恋〈いとside〉
第79話
筋トレ。ストレッチ。マッサージ。ボディスクラブにボディクリーム。
年内に善くんと温泉旅行に行く、と思う。そのときに一緒に温泉に入る、、と思う。胸は急に大きくならないし、足は急に細くならないし、贅肉はきっと永久に贅肉のままなのだから、せめて、そう、せめて、少しでいいからくびれが欲しい。
善くんはたくさんスタイルのいい人を知っているに決まっている。善くんの彼女だけを例に挙げたって、みなさん、顔立ちが整っているばかりでなく、すらりとしていながら女性らしい体つきをしていたのだ。
言うなれば、善くんは「鰻」を飽くほど食べてきていると考えた方がいい。対して、私は、何を隠そう「ザリガニ」だ。胸も大してないし、形のよさとかわからないし、足は大根だし、肌だって柔らかくないかも。いわゆる「愛されボディ」とはかけ離れている自信しかない。
見せられる体ではないのに、どうして、温泉に一緒に入ると意気込んだのか、自分のことながらわからないけれど、遅かれ早かれ知られることなのだから、、、と、どうにか覚悟を決めようと、筋トレなんかに励んでは、鏡を見て落ち込む日々。
「善くんの視力が一時的に落ちたらいいのに…」
でも、きっとだめだ。
善くんはどうせ視力までいいんだろうから。
『──目? 俺、割と悪いけど』
電話で一か八か尋ねてみると、善くんは朗報を口にした。
「え、善くん悪いの?」
『悪すぎるわけじゃねえけど、仕事中とか運転中とか眼鏡かけてる』
「嘘だ」
『嘘じゃねえわ』
「え、本当に本当なの??」
『うん、本当に本当』
「え!!」
思わずソファにもたれかかってた体を起き上がらせた。
電話越しに善くんが笑う。
『なんで喜んでんの?』
「いや……だって、見たことないから」
『眼鏡? まあ、コンタクトもあるし』
「コンタクト……え、で、でも、お風呂ではコンタクトしないもんね?」
『まあ』
「だよね!!」
「だからなんで喜ぶんだよ」と善くんはおかしそうに繰り返す。
私はソファの背もたれに身体を戻して、上機嫌ににやける。
「前、温泉行く話してたでしょ? すっごく楽しみなのは本当なんだけど、体がね、見せるのもはばかれる状態から全然抜け出せないから、善くんにはぼんやりとしか見えなかったらいいのになって思ってたんだ」
「よかったー」と悪魔みたいなことを呟いて、はっと我に返った。人様の視力がよくないことを喜ぶなんて人の心がないのか、私は。
「いや、ご、ごめん、全然よくないのは重々承知なんだけど……」
返事はない。これはスタイルどうこう以前の問題でふられるのでは、と戦慄する。
恐れおののくことおよそ10秒。善くんはようやく口を開いた。
『──温泉な、』
ぼそっと呟くような低い声と、弾むことのない口調から、善くんはさして乗り気ではないことを悟る。
「(……あ、何だ、)」
張り切っていたのは私だけだったのか。
テキトーに交わした口約束を真に受けてしまったと恥ずかしくなって、同時に、初心者はそんなルールを知らない、と言い訳したい気持ちがあった。
『聞くの忘れてた。どこがいいとかあった?』
「……ない」
『希望は?』
「何にもない」
『…何怒ってんの?』
「え、お、怒ってないよ。善くんが楽しいところだったら、本当にどこでもいいから」
電話の向こうで善くんは息を吐いた。
善くん、疲れてるのかも。それなのに、私が嫌な言い方をしたから呆れたのかも。そもそも、今日電話をしたいと言ったのは私だ。電話する気分じゃなかったのに付き合ってくれたのかも。
一瞬のうちにいろんなことを考える。
ごめんねって謝って、今日は切るねって言って、早く電話を切って、そしたら──。
「……嫌なら嫌って言ってくれたらいいのに」
頭で組み立てた順序はちっともたどれなかった。
無意識に最悪最低な絡みをしてしまって、自分の声を聞いてから青ざめる。
「あ、ちが、、ごめ……」
慌てて謝ろうとすると、善くんは苛立ったように言った。
『嫌じゃねえよ、何も』
だから、その言い方がもう嫌そうじゃないですか。
簡単に点火する。
「……なんで怒るの?」
『は? 怒ってんのいとだろ?』
「なんで。怒ってないよ」
『じゃあ拗ねてんの?』
「拗ねてないよ!」
『拗ねてるだろ』
ぜっっったい善くんが先に不機嫌な声を出したのに、なんで私が先に悪い態度を取ったみたいに言われないといけないの?
一度腹が立てば、一度悲しくなれば、喧嘩なんかしたくないのに、嫌われたくないのに、引けない。全然可愛くなれない。
「……もう、温泉一緒に入らない」
こんな攻撃、善くんには微塵も効かなかった。
『それはいいよ』
温泉に一緒に入るから、裸になるから、裸を見られるから、善くんに呆れられないように、いっぱい筋トレしてるのに。ダイエットしてるのに。少しでも綺麗になるように肌のケアもしてるのに。
善くんに見せられるように、頑張ってたのに。
「──…もういい、」
ばいばい、と一方的に告げて、電話を切った。
もう善くんなんか知らない。
こんなくだらないことで拗ねない大人な女の人といればいい。今すぐにでも見せられる体をした綺麗な女の人に、鼻の下を伸ばしていればいい。
「……善くんの玄人、王様、モテ男」
クッションを抱きしめて、絶対嫌そうだった! と誰もいない部屋で反論する。
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