ!!!

「きみも食べなよ。おなか減ってないの?」

「うるさいっ! あほっ!」

 さっきゴッドリーさんの所で頂いてきたのに、なんだかもうおなかが減ってきた。ラルナが差し出したパンを奪い取り、半分千切ってラルナに返した。「ありがとう!」「どーいたしまして」。

「おばさん! お水くださいっ!」

「はいはい」

 コップに入れて貰ったお水を勢い良く一気飲みして、固くなったパンを流し込む。

「ぅっ……」

 そしたら、胸で詰まって変な咳が出た。「大丈夫?」。大丈夫って言い張る前に、ラルナがとんっと背中を叩いてくれた。瞬間、胸のつかえがすっと取れて、苦痛が一気に飛んでいった。本当に魔法みたい。いや、魔法でもこんなに簡単にいかない。

「…………ありがとう」

「どういたしまして。それで今日はどうするの?」

 あれ? どうするつもりだったんだろ。昨日いろいろ考えた気がするのに、なんか頭がぐちゃぐちゃでなんにも覚えてない。

「今日は……。えっと……」

「特にないなら、今日はだらだら……」

「駄目っ! そうやって毎日毎日遊んで暮らして……!」

 だけど、どうしよう? 調査のあてはないし、今日はなんだか頭がぐるぐるする。もう、ラルナのせいだ。どうしよう。

 ……そうだ。思い付いた。

「行くよ。ラルナ!」

「あっ、ちょっと……」

 ラルナを引っ張って、私は酒場を飛び出した。


 やって来たのは、ベッカーズ通り。エドの家があるテニシア通りの隣の通り。テニシア通りと同じように、通りはとても綺麗で、並ぶ店々はどれも窓を開け放って通りに向かって品物を並べている。色とりどりの生地に、装身具、変わった帽子、多種多様な品物がずらっと並ぶ通りを歩き、私は一つだけ品物を並べていない店の前で立ち止まった。ガラス窓の向こうをちらっと窺って、それから手擦れして艶の出たドアノブを握り扉を押し開けた。その瞬間、むわっと独特の匂いが香ってくる。

 真っ白に立ち込めたタバコの煙、それに混じった香ばしい匂い。苦くて甘くて、どこか酸っぱい――コーヒーの香りだ。

 ちらっとこちらに顔を向けた丸顔の店主は、私達の顔と服装を睨めるように見比べて、それから無視するように顔を背けた。入っていいって事だろう。

 中央の大きなテーブルでは男達が固まって、何事か議論していた。私はそれを横目に入り口に程近い隅の席に座った。

 しばらくすると、店主がカップを二つ持ってきてくれる。「ミルクは?」。私は黙って首を振り、突き出された毛むくじゃらな手に銅貨3枚手渡した。1枚余分の銅貨を確かめるや、店主は黙ってカウンターに戻っていく。

 カフェとか、コーヒーハウスとか呼ばれる店だ。そこそこマシな味なコーヒーが飲めるけど、目的はそれじゃない。私はコーヒーを一啜りすると、店の隅の棚に行った。上の棚には乱雑に本が仕舞われ、下の棚には紙束が積まれている。新聞の束、これが目当てだ。

 コーヒーハウスでは、銅貨1枚で本でも新聞でもどれだけでも読んでいられる。一日入り浸ったっていたって構わないから、溜まり場のように使われていて、待ち合わせや、商談や、ゲームや、議論や、もちろん雑談や、あらゆる事が行われる。常に人が溜まって日常的に出入りするから、店主が郵便や言伝を預かったり、仕事の仲介人をやったりする。酒場によく似ているけれど、一つ大きな違いがある。それはお酒が出ないって事だ。これは同業者組合ギルド同士の対立や、税金の関係だ。おかげでコーヒーハウスには、冒険者や傭兵のようなゴロツキはあまり近寄らない。お酒が入らないから、交わされる会話の内容も割とまともだし、読み放題の本や新聞は字の読めない人には無意味だから、自然と治安はずっと良くなる。

「また増税だ! 今度は茶葉の税が上がるらしい」

「これじゃ、コーヒーもまた上がるだろうな。いつまでこの値で飲んでられるか」

「ご領主様はこんなに取って、何に使うんだ?」

「そりゃ戦争に決まってるさ。魔王がやられてこっち世界中が戦争三昧だ」

「魔王と言えば、今、勇者がこの辺にいるらしいな」

「嘘に決まってるさ。冒険者が吹いたホラだろ。勇者を取っ捕まえてきますからって、パトロンから金を巻き上げるわけさ」

「世界の果てに、ドラゴンの尾っぽ、今度は勇者の首か」

「ホラと言えば、運河はどうなったんだ。ピエトロなんとかって言ったか? トゥルメンタルから、アブリーゼを人工の川で繋ぐって」

「あれこそ、大ボラだ! あんなもの上手く行くわけない!」

「おい、ちょっと、そこの奴! 聞き捨てならんぞ! なんと言った!?」

「なんだおっさん!?」

「ピエトロ・マルダンは大学の後輩だ! 彼は若いが優秀な工学者だ! 愚弄すると許さんぞ!」

「やるか!? 学者先生よぅ!」

 聞くともなしに聞いていたテーブルの議論は忽ちに大喧嘩に。殴って蹴って、それを囃して、店内は滅茶苦茶だ。……やっぱり、治安良くないかも。話してる内容が違うだけで、酒場のチンピラと根本は何も変わらない。

