第76話
お店を出て駅に向かう途中、今日泊まっていかないかと誘ったのは私だった。
善くんと同じ電車に乗って、私の家の最寄駅で降りて、コンビニに寄って、コンビニを出て、家に着いて鍵を開けると、善くんに先に入ることを譲って、狭い玄関で善くんの背中に抱きついた。
「なに? どうした?」
善くんはお腹にまわった私の腕に触れる。
「……もうちょっとだめ?」
「いや、いいよ。けど中入らねえ?」
「できない。ずっと我慢してた」
「……あー、じゃあしょうがねえわ」
善くんは少し腰を曲げて仕事用の鞄を床に置くと、体を捻って私を正面から抱きしめた。
「こっちのがよくない?」
「……いい」
「なあ、どうした?」
「何でもない」
「すっげえ好きなだけ?」
「すっっっごく好きなだけ」
「じゃあこっち見て」
顔を上げれば、善くんは両手で頬を包み触れるだけのキスをする。そうして惜しむことなく離れていくから、追いかけてキスを返す。善くんはそれを受けながら笑った。
「……なんで笑うの?」
「くそ可愛いから」
腰を引き寄せられる。体の接着面積が増える。
「もう満足?」
善くんは、遊んでいるみたいな気軽さで尋ねる。挑発を錯覚させる表情に誘惑を思うのは、私が善くんをすっっっごく好きなだけではあるまい。
背伸びをした。善くんはやっぱり笑いながら、少し腰を屈めて、私のわがままに付き合ってくれた。
善くんに「話があって」と切り出したのは、もう寝ようかというころだった。
ソファに隣り合って座っていて、つけっぱなしのテレビは夜の報道番組を映し出していた。
「なに?」
「梶くんのことなんだけど」
「何?」
梶という名前を出しただけで、善くんは反射のように眉を寄せる。それが少しくすぐったくて、その何倍も後ろめたい。
後ろめたさをごまかすように、私はへらへらと笑った。
「あ、いや、梶くんのことじゃない。私のこと?」
「うん」
「あの、まあ、たいしたことじゃないんだけど」
「うん」
してないんだよね。
その告白は善くんには届かなかったかもしれない。だって、ニュースを読み上げるアナウンサーの声に負けるくらいの声しか出なかった。
「あの、してないの。その……梶くんと、、最後、まで…」
素肌を撫でられたくらい。上半身を見られたくらい。胸とスカートの中に触れられたくらい。キスもしていないし、その先の経験もない。
「あの、ごめんなさい、ほんとに。黙っててごめんなさい。善くんは梶くんに怒ってくれたけど、そもそも何もなくて……それなのにたくさん甘えて、本当にごめん」
本当に何もない。善くんが怒ってくれるようなことは一つもない。
「い、言い訳だけど、梶くんは、最後までしたみたいに言ってたから、わざわざ訂正する必要もないかって黙ってて……でも、善くんには言っておかないとと思って」
誰か、もしその先に一緒に進んでくれる人に出会えたら、きちんと伝えないとと思ってきた。それが善くんだなんてすごく贅沢で、少し悲しい。
だって、無性に、申し訳ないから。
「だから、ごめん、私、一から十までちゃんと知らないんだ」
善くんは何も言わない。
いや、何か言われるのを怖がって、矢継ぎ早に私が言葉を重ねてしまう。
「あ、もちろん、自分で調べたりはしてるよ? でも、未経験は手間がかかるみたいだし、リアクション? とか、暗黙の了解とか、全然わかってない」
あれ、この物言いでは、善くんにそういうことをしてくれと言っているのと同義では…?
そう気付いていて、慌てて否定しようとしたとき。
「知ってるよ」
善くんは、何食わぬ様子で言った。
「まあ、してねえんだろうなって思ってた」
「…え、」
「だから俺、梶のことこれくらいで許してんだし」
許してた…? あれで……?
善くんは考え込む私の髪を撫でた。
「でもいろいろされたんじゃねえの? 嫌なことはされなかった?」
「……何にも?」
「まあ、言いたくねえか」
「い、いや、本当に何も!」
ちょっと見られただけ。ちょっと触られただけ。
見たり触ったりした、そのうえ拒否された梶くんの方が不愉快になっただけで、私の方に問題はない。
「私、ファーストキスは善くんなんだよ?」
そんなことより私はこんなにも幸運なんだよ、と自慢するように胸を張って笑う。
善くんは私の肩をとんと押して。
「初めて抱くのも俺だよ」
クッションの上に倒れた私の顔の横に手を突いた。
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