9 夜の閃き
おばさんの酒場に戻った頃にはすっかり日は沈んでいた。「おっー! ジャランガじゃーん!」。酒場の戸を開けるなり、ラルナは顔馴染み達とテーブルの上の牌を見つけて顔を輝かせる。ちらっとこっちを見つめた琥珀色の瞳に私は黙って銅貨を握らせた。「ありがとー! よーしっ! こないだのカードの借り、返してやるからなっ! えっ、足りない……? あの、ユーリ……」。借りってほんとに借りてるのかよ! もうっ! 「ありがとー! よーし! てめえら全員ハコにしてやらあ!」。くるっと回した椅子の背に抱き着くように逆さに座るとじゃらじゃらとテーブルの上の牌を繰り始める。その背中はほんとにほんとに楽しそうで嬉しくなると共に何故か溜息が出た。「あぎゃー!? なんでなんでそーなるのーっ!?」。酒場中に響く悲鳴に苦笑いながら、私はエプロンを着て、給仕を手伝った。
笑顔を作って接客をしながら、頭を占めるのはあの手紙だ。テルーゾは“財宝”の内訳を知っている。あの洞窟に眠っているのはアヌルア金貨40枚。どうして知っているんだろう。どこかでまたトッツェンガッタのあの歌が聞こえてきた。この町に古くから伝わる歌。オオカミを騙して、洞窟の財宝を手に入れる……。
お客が随分減ると、おばさんがお疲れさまとリンゴをくれた。お礼を言ってエプロンを外すと、そのままリンゴをラルナの所に持って行く。がっくりと机に突っ伏したラルナ。「んーっ?」気怠そうに見返った顔にリンゴを突き出せば、「よーしっ! こいつでもう一勝負っ!」。はぁ……。まあ、好きにすればいいんじゃない?
私は厨房に回って、水を貰って、店の裏口で顔と手を洗った。今日はもう遅いから、体を拭くのは明日の朝にしよう。夜空の星に時間を数え、東の空にやっと出てきた小さな月に、もうすぐエサタか……。と考えた。
先月のルペタルナの日、洞窟の入り口からオオカミ座のアルクマートが真っ直ぐに見えた。そこにはまるで星の在処を指し示すように奇妙な三角錐状の岩が据えられていた。ルペタルナの日――それはかつて春を迎える祭りだった。春分の一ヶ月前、厳しい冬を去らせ、目前にやって来た春を翹望する祭り。旧い年に別れを告げ、新年を迎える祭り。すぐそこまでやって来た、新しい年、新しい季、新しい月――。教会は尤もらしい神話を語るけれど、エサタの祭りが異教の春分祭に由来する事は神学者も語る所だ。つまり、本来ルペタルナの日とエサタは二つで一つの祭りなのだ。その関連は今ではすっかり覆い隠されてしまっているけれど――。
散漫な考えを私は水滴と共にボロ布で拭った。
「うぎゃー! 負けたー! なんでー!?」
店に戻るともうラルナが負けていた。さっき上げたリンゴをむしゃむしゃとハゲたおじさんが食べている。嘆声とも笑声とも付かない息を吐き、蝋燭を借りて、2階に上がる。
私達の借りてる屋根裏部屋は2階の廊下を突き当たりまで行ったはしごの上だ。
お城ではどんな場所にも灯が灯されて隅々まで煌々と明るかった。細い蝋燭の灯だけの夜は未だにちょっと怖い。だけど、蝋燭の値段を思えばとても贅沢は言っていられない。揺らめく蝋燭をはしごの上の大きな空洞に向けて、私はゆっくりとはしごを上る。
ベッドの脇に置いた小さな棚に蝋燭を置いて、ベッドに座り、息を吐いた。ぼやぼやしてはいられない。この一瞬で、お金が燃えているんだから。
私は服を脱いで、それからブーツの編み込みを解いて、靴下も脱いだ。お城を出て驚いた。皆、服を着たまま、靴を履いたまま寝てる。だけど、それだけはどうしても無理だ。体の締め付けが苦しくて落ち着かない。
