5 それぞれの過去

 色褪せた緑のスカート。薄汚れた白のエプロン。ほつれかけたシャツは水仕事の為に肘で捲られ、細い青白い腕を露わにしている。

 鍋を洗うその指先は真っ赤にひび割れて痛々しく、引き結ばれた薄い唇はかさついて、ささくれ立った薄皮が風に戦いでいた。

 エドの幼馴染み――名前はマリー。たぶん、私達より二つか三つ年下のはずだった。だけど、とてもそうは見えないのは、その痩けた頰に刻まれた深い苦難の色が顔貌のあどけなさを塗り潰しているからだろう。

「ちょっと待ってて貰えますか?」

 もう3時間は前の事だ。早口でそう言い置くと、マリーは慌ててドアから顔を引っ込めた。入れ替わるようにして老婆の怒号が聞こえてきて、「はい! すいません! すぐにっ!」とマリーが答える声がした。皿が割れる音がして、聞くに堪えない罵声が響いてくる。中を窓から覗けば、ベッドの上の老婆に罵られながら、パタパタとマリーが家事に励む姿があった。

 老婆は体を悪くしているのだろう。ベッドから起き上がれないらしく、マリーが背中を支えながら起こしてやっていた。丸めた毛布を背中に重ねて老婆の体を支えると、スプーンで一口ずつ食事を与えていく。

「味が薄い!」

「だけど、お医者さまが……」

「やかましいっ! 口答えするんじゃないっ!」

「……はいっ、すいません」

 言われるままに料理を作り直し、布団を整え、老婆の体を揉み、掃除をして、干してあった洗濯を取り込んで、井戸から水を汲んできて、ようやく家事が一段落したかと思えば、老婆が叫ぶ。「マリー! 物置の鍋を出して、洗っといてくんなっ!」。

 春の太陽はもう沈み掛けていて、居残った冬の風がひゅうひゅうと吹いていた。

「もうちょっと待ってて貰えますか? さっきおばあさま眠ったみたいだから、これが終わったら、お話出来ると思います」

 小さな体を前後に揺すり、大きな鍋を一生懸命擦りながら、マリーは言う。

「手伝おうか?」

「大丈夫です。大事な大事なお鍋だから、私がやらないと……」

 マリーはちらとこちらに笑顔を向けて、また大きな鍋の中に頭を突っ込んだ。

 小さな姿を見つめながら言葉の接ぎ穂を探っていると、そんな気配に気付いたのかマリーがちらっと笑顔を振り向かせた。

「私、孤児なんです」

 たった一語にあらゆる苦難を込めると、マリーはまた鍋に顔を戻した。

「……皆が言う程不幸じゃないですからね? 針も料理も仕込んで貰えましたし、食べるには困らないですから。幸せだって思ってます」

「……だけど」。つい、口が出た。

「――あんな言い方、酷いと思うよ」

「いいんです」。マリーは即座に否定した。

「私は大丈夫ですから。それに、おばあさまは本当は優しい方なんです。私を引き取って下さったのも、家事を仕込んで下さったのもおばあさんですから。ただ、ちょっと体を壊されてから……。……おばあさまも辛いんだと思います」

 冷たい風が吹いた。誰にだって事情はある。それは容易に他人が口を挟める事じゃない。分かっていたつもりだけれど、やっぱり分かっちゃいなかった。それをまた思い知らされ、苦い感情が広がった。