 一人で来たっていいんだけれど、やっぱり、ラルナがいてくれると安心だ。別にはっきりと禁止されてるわけじゃないけど、こういう店ではあまり女性も冒険者も歓迎されない。絡まれたり巻き込まれたら嫌だ。そのラルナはもう退屈そうにあくびしてるけど、

 ピエトロ・マルダンの先輩なら、マルセネーゼ大学だろう。アンソニー・アスタルム――マルセネーゼ大の有名人で文学者――のエッセーを思い出しながら、私は肩越しに喧嘩を眺めた。確か、あそこはボクシングが盛んなのだった。学者のおじさんは年の割にしっかりとしたとしたブロッキングで相手のパンチをやり過ごすと、大きなお腹を揺らしながら左右に体を振って、ズバンと右ストレートで相手を仕留めた。男はテーブルの上にひっくり返り、学者のおじさんは両手を挙げて勝ち誇る。馬鹿じゃないのかな。

 馬鹿なおっさん達を尻目に、私は手早く新聞に目を通す。低俗な記事は無視して、意義深そうな記事だけ拾い読んでいく。「マルチアリア陥落。ベリーズの公爵が勝利へ」、「ジョシュア・ハウンド氏新作公演のお知らせ」、「マルセネーゼ市イチョウ通りの幽霊事件」、「ニュスカで贋金見つかる」、「お手柄! ギュネス大学の学生が火事から赤子を救う」、「ジョージ・カイエン氏新作発売」……。

 雑多な記事を一気に読んでいく。ふと気付くと、読み終えた新聞が無くなっていて、代わりに新しい紙束が出来ている。ちらと顔を横に向ければ、椅子にもたれて上向いて、だらしなく座りながら、ラルナはコーヒーを飲んでいた。その鼻の上にはもう一つ白いカップが載っている。今、自分で飲んでるのがラルナのカップ。鼻に載ってるのは必然私の。

「バカ」

 カップを取って、コーヒーを飲み干した。ちらっと琥珀色の瞳がこっちを見る。

「分かんない? 言いたいこと」

「暇だって言いたいんでしょ」

「さすが、ユーリ。わたしたち、通じ合ってるかも?」

「じゃあ、これも通じてるでしょ? 『ちょっと、黙って、待ってなさい』」

 鼻の上にカップを戻すと、ラルナは「ぶー」と鼻を鳴らした。それを無視して、私はラルナが取ってきてくれた新しい山に手を伸ばす。

「ありがとね、新聞」

「愛するきみのためならば」

「はいはい」

 適当に相づちを打ちながら、私は記事に目を通す。「ダニール・ムーア著 イスティニアの軍事的諸活動の分析とリヴァーレ北部における今後の予想」。ダニール・ムーア――著作は読んだ事が無いけれど高名な学者だ――その名前を念頭に、私は一文字ずつ記事を読んでいく。「……魔王討伐の英雄国である北方の大国イスティニアの軍事的拡大は目覚ましく、フリード王の野望は益々拡大し、近くリヴァーレ北部は軍事的に統一される事が予想される。この行動はゴルドー、ニシュマータなどの周辺諸侯を刺激し、帝国はその有り様を一変させるであろう……」。イスティニア王フリード、ラルナに100億の賞金を懸けた男、ラルナを勇者にした男、ラルナと私を出会わせた男、そして、私の父親――。

 あっと思った時には、新聞が無くなっていて、渦巻いた虚妄を掻き消して、あなたがそこで笑ってた。

「……そんなもの読んだって、なにが分かるって言うのさ」

「……世界について、知らなきゃいけないでしょ」

「世界?」

 戯けたようにあなたは首を竦めてみせた。

「きみがいて、わたしがいる。他になにを知るべきだって?」

 あなたの瞳が少し煤けたように翳ったのが気になった。だけれど、そんな印象はすぐに揶揄いの笑みに消えていった。甘えるように顔を寄せてくるあなたを押しやって、私はアンティア体の飾り文字を辿った。「……アスティウムの公爵オーランは死の床にあり、嫡子ムースは既に亡く、他に男子は無し。イスティニア王フリードはオーランの甥にして、ゴルドーの王ガットゥーゾはオーランの従兄弟である。ニシュマータの王太子マッシーゾは、先年トロメカの王女ミティカと盛大なる婚姻を挙げたが、この王女はオーランの大姪に当たる。オーランの死が三国を巻き込む継承戦争を惹起する事は衆目の一致する所であるが、その勢力図が如何なる物となるかが問題である。伸長著しいイスティニアを嫌って、ゴルドー、ニシュマータが手を組めば、強国イスティニアと言えども抗せず、フリード王の野心は挫ける。しかし、何れかがイスティニアと結べば、或いはゴルドー、ニシュマータの反目を謀り、三国相争う事となれば……」。

