第2話


 ――置いていかないで。一緒に連れて行ってよぅ……。


 キミがいなくなった瞬間、ポツポツと雨が降り出した。それはバケツに開いた小さな穴からゆっくりと落ちていく水の粒のようだった。

 雨は止まない。重さに耐えかねて、少しずつ大きくなっていく穴から、大量の水が降り落ちる。

 穴を塞ぐ手立てなんてない。バケツに注がれる水が絶えるまで、ただバケツにそっと触れて、そのさらに下へと落ちていくばかりだ。

 いつ、バケツは空になるのだろう。

 ずっと、ともに泣いてくれたらいいのに。


 ただいま、と言ったところで、何も返ってはこない家へ向かって歩き出す。

 ひとりになることがこんなに虚しいことだと心底理解していたら、私はキミと共に暮らそうと考えなかったのではないだろうか。

 いいや。だからこそ、共に暮らせる時間は共に居ようと、限りある時を大切に噛みしめたのだろうか。

 頭の中は、キミのことでいっぱいだ。


 家に帰ると、大皿に盛ったおかずをふたりでワイワイと取り合った残像に、胃を押しつぶされる。けれど、居心地が悪くなった家の外では、お腹が空く。

 そして、自ら死を選べない私は、飢えに勝つことができない。

 だから私は、コンビニに寄り道し、おにぎりを適当に選んで買い、それを齧りながら帰る。

 生きている価値を感じられていないからだろう。私が食物を摂取しているところを誰かにみられたら、嗤われる気がした。しかし、傘をさしていれば、こうして歩きながら食べたところで、誰かの視線に怯える必要がなくなるから助かる。

 もぐもぐと、何味かわからない米の塊を咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。

 傘から滴る水の粒をぼんやりと見つめる。心の湖面は、こうしてずーっとバケツに水が注がれ続ければいいと、モールス信号でも放つように波打つ。


 鍵を開け、玄関ドアを薄く開く。

 すっと体を滑り込ませると、カチャン、と優しく鍵をかける。

 真っ暗闇の中で、私は目を瞑り、大きく息を吸う。

 まだ、感じることができる。キミの残り香を、私の脳は確かに感じる。

 カチ、と明かりをつけると、キミと私の荷物が目に入った。

「ただいま」

 ――おかえり! ねぇねぇ、見てよ! こっち!

「今日は何を作ったの?」

 ――ナイショ!

 右の手をそっと差し出しながら、廊下を進む。

 カチ、とダイニングの明かりをつけると、オーブンレンジの扉を開けた。

 ――見て見て!

「なに、これ」

 こんなものを見せられて、微笑まずにいられる人がいるだろうか。こんなものを見せられて、今まで以上にキミのことが愛おしいと思わずにいられる人間がいるとしたら、私はその人と長話をしたい。

 私の偏見のコレクションの中に、その人の感性は存在しないから。そんな感性、私には理解不能で、だから知りたくもあり、矯正したいとも思ってしまうから。

 ――こう見えて、クッキーなんだよ。クッキー!

「この黒い塊が?」

 ――そう! なんかね、温度か時間か粉の量を間違えたみたいで。おっかしぃよね。

 入れっぱなしの冷めた天板をぐぃ、と引く。

 お腹を抱えて、目に涙を溜めているのだろう、ゲラゲラという笑い声が響く。

 ――これ、どうしたらいいと思う?

「水につけてふやかしてから洗う、とか?」

 ――それだ! そうしよう!

 まったく、手が焼けるなぁ……と笑みをこぼしながら私は、汚れのない、傷だらけの天板をシンクに置いた。


 タオルと下着、寝巻きを手にバスルームへ向かう。

 ガラリと扉を開けると、そこにはジーンズの裾を捲り上げて、ゴシゴシと掃除をしているキミがいた。

 ――あ、ごめん。今掃除してる! って、見ればわかるか! チャチャっと終わらせちゃうから、ちょっと待ってて。

 ドン、ガララン、ジャババババ――。

 騒がしい音が鳴り響く。

 お風呂が静かになった頃、キミの体はびしょびしょだった。


 家の内と外から、大量の水が降り落ちる音がする。

 私はカランに手を伸ばし、水をキュッと止めると、ベランダに出た。

 手を伸ばし、幻の空のカランをキュッと回す。私の意思では、壊れた空の水道を、どうにかすることなんてできない。

 そのことを確かめて、私はふっと、笑みをこぼす。

 優しい。空は優しい。

 私と共に、延々泣いてくれるのだから。

 雨粒の手は、そっと背中をさすってくれる。

 私は弱い。雨は強い。

 雨がこうして降り続いてくれるから、私はひとりぼっちの静けさに襲われることなく、今を無駄にできている。


 気づけばソファの上でうとうとと眠りに落ちていた。

 目覚めた時、ベッドへ行きそびれた、と刹那思い、そしてそれとは異なる違和感を覚えた。

 あ、あ、と声を出してみる。

 耳が聞こえなくなったわけではない。窓を見る。窓に近づき、外を見る。

 見間違いではない。

 今、空には太陽がある。私がひとりぼっちになった証が、そこにある。

 もう、空は共に泣いてくれない。

 もう、雨は背中をさすってくれない。

 それは、私がもう、今を無駄にできないほどに、過去から脱せたからだろうか。

 否、そんなことはない。

 私は今も、過去を生きている。



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