第3話


 世の中には、たくさんの人がいる。

 だから、ひとりぼっちになることなんて、なかなかできない。

 けれど、心が繋がった人は、後にも先にもキミしかいなかった。だから、キミを失った私の心は、ひとりぼっちだった。


 いつも通り、やらないと生きていけないことをする。

 それから、コンビニに寄って、おにぎりを買って、封を切る。

 しかし、雨が止み、傘をさしていない今、どうにも世間の目が気になった。

 真ん中にピーと一本の海苔の線が浮かんだおにぎりを、ビニール袋に入れ、ゆらゆらと揺らし歩く。

 夕闇は、一歩踏むごとに深くなる。

「ただいま」

 どうせ、幻の声しかしないと知っている。それでも、過去にすがるように、私は声を発する。


「よっ!」


「……は?」

 ありえない。こんなことは、ありえない。

 現状を、私の頭は理解できなかった。

 耳に届いた声の波。それが現実のものであると裏付けるように、ここにいて当たり前だという顔をして、ふんぞりかえるように椅子に腰掛け、呑気に手づかみでケーキを頬張るキミがいた。

「遅かったね」

「そう、かな」

「ごはん、たべた?」

「これから」

「そっか。どうする? 買いに行く? それとも頼んじゃう?」

 モグモグと美味しそうにケーキを食べ続ける、キミへと手を伸ばす。

 ずっと会いたかった。

 話したかった。

 触れたかった。

 ただいまのあと、おかえりではないキミらしい一言が返ってくることを、願っていた。

 やっと、キミに手が届く。

 

 まるでオセロでもしているみたいだ。いとも簡単に、希望は絶望へとくるりと顔を変えた。

 私の手は、キミの顔を貫いたのだ。

 ピカッの雷光が走る。数秒し、雷鳴が響いた。

 窓の外に、視線を移す。

 再び雷光が走ると同時、雷鳴が響く。

 家が揺れた。

 近い。

「大丈夫?」

 問いかけ、視線をキミへと戻した。

 けれどそこには、誰もいなかった。

 キミは忽然と消えていた。

 そんなはずはないと、ここにはキミがいたのだと、信じ諦められない私は、キミがいた場所に一雫の涙を落とした。


 ザーザーと、音がする。

 雨だ。また、雨が降り出した。

 うわーん、うわーんと泣くように、空は大粒の雫をいくつも落とす。

 空はいつ、カラカラに乾くのだろう。

 また、しばらくは私と共に泣いてくれるのだろうか。

 

 雨の中、私はあてもなく歩き続けた。

 涙を流しても、雨が誤魔化してくれる。

 声をあげても、雨がかき消してくれる。

 雨は、本当に、優しい。

「あぁ、なんて憂鬱なんだろう」

 苦笑しながら呟いた。言葉は雨音にかき消され、溶けていく。


 ザーザーザー。

 ピッピッピッ。


 肌にぬるい雫の感覚。

 瞼が私の指令を聞いてくれない。

 開くことができない闇の世界で、光を探してギィギィと眼球を動かす。

 肌に強い痛みが走る。

 抵抗しようとするも、私の腕は動かない。

 揺すられる。手を握りしめられて、ゆらゆらと揺すられている。

 ――ねぇ、いつまで寝てんの?

 キミの声がした。

 ――ほーら、はやく! おきて!

 暗闇の中で、キミが笑った。

 キミに会いたい。今すぐに会いたい。

 身体中の、仮死した神経に命令をする。

 動け、動けと強く言う。今すぐ動けと、泣いて叫ぶ。

 瞼が開いた。闇の向こうは眩しすぎて、誰がそこにいて、何がそこにあるのか、私にはよくわからなかった。

 誰かの声がする。

 誰かが泣いている。

 誰かが走り出した。

 誰かが私の腕を取り、何かをし始めた。

「よかった。あなただけでも、助かってくれて」

 瞬間、私の頭は、そうしろと命じたわけではないのに、勝手にパズルを始めた。

 雨が降り、太陽が顔を出し、そして再び雨が降った。

 最も鮮明な記憶が粉々になり、視覚がとらえた最も新しい過去がどんどんと鮮明な絵になっていく。

 ――あなただけでも。

 ああ、私が目覚めたこの世界にも、キミはいないのか。

 キミはいないけれど、私の周りにはたくさんの人がいる。

 私は決して、ひとりぼっちではない。


 目覚めの時を迎えたところで、どうして私を連れて行ってくれなかったのかと、嘆くことしかできなかった。

 どうして私が生きなければならないのか。

 どうしてキミが生き、私が死んだ世界ではいけなかったのか。

 答えの出ない問いを、延々と繰り返す。

 そして私は、問いを繰り返したことによって、長い夢が私に三つのことを教えてくれたことに気づく。

 ひとつは、雨が降る時には、空が私と共に泣いてくれているということ。

 ひとつは、私の心の中には、キミの幻が生き続けているということ。

 ひとつは、私は意識があろうとなかろうと、自分から死に、新たなる世界へと引っ越すことができない、小心者であるということ。

 それらのことを、私は心の奥底で理解していた。

 しかし、私には時間が必要だった。気づきを噛んで噛んで、どうにか飲み込んで、行動に落とし込むことを、私はすぐにはできなかった。

 これからわたしがひとりぼっちになれない世界で生きていくためには、なるほど長い夢を見なければならなかったのだと受け入れるまでには、多くの時間が必要だった。



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