 気まずい沈黙を破ったのは、ラルナの憎まれ口だった。

「だけどさ……。そんなでかい鍋、なんに使うのさ。あんな死にかけのばあさんがさ」

「ちょっとラルナ、そんな言い方……!」

 ついまた口が出た。だけど、マリーは笑顔で流した。

「ハハハハ……。ほんとですよね。だけど、おばあさま楽しみにされてるから。……ほら、もうすぐエサタのお祭りですから」

 エサタは毎年3月下旬から4月上旬に行われる教会のお祭りだ。正しい日付は春分の日の後の最初の新月の翌日。

「おばあさまは毎年この大鍋でスープを作って皆さんに振る舞ってらっしゃったんです。……だから、今でも……」

 そう続けたマリーは乾いた布で鍋をさっと拭くと「よしっ」と腰を入れて鍋を持ち上げようとした。そこに、ひょいっと後ろから手が伸びてきて、鍋を軽々持ち上げる。

「わっ、力持ちなんですね」

「まあね。たぶん、世界一」

 鍋を持ち上げたラルナはそんな軽口を叩くと、「どこ運ぶ?」。「あっ、あそこの壁に立てかけて貰えますか?」。「はいはい」。

 ラルナが鍋を壁に立てかけるのを見届けてから、マリーはパタパタと老婆の様子を見に裏口に戻っていった。すぐにドアがまた開いて、はにかんだ笑顔が顔を出す。

「大丈夫でした。よく眠ってました」

 私達は裏口の前の階段に並んで座った。

 マリーは真っ赤になった小さな指を夕陽にかざして温めると、ふぅと小さく息を吐いて、くたびれきった笑顔で語り出した。

「エドも……私と同じ孤児なんです。元々は違う街にいて、お父さんは金細工師で、アムースの品評会でも賞を取ったくらいの腕の良い親方さんだったって聞いてます。だけど……すごく気の弱い人で、悪い人に騙されて、借金を負わされて、お店も取られちゃって。それでお酒に逃げて、死んでしまったって。エドのお母さんは心労で倒れて、そのまま……。それで、お父さんのお友達だった織物屋のマーゴンさんに引き取られて、この町に来たんです。5年くらい前のことです。とにかく、エドは傷付いてて、可哀想で、私は心配で、いっぱい慰めました。……べつに、そのおかげってわけじゃないと思いますけど、最近はすっかり元気になって嬉しかったんですけど……。突然、変なことを言い出すようになって」

「変なこと?」

「……冒険者になって、稼いでやるって。それで、こんな町、出て行ってやるって……」

 私達は顔を見合わせた。マリーは俯いたまま続ける。

「なにが気に入らないんでしょう? みんな優しいし、親切だし、とっても良い町なのに。そりゃ、女将さんは厳しいですけど、マーゴンの旦那さんは優しくしてくれて、エドがお父さんみたいな金細工師になれるように修行に出してくれるって言うんです。知り合いのお店に口を利いてくれるって。なのに、冒険者になるって、なんで……」

 語りながら、マリーは膝の上拳をぎゅっと固く握っていた。曖昧に笑う私達、はっとマリーが顔を上げて、慌てた様子で手を振った。

「あっ、気を悪くしたら、ごめんなさい……。そんなつもりじゃないんですけど、その……」

「いいさ。冒険者なんて、スッパ、ゴロツキ、悪党づれだ。所詮、ろくな物じゃない」

 ラルナはケラケラ笑って言う。「ね?」と微笑むあなたに私は素直に頷きたくないけれど、実際ラルナはろくな物じゃない。金細工師とどっちが立派かなんて考えるまでもない。いつだって酒浸りで、日が高くなってからしか起きなくて、お金があればギャンブルで……。いや、これはラルナだけか? いや、皆大体同じ物だ。盗みとかしないだけ、ラルナの方がずっとマシだ。あれ、でも、ラルナは私を攫ってて、それで100億の賞金が懸けられてて、王女を攫う方が窃盗や強盗よりずっと……。「ユーリ?」。いや、そんなことない! ラルナはあんな奴らとは違う! 人に迷惑……掛けないわけじゃないけど! 人を傷付けたり……しないこともないけど!「ユーリー?」。だけど、とにかくラルナはあんな奴らとは違う! 優しいし……、優しいし……とにかく、優しいもん!

