第70話

目を逸らしたのは、後ろめたかったからだ。


外で好き勝手に発散して、いとといるときには癒しだけを得ていた昔の方が、いくらか健全で、いくらか大切にできていた気がする。



「……今日は、普通にデートに集中してたつもりだったんだけど、いとが心ここにあらずだったっつうなら、多分、」

「うん」

「……多分、変なこと考えてたせい」

「変なこと?」



頬杖をついて、ビールジョッキに触る。



「──早く抱きてえなって」



その瞬間、がやがやと賑わう店内からこの席だけが隔絶された。沈黙が落ちて、やらかしたことを悟る。口元を覆っていとを窺った。


いとは予想外に笑った。



「善くん、珍しい表情してる」



今度目を逸らしたのは、微塵も伝わっていないことを察したからだ。



「……普通に情けないんで」

「情けないの?」

「いとの前でだけ格好つけばいいのに、いとの前じゃ格好つかねえとか、情けねえだけだわ」

「……善くんはいつ何時もかっこいいけど?」



純粋な褒め言葉を前に、つい目を細める。



「あんま甘やかすなよ」



どうしたら大切にできるか。どうしたら一生手放さずにいられるか。大真面目に考えているはずなのに、誠心誠意向き合いたいはずなのに、たった一つの、夜を魅せる欲望に狂わされている。


傷付ける云々の前に愛想を尽かされたらどうする気なのか。今度こそアル中にでもなるつもりなのだろうか。



ジョッキをあけて、新たな生ビールを頼む。オーダーが済んで店員が去ると、いとはサラダを取り分けながら言った。



「でも、善くんは格好つかないくらいがちょうどいいかも」

「なんで?」

「私は可愛くないのに、善くんがこれ以上かっこよくなったら、どうしたらいいかわかんないよ」



当然のように自分を酷評して、痛みすら覚えない。平然と笑ういとに、腹立たしさだったり、悲しみだったり、脱力感だったりを抱くことはなかった。ただ無性に、こっちへ引き寄せたくなった。



唐揚げを口に放り込む。サラダを咀嚼するいとを眺めながら肉を腹へ落とす。いとといると腹が空く。それは食えば満ちるものではないと自覚しながら、もう1つ唐揚げを突っ込む。



「俺も、それ以上可愛くなられるとどうしたらいいかわかんねえわ」



いとの口上をそのまま返すと、いとは手のひらで口を覆い、声を立てて笑った。「真似しないでよー」なんて楽しんでいる。割と高い確率で、いとが笑うとこっちにも移る。俺も一緒になって笑った。


