第81話

感情が昂って涙があふれる。泣くのが嫌で唇を噛んでそっぽを向けば、善くんは私を抱きしめようとした。私は拒絶して一歩下がる。



抱きしめないで。怒ってるんだから。善くんがいつまでも私の女の部分を認めないから、怒ってるんだから。


そんな意図を込めてそっぽを向き続けていると、善くんは不意にしゃがみ込んで項垂れた。ため息をついて、髪をぐしゃぐしゃと乱しながら、小さく掠れた低い声を聞かせる。



「……あー、かわいい、死にそう」



その体勢のまま私を見上げた。


その目は私の知っている目じゃなくて、息を呑んだ。



「めちゃくちゃにしたい」

「…、」

「──っつったら、怖い?」



私は思わず目を逸らしながら答えた。



「……こわくない」



善くんは多分「嘘つけ」と思っていることだろう。


そうだ。正しい。本当は怖気付いた。でも、決心を疑われているようで腹が立つし、そもそも、なんで善くんは余裕そうなんだ、と変なところにもむっとして、引くに引けない。



「こ、怖くないけど! 怖くても別にいい。怖いことも痛いことも、善くんにされるんだったら、いい」



私は善くんとだったら、梶くんとできなかったことをいくらでもできる。


その行為が怖くても、痛くても、例え傷つけられるのだとしても、そんなことはどうでもいい。善くんを好きになったときに覚悟したことだ。



めちゃくちゃってどんなことだろう、と尻込みしながらも、どんなに怖いことを前にしたって答えは変わらないから、服の裾を掴んで言い切った。


すると、善くんは右手を伸ばして、私のこわばりを解くような声音で言った。



「怖いことも痛いこともしねえよ」



善くんの手が指先に触れて、ぎゅっと包まれて、暖かくて、泣きたくないのに泣きたくなる。



「…いいよ。していいよ」

「絶対嫌」

「善くんにならいいよ」



涙が落ちた。


自由な方の腕を目元に押し付ける。



「簡単に言うなよ」



善くんは困ったように言うから、涙がまたひとつ押し出された。



「……それは、善くんが、他の女の子とのことばかり見てるからでしょ? 私が善くんと何をしたいと思ってて、実際に何て言ったかじゃなくて、他の女の子としてきたことだけを見てるからでしょ?」



善くんに触れたい。善くんに触れられると嬉しい。だから、善くんを受け入れられたら、きっとすごく幸せなんだろう。


そうやってお花畑の頭で思い描いた未来を、軽率に望んでいるのではない。



「私の“好き”なんか、上品な“好き”にしか聞くつもりがないんだ。そんなの、私が何を言ったって軽々しくしか聞こえないよ」



好きだよ。善くんが好き。


まだ知らない体の使い方を教えてほしい。違う人間として生まれたことに意味を持たせてほしい。私が善くんに抱いたのは、そういう欲望が混じった「好き」だ。



「善くんがしたくないことはしなくていいよ。でも、したいことを躊躇する理由にしないでよ。ちゃんと聞いて。私には善くんと同じ気持ちがあるよ。勝手に中身のないものにすり替えないで、ちゃんと聞いて」



体の繋がりを求める私も、私なのだと知って。



しばらく沈黙が続いた。涙が落ちる前に目をこする私の服が立てる音しか、2人の間には存在しなかった。泣きたくないのに止まらない。その焦りも大きくて、次に善くんが口を開いたときに、すっごく冷たい声だったらどうしようって、次第に沈黙が破られることが怖くなっていった。


だから、声を聞いただけで安堵した。



「──…そうだな」



善くんの声は冷たくもなければ、固くもなかった。



「いとも俺と同じだってわかりたくねえのかも。いとが進展することに前向きなのは俺のとは違うからだって、なんか、そう思い込んでる」



思考を整理しながら喋る様は、まるで自分を嘲っているように見える。



「矛盾してんだよ。いととしたいって思うけど、そういうこと自体はすっげえ汚ねえもんだと思ってる。汚ねえことはいととしたくない。いとにはしたくない。けど、どうなんだろ。いととだったら、汚ねえとも暴力っぽいとも思わねえのか? 全然わかんねえわ」



善くんは項垂れ、髪をぐしゃぐしゃと乱した。乱れた髪が葛藤を表して、葛藤が真摯さを表して、真摯さは、善くんの中にいる私がちっぽけでないことを表している。


引き寄せられるように、その場にしゃがみ込んだ。善くんは私と目を合わせ、その目を細めた。



「いと、ごめん。いとの気持ち蔑ろにして悪かった」



ううん。首を横に振って否定する。



「いとも俺としてえって思ってんだな?」

「うん」

「全部俺に許そうとしてくれてんの?」

「うん」

「旅行、楽しみだった?」

「うん」

「ああ、じゃあ一緒だわ」



善くんはどこか吹っ切れたように笑った。



「いとのこと大事にしてえんだけど、なんか全部にびびってて、全然うまくいかねえ」



私は思い出す。大事にしたい。善くんが向けてくれる言葉は一貫して変わらない。


情けなくて膝に顔を埋める。



「善くん、ごめん。大事にしてくれてるってわからなくなってた。困らせたかったんじゃないよ。でも、大事にしようとしてくれてるのに、何してもいいって言われても困るよね。ごめんね」



時間を巻き戻せたなら言わないことがたくさんある。情けなくて、格好悪くて、自分で自分を嫌悪して、濡れた目が許せなくて、腕で強く擦った。


善くんがそれを止めた。



「困ってねえよ。でも、いとを怖がらせんのも痛めつけんのも、俺はしたくない。いくらいとがいいっつっても、俺はそうせずに済むように考えていきたい」



善くんの親指が涙を拭って、優しい目で私を見つめた。



「──なあ、好きだよ」



そうすると、善くんが好きだという起点に戻って、やっと肩の力が抜ける。やっと不純物が出ていく。



「……善くん好き」

「うん」

「善くんが思ってる数倍好き」

「数倍?」

「数億倍!」



善くんが普通に笑うので、つられて私も笑う。


すると、善くんの目が私の顔に留まる。善くんは両手で私の頬を包んで尋ねた。



「仲直り?」



うんもううんも必要なかった。善くんはもう膝をついていて、重心を倒して、顔を寄せて、確かめるようにキスをした。





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