「ねえ、ユーリ?」

「うわっ!?」

 いつの間にか、あなたの顔が真ん前にあって、思わず私は飛び上がった。

「な、なに!?」

「なにって、そっちこそなにさ? 急にぼーっとして、どうしたの?」

 微妙に歪んだその唇が、ちょっと斜に構えたその顔が、だけどまっすぐに覗き込んでくるその瞳が、やっぱり、私は……。

「なんでもないっ!」

 真ん前のラルナをえいっと押しやって、私はそっぽを向いた。

「とにかく! ラルナはもうちょっとマシな生活をしなさいっ!!! お酒ばっかり飲んでないで、たまには早く帰ってきて! あとギャンブルダメ!」

「なんで急に怒られるのっ!? なにもしてないじゃんっ!?」

「なにもしてないからダメなの!!! とにかく冒険者なんてろくな物じゃないっ! バカ! アホ! クソッタレ!」

 思い付く限りの言葉で罵った私に「そこまでじゃないと思いますけど……」苦笑いながら、マリーは続ける。

「冒険者がそんなにダメってことないですけど……。とにかく突然だったから、驚いたんです。『どうして?』って聞いても教えてくれなくって……。とにかく、最近変なんですあの子」

「変って?」

「……ぶっきらぼうな口しか利かないし、目もまともに合わせてくれないし、突拍子もなく大きなこと言うし、すぐに怒るし、いちいち乱暴に命令するし……。なのに、急に優しくなったり……」

 それってもしかして……。ラルナと目が合った。にやとラルナは笑う。だよね? それって、やっぱり……。

「あの、お姉さん達に聞きたいんですけど!」

 不意に声を張って、マリーが緑の目でこちらを見つめた。

「男の子って、みんな、ああなんですか?」

「えっ……」

「あれくらいの男の子ってみんなあんな感じなんでしょうか? それとも私なんか嫌われちゃったんでしょうか?」

「い、いやっ……!」

 そ、そんなこと聞かれても……。慌ててラルナを見れば、そっぽを向いて口笛吹いてた。ずいっと肘で私を押してくる。バカっ! 私だってそんなの……!

「どうなんですか。お姉さん!」

 澄んだ緑の目が私を見上げる。そんな目で見られたって、私だって分かんない。ラルナこそ、詳しいんじゃないの。酒場でいつも男の人とも仲良くしてるし、むしろ私といる時よりずっと楽しそうだし、それに魔王討伐隊には男の人もいたみたいだし……。いや、ダメだ。なんかそれは私が聞きたくない。知りたいようで知りたくない。ラルナだって昔の事はあんまり喋りたくないだろうし……。

「え、えっと……」

 どうする? なんて答える? 頭がぐるぐるして全然分かんない。えっとその……。

「……も、もうすこし大人になれば、分かるんじゃないかな?」

 すぐ傍でラルナが噴き出す声がした。うるさいっ!「……自分だって、まだ子供のくせに……!」。うるさいうるさいっ!

 私はラルナを引っ張ると、マリーに聞こえないように小声で叫んだ。

「だって、ほかに言い方ないでしょ!?」

「自分だって分かんないくせに……!」

 ラルナはお腹を押さえて忍び笑う。バカっ! バカっ!

「じゃあ、そういうラルナはどうなの!? ラルナだって……」

「わたしだって? ……なんだって?」

 薄い唇がにやりと歪んで、琥珀色の瞳が怪しく輝いた。どっち……? どっち……? ダメだ! 考えたくない!

「あー、もうバカっ!」

「あーはっはっはっは!!!」

 思わず叩き付けた私の拳をあやすように受け止めて、ラルナは逆にこっちにもたれ掛かってくる。私に殆ど抱き着きながら、ラルナは背中を揺らして大声で笑う。

 そんな私達を見てマリーは不思議そうな顔。

「あの……?」

「ねえ、マリーちゃん」

 不意に笑い声が止んだ。ラルナは私からゆっくり離れて、じっとマリーを見つめる。

「……エドがおかしくなったのって、つまりいつのこと?」

「え?」

 大きな目を丸くして、マリーは答えた。

「えっと……。おかしくなったのはずっと前からで……。だけど、急に変なこと言い出したのは1ヶ月前です。突然、『俺と街を出ないか』って言い出して……。冗談だと思って『お金はどうするの?』って言ったら、何か一人で変な顔で笑ってて……」

