第77話
仰ぎ見た景色に、私が昔を思い出してあれこれ考えて顔を背ける前に、善くんはリモコンで部屋の照明を落とした。報道番組を放映するテレビの明かりだけが、善くんを照らして、善くんの顔に影を作る。
「明るい?」
「……大丈夫、かも、」
「よかった」
善くんの顔が近付く。触れては離れ、触れては離れる、優しいキスだけが繰り返される。
脳裏に過去の景色を描いていた私は、裸にしようとしないところとか、不機嫌な顔をしていないところとか、安心させるみたいにキスをしてくれるところとか、ひとつずつ、過去との違いに目が向いて、今触れているのは善くんだと時間をかけて自覚する。
恋人と触れ合ったことを嬉しそうに報告していた友達は、みんな、こういう触れられ方をしてきたから一線を越えられたんだな、と知ってしまって、無意識のうちに手を伸ばし、善くんの首に抱きついていた。
「──…ねえ、好き」
ぎゅっと力を込める。
善くんの香りに包まれて、善くんの体温に暖められて、ただ幸せばかりを感じる。
まるで、俺もだと言われているみたいだった。善くんは額にキスをした。リップ音のなる短いキスは、こめかみに落ちて、頬に落ちて、首筋を辿っていった。くすぐったくて笑った。
でも、次第にくすぐったさが遠のいていった。
なぜか呼吸が下手になる。わざとそうしているわけじゃないのに、たまに声が出ていきそうになる。笑う余裕を失って、手の甲を口に押し当てる。
善くんは私を窺って、耳を撫でながら、反対側の耳に顔を寄せた。
「いと、力抜いて」
耳のすぐそばで聞かせられた、少し掠れたその声は、いつもの威力と比較にならない。どうしてか、低くお腹の方に響いて、思わず手のひらで耳を覆った。
善くんはおかしそうに笑う。
「何もしねえから力抜いて」
「…あ、しないの?」
「……しません。ゴムもねえし」
生々しい響きに黙れば、善くんは宥めるように私の髪を撫でた。
「いとが知ってんのはどこまで?」
「……どこ?」
「ちゃんとは知らねえっつってたから。何がどうなんのかわかんねえまますんの、怖いだろ」
「あ、でも、一通りは知ってるよ。詳細とかルールを知らないだけで、アダルトビデオも見たことあ…」
「あ? AV見た?」
「え、うん、勉強に……」
何を参考にしたのか、善くんにも確認してもらった方がいいのかと思い、パソコンを取りに行くために体を起こそうとすれば、肩を押して元に戻された。
「それ、多分、似て非なるもんだわ」
「え、」
「多分絶対そう」
「(多分絶対……)」
善くんの国語力の低下から、何やら余計なことを言ったことを悟る。
「あ、じゃあ違うの見るよ。何を見たらいい?」
「見なくていい」
「えっと、じゃあ、」
「俺と全部しよ。勉強から全部」
それから、善くんは、保健体育より細かに、けれどもおそらくはかなり大雑把に、手順を説明した。
善くんが「似て非なるもの」と言った理由を知ったのは、善くんが「私がこうなら」という前提を何度か挙げたからだった。「善くんがこうなったら」という条件は一度も出なかった。
善くんを喜ばせるためのものではないのかな、と思った。ただ、手を繋ぐとかキスをするみたいなスキンシップの延長線上にある、「触れたい」と地続きになった欲望を満たすものなのかな、と思った。
触れたかったから、善くんの首に手を伸ばした。
触れたいからと触れられる相手が善くんで幸せだと、強い実感を抱いた。
「上手にできない自信しかないよ。リアクションとか顔とか声とか、間違えるかも。ごめんね」
すると、善くんはとても簡単そうに言い切る。
「こっちはいと抱きてえだけだから」
何だか、その言葉を前にすれば怖いものはないのでは? と思い始める。
「善くん、好き」
際限なく募る感情を、とても安易な言葉に頼って言語化する。
「多分俺の方が好き」
「……多分絶対?」
「は、そう、多分絶対」
「触れたい」と地続きになった欲望が、この感情の近似値を取る言語なのかもしれない、と予感する。
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