お城にいた頃は引きずるような長いシルクのシュミーズを着て寝ていた。もちろん今はそんな贅沢は出来ない。寝間着どころか、昼間着る服もこの一着だけしかない。だから、下着をそのまま寝間着にするしかない。
キャミソールの丈は短くて、太腿を半分くらいしか覆えない。肩も剝き出しだし、胸元も大きく開いている。これはこれで落ち着かない格好だけれど、良くも悪くもあなたはいない。
天井に渡した洗濯紐に服を皆引っかけると、長い髪を麻紐で軽く纏めて、それから私は蝋燭の灯を吹き消した。
瞬間、屋根裏部屋は一面深い闇の中に没する。あんなに狭かった屋根裏が不意に茫漠たる無限に変わって、私を包み込む。掴みどころのない、無辺の暗黒。剝き出しの手足に触れる毛布の感触をよすがにして、私はぎゅっと目を瞑った。「バカ……」。我知らず胸の内から飛び出した声が、耳から入って自分を驚かせた。狭いベッドは、今日もとにかく広すぎて、私はあなたの存在を追い出すように瞼の裏に暗号を描いた。アルクマート……。エサタ……。不可思議な詩歌……。にやりと唇が緩み、思索の迷路が、やがて甘き眠りの中に私を誘っていった。
「っ……!」
全身を粟立たせた何かは、はっと目を覚ました瞬間どこかに消えてしまっていた。夢……。冷えた自覚が体を貫き、体を起こしかけた私は軽い頭痛に顔を顰めた。無意識に探った隣に、やっぱりあなたはいなくって、掌は空しく闇を過る。
その瞬間、さっきの夢の印象が忽然湧き上がって、一つの思考を繋いだ。「あっ!」不意に思い付いた仮説に湧き立つような声が上がる。書き留めておかないと。すぐに……。城にいた頃の癖でベッドの上を探って、私は「あっ……」と思い知らされる。
水差し、リンゴ、日記、ペンとインク壺。いつも赤々と燃えていた蝋燭。自分で捨てたんだ。歯噛みして、跳ね上がるように立ち上がった。蝋燭に火を……。いや、ダメだ。時間が掛かりすぎる。私は火打ち石が上手く使えない。
下の酒場なら、きっと灯が付いている。そう思い付いた途端、肌寒さに剝き出しの手足を思い出した。こんな格好じゃ下りていけない。とにかく、服を……。闇に目を凝らしたけど見えるはずもない。闇雲に手を振ればシャツとスカートが手に引っ掛かった。だけれどとても着られそうにない。しばらく悪戦した末に私はシャツらしき物を放り出した。きっとラルナに教えてあげないと……。閃きはもう消えてしまいそうで、私は慌ててカバンを探って、手に当たった日記を取り出した。しんと冷えた空気は深更の匂いを醸している。きっと誰も起きてない。掴んだ毛布を体に巻いて、私は素足のまま、はしごの口を探した。
どろどろと揺らめく闇の口に、私はゆっくりと足を下ろす。足の指で横木を確かめて、意を決して下りていった。一段、二段、三段……。横木を数えながら慎重に下りていくと、思いがけない反発に足が驚いた。痺れたように痛む足を振りながら、擦るように反発を確かめる。記憶より一段少なかった。いや、最初に掴んだ横木が二段目だったのかも。とにかくここまで来れば……。壁を手で伝いながら、私は階段に向かって歩く。辿り着いた階段の下からは微かに灯が漏れていた。やった……! 灯に向かって、私は一気に階段を下りた。光の中に飛び込んで、あっと、自分の格好に気付いた。
「ひゃっ!」
小さな悲鳴を漏らしながら、慌てて闇の中に飛び退いた。階段に隠れながら怖ず怖ずと覗けば、カウンターに蝋燭が揺れていた。その傍らには突っ伏して眠る男の顔がある。おばさんの“どら息子”だ。と思い出して、他のテーブルに目を向けた。ラルナがジャランガをやっていたテーブルにはそのままそっくりラルナとおじさん達の寝姿があった。また溜息が零れる。おじさんと一緒に寝ないでよ……。