「分かりきったことをよく読むね」

 耳元でぞっとするような声がした。文字から意識を離せば、ラルナが私の首に絡み付いてくる。

「家出したのに、やっぱりお父さんが気になるんだ。……妬いちゃうな」

「バカ。そんなんじゃない。……大国イスティニアの動向は世界情勢に影響するでしょ。私達、一応あいつに追われてるわけだし」

 ラルナは黙ってこっちを見上げている。何だかそれが嫌で、私はラルナを引き剝がして、顔を背けた。

「……ラルナも何か読んだら? せっかく、字が読めるんだから」

 字が読めない人はまだまだ多い。お城を出てそれがよく分かった。字が読める事は幸福だ。こうして本を読んで、あらゆる時代のあらゆる知識に触れて、自分の世界を広げていけるんだから。

 ラルナはお城で教育を受けたから、一応最低限の語学力があるはずだ。ベルナ語、エース語、スミリア語、その辺りまで一通り習っているはずで、ここにあるレーヴェン語の本や新聞なんかに苦労はしないはずだ。

 だけど、ラルナは離れてくれない。

「字が読めたって読めやしない。読めるものなんか、読んだってしょうがない。どうせ、読めるものを読みたいようにしか読まないんだから」

 呟くように言いながら、ラルナはずるずるしな垂れるようにしてこっちに倒れてきて、とうとう私の膝に頭を乗せた。するすると左手が机上に伸びて、適当な新聞を一枚掴むと、「おっ」、ラルナが体を半分起こす。

「これなんか面白いよ、ユーリ」

「どれ?」

「『攫われの美姫! 恥辱と哀泣の夜!』この記事によると、攫われたユリスティア王女は夜な夜な裸に剝かれて、木馬の上で鞭打たれて……」

「バカっ!」

 なにかと思えば、そんな低俗な記事!

「どうやら、『王女様は清純なる心を保ったまま恥辱に耐えていらっしゃる』派と、『残念ながら既に堕落して、恥辱に悦楽を感じるようになってしまっている』派が半々みたいだね」

「バカじゃないの! ほんっとバカっ!」

 額をぶっ叩いてやったのに、まだラルナは止まらない。「おおっ!?」何を見つけたか体をガバッと起こすや、私に新聞を突き出して、

「見てよ、ユーリ。この記事によると、勇者の股間にはアレが生えてて、しかも三つ叉に分かれてるって……」

「ほんっとバカっ! あほっ!」

「マジでっ!? マジなのでっ!?」

 ラルナはまじまじ自分の股を見つめてる。ほんっとバカっ!

 私は立ち上がると、机の上の新聞を片付けに掛かる。

「どーしたの? もういいの? ちなみにアレはなかったよ」

「当たり前でしょバカっ! ラルナがバカだから、落ち着いて読んでらんないの! バカっ!」

「もー、そんなに怒んないでよ。ほら、『王女さまはとってもきれいで、かわいいので、ふらちな欲望におぼれたりしないと信じています』ってグレース市ミモザ通りのアンナちゃん10歳が……」

「バカっ!」

 思わず振るった拳は小癪に受け流されて、ラルナは手遊びするみたいに私の手を取って踊り始める。「あー、もうっ!」。

 自分でも熱くなってるのが分かる私の顔を見て、ラルナはニコニコ笑顔。そんな笑顔を見たら、なんだか私も嬉しくなって、あー、もうっ! やっぱり私、もうダメかもしれない……。


 気分を変えようと思って出掛けたのに、結局頭はもっとぐちゃぐちゃ。

 とにかく私達は酒場に戻った。

「ただいまー!」

 元気よくラルナが扉を開けた。その瞬間、おばさんが目を剝いてこっちに飛び込んできた。

「あんたたちっ!?」

 息はぜえぜえと乱れて、皺の目立つ額には玉のように汗が浮き出している。

「おばさん……?」

「だ、大丈夫だったかい!?」

 息を整える間も惜しんで叫ぶと、がしっとおばさんが私達を抱き締めた。その腕を軽く躱して、ラルナは首を傾げる。

「大丈夫だけど?」

「どうかしたんですか? 何かあったんですか?」

 大きな腕に抱かれたまま、私は冷静におばさんを見上げた。おばさんは私の瞳をじっと覗き込み、それから、私の無事を確かめるみたいにぎゅっともう一度私の体を抱き締めた。古い葡萄酒のような香りが私を包み込み、「よかった……。本当に良かった……」零れた安堵の声が胸に染み渡った。

 私を離すと、おばさんはじっと私達を見つめて、ゆっくりと言った。

「落ち着いて聞きな。……あんたらの部屋に泥棒が入ったんだよ」

「どろぼう?」

 ラルナが素っ頓狂な声を上げて、私達は顔を見合わせる。

 私達の部屋に泥棒? あんな屋根裏部屋に――?

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