第80話

8割方現実逃避だった。


スマホは放り出して、筋トレはさぼって、ゆっくりお風呂に浸かった。1時間ほどして、お風呂から出て、丁寧にスキンケアをして、じっくり髪を乾かして、洗面所を出ると、ソファの上でスマホが鳴っている。



出ようか無視してしまおうか迷った。だって、善くんだったから。


でも、出ることにした。だって、善くんだったから。



「……もしもし」

『今家?』

「え、うん、もちろ、」

『鍵開けて』

「かぎ?」



精一杯声を低くして放った「もしもし」は、善くんにダメージを与えることもない。それどころか善くんが意味のわからないことを言うから、私の不機嫌は宙ぶらりんになる。



インターホンは真っ暗だったけれど、1階に住んでいないのだから、さすがにベランダの鍵を開けろということはないだろうと踏んで、玄関に向かった。


理解できないまま、鍵を右にまわす。がちゃっと音を立てて解錠されると、こっちから扉を押す前に引かれて、外気が入り込んできて、そこには善くんが立っていた。



「ど、うし…」



どうしたの?


言い終わる前に抱きしめられた。



「ぜんくん?」

「電話出ねえのはなしだろ」

「え、あ、ごめん、お風呂入ってた」

「うん、顔見てわかった」



善くんはため息をつく。


呆れた様子とは裏腹に強く強く抱きしめられている。善くんの服が冷たいことに気づけば、喧嘩をしたことは一瞬でどこかへ行って、背中に手をまわした。善くんはもっと強く抱きしめ返した。



「善くんいつからいたの?」

「10分くらい」

「オートロックどうしたの?」

「知らんおっさんと一緒に通った」

「インターホン鳴らした?」

「鳴らしてない。もう遅いし」



スマホで確認すると、もう23時半をまわっている。



「……電話に出ないから来てくれたの?」

「目離すとどっか行くの誰だよ」



ごめんね。あんなに言えなかった言葉が何の抵抗もなく口から出ていって、善くんは何も言わずに体重をかけてきた。



とりあえず中に入ってもらおう。今日は泊まってもらうとして、温かい飲み物を入れて、お風呂にも入ってもらって……。


頭の中で計画を立てながら、ひとまず鍵だけかけておこうと、善くんの腕から抜け出そうとすれば、善くんは私の行動を妨げて、私の顔を覗き込んだ。



「なあ、俺らなんで喧嘩してんの?」



善くんと目が合うと、それだけでもう、だめだった。


どきどきしながら準備してきたこととか、怖いけど楽しみにしてたこととか、なのに善くんと熱量が違ったこととか、それなのに電話に出ないだけでわざわざ会いにきてくれたこととか、その上にこうやって抱きしめてくれることとか、そういう全部がだめだった。



善くんの頬に両手で触れて、顔を寄せて、口付けて、離す。


身勝手に怒って迷惑をかけているというのに、恥もせず、気付いたら好き勝手してしまっていた。善くんの顔は見えず、俯く。



すると、善くんは、両手を繋いで肩に額を乗せた。



「……なあ、仲直りしよ」



弱っているみたいな発声が珍しくて、可愛くて、あれこれと棚上げして、もしかして庇護欲ってこういうことじゃないか、と考えた。



「ごめん、私が勝手に暴走しただけだから」

「何が嫌だったの?」

「……ううん」

「なに?」

「何も嫌じゃなかった」



善くんは顔を上げて、私の目をじっと見て、甘やかすみたいに私のこめかみにキスをした。



「それじゃ俺が来た意味ねえわ」



でも……だって、何を言えばいいの?


自分のことなのにうまく説明できない。自分のことなのに何が嫌だったのかわかっていない。時間が経てば経つほど、見えなくなっていく。



「……温泉行くの、嫌なのかと思った」



唯一わかっていることを口にする。



「俺が?」

「うん。なんか、、乗り気じゃないのかなって」

「そんなことねえけど」

「うん、そうかも。ただ、私がすっごく楽しみにしてたから、ずっとずっと、そのことばかり考えてたから、……考えすぎてたから、善くんとの温度差が、ちょっと、悲しかったんだと思う」



ほらね、くだらない。こんなこと言われたって、善くん、困るだけなのに。


善くんはこんな吐露を鼻で笑ったりしなかった。



「俺も考えてたよ、ずっと」



両手の指先を握りしめられ、善くんは猫のように首筋に頭をぐりぐりと押し付ける。



「こっちには下心もあんだよ。考えるに決まってる」

「し、下心なら私だって、」

「俺のはえげつねえ方な。いとの下心とは違う」



えげつない方の意味を考えて、眉をひそめる。


私を窺って、きっとその表情を拒絶や恐れだと解釈したんだろう、善くんは「ほらな」みたいな顔をする。あいにくと腹が立って眉根を寄せていた私は、分からず屋の胸を両手で押した。



「くびれ、作ってたのに?」



腹が立つ。


善くんがいつまでも、仲間に入れてくれないから。



「胸が大きくなるストレッチとか調べてたし、足がもう少し細くなるようにマッサージしてるし、なのに全然変わんないから何回か泣いたし、いい匂いがするボディクリーム探したりとか、いっぱい……」



私にはずっと縁がなかったから、女の子がずっと頑張ってきたことを頑張るのは、初めてだった。



「善くんをがっかりさせたくないから、善くんが触ってくれたとき、もっと好きになってほしいから、だから、いっぱいいろんなことしてたの」



何したって無駄かもしれないけど、でも、善くんが好きって言ってくれたから。



「私のだって、えげつない方の下心じゃないの?」



私も、善くんにとっての“女”になりたいから。



    

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