足音を忍ばせながら、私はゆっくりとカウンターに近寄った。「ふがっ」誰かが立てた鼻息が体をびくっと震わせる。大丈夫。起きやしない……。程なく、カウンターに辿り着いた。“どら息子”は正体無く眠りこけている。酒場は同業者組合の決まりで夜通し店を開けておかなきゃならない。だから、“どら息子”は夜の店番を任せられているはずなんだけど……。これじゃ、おばさんが怒るわけだ……。
だけど、私には好都合だ。蝋燭を取り上げて、空いてるテーブルに持っていく。その辺に置いてあったペンとインク壺を借りて、走り書きしておく。「エサタの晩……。天を舞う竜が狼の尾を食む……。暗号はアスティア文字……」
「よし……」
これで大丈夫。明日、ラルナに教えてあげよう。ラルナ、驚いてくれるかな。「ふふっ……」一人妄想に溢した笑みが意外と大きくて慌てた。ペンとインク壺を戻して、蝋燭をカウンターの“どら息子”の元に返す。気を失ったような寝姿にふと気付いた。篝火、大丈夫なのかな。酒場は夜通し店を開けるだけじゃなく、店先の篝火を朝まで焚いておく義務を課されている。もし、火が絶えているのが見つかったら、怒られるのはおばさんだ。ちょっと逡巡したけれど、結局私は確かめに行く事にした。
ドアを開けた途端、冷たい風が吹き付けてキャミソールの裾を捲り上げた。胸元を吹き抜けた風にかっと頰が熱くなる。ぎゅっと抱くように毛布と体を抑え付けて、私は篝火を確かめた。やっぱり、火が大分弱くなってる。これじゃ朝まで保たないよ。慌てて店に戻って薪を取ってくると、篝の中に放り込んだ。
これでよし……。って、こんな格好でなにやってんだ私……。
足裏の冷たさに急に羞恥が湧き上がってくる。それと同時になんだか心音が高鳴ってくるのを感じた。ゆらゆら揺れる闇の向こうを見つめていると、頭の芯がぼーっと熱っぽくなっていく。
不意に篝の薪が爆ぜて、その音にはっと我に返った。
「な、なにやってんだろ……!」
嫌に裏返った独り言が余計調子を狂わせる。ドアを押し開き、店に戻った。階段に足を向け掛けて、立ち止まる。
ちょっと気になって覗き込んだあなたの寝顔は割と安らかだった。おじさん三人と顔付き合わせて、同じテーブルでぐっすり眠ってる。
「はぁ……」
妙に大きな溜息が出た。遠くで仄かに蝋燭が揺れている。しばらく、あなたの寝顔を見つめて、気付けば私は毛布を体から外していた。小さな背中に毛布を掛けて、あなたに背を向けた時だった。
バサッと小さな音がして、何かが落ちる音がした。毛布が落ちて、ゆっくりとその顔が上がる。歯を剝いて、大きくあくびをするその様は可憐でありながら、どこか獰猛で。きっと獅子はこんな風に目覚めるのだろうと思った。小さな猛獣はゆっくりと瞼を開き、そして琥珀色の瞳で私を見つめた。
「ん……?」
太く凜々しい眉が動いて、瞳が徐々に微睡みから覚めていく。あなたの瞳は、つまり、私の格好を訝っていて――。
「っ!」
我に返るより早く、私は真っ暗闇の階段に突っ込んでいた。
どうはしごを上ったのか分からない。だけど、気付けば、私はベッドに潜り込んでいて、とにかくもう暑かった。
「バカっ! バカっっ!」
誰に向けた物か。闇雲に殴ったベッドがギシギシと軋んだ。
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