 1ヶ月……。はっと気付いた。

 エドがおばさんの所に“金貨”を持ち込んだのは1週間前。だけど、もしかしたら、それよりずっと前から、エドは“金貨”を……。

「あの場末の酒場にエドは3ヶ月前から出入りしてる」

 耳元でざわりとした声がして、あなたが大きな瞳を輝かせた。

「謎が一つ、解けたね。しょうもない、つまんない謎だけど――」

 不気味な笑みを浮かべると、あなたは独りごちるように言う。その時、嫌に軽薄な声が路地の向こうから響いてきた。

「やあ、マリー!」

 私が怪訝な目を向けるより先にマリーが「マルコおじさん!」と笑顔で手を挙げる。

 誰? と向けた目にマリーが答える。

「おばあさんの息子さんで、旦那様の弟さんです」

「つまり、ランドンの家の次男坊だね」

 曖昧な笑みでマリーの紹介を引き取ると、彼は鼻眼鏡の向こうのくすんだ瞳をこっちに向けた。

「こちらは? 冒険者? あ、エドの友達かな?」

「ええ、はい……」

「……あいつ、冒険者になりたいんだっけ? ……大人しく金細工師になっときゃいいのにな」

 妙に粘っこい視線に私は曖昧な笑みを返す。一瞬目が合うと、「で? どんな冒険をしてるんだい?」。どこか不気味な笑みに私は愛想笑いを返す。笑みと笑みが交錯し、やがて、マルコの方が視線を外した。浅く息を吐くと、壁の方に目を遣って、わざとらしく声を上げた。

「あっ、鍋を洗ってくれたんだね。マリー」

「はいっ! もうすぐエサタですからねっ!」

「悪いね。だけど、きっともう無理だろうな……」

「……そんなこと……。きっとお元気になりますよ」

「だといいんだけど……」

 励ますようなマリーの笑みを受けながら、マルコは台所に入っていく。すぐにパイプを咥えて戻ってくると、浅く息を吸い、階段の脇に腰掛けて、膝の上に本を開いた。びっしりと詰まった斜体文字は多分ベルナ語。何を読んでるんだろう?

「ねえ――。鍛冶屋さん?」

 不意にラルナが言った。

「え?」

 どうしたの? と横顔を見つめる。ラルナはもちろんこっちを見てくれない。琥珀色の双眸はただじっとマルコの手を見つめている。パイプを傾ける手の甲に刺青のように刻まれた赤黒い痣――。それを私が認めた瞬間、もうそれはマルコの左手に覆われていた。

「……あ、ああ……。そんなに立派な物じゃないけどね」

 マルコは痣を擦りながら笑う。

「うちは金物屋だからさ。……鋳掛をやったりね」

 ラルナは返事もしない。

 鼻眼鏡の向こうの灰色の瞳が気まずげに逸らされ、マルコは沈黙を嫌うように続けた。

「……鋳掛って分からないかな? ……鍋とかに空いた穴をさ、銅とか鉛で塞いで直すんだよ」

「ふーん……」

 自分で聞いたくせにラルナは興味なさげに顔を逸らした。しょうがないから、私が愛想笑いで取り繕う。

「大変なお仕事ですね!」

「……いやあ、そうでもないさ」

 謙遜というより自嘲げな笑みだった。だけど、その笑みの意味を読み取る前に、ぐいとラルナに手を引かれた。

「行くよ、ユーリ。おなか減っちゃった」

「あっ、ちょっと……。すいませんっ! マリーちゃん、また今度ねっ!」

 あなたに引っ張られて、私は慌てて歩いて行く。嫌に背中が気持ち悪くて、私は少し身震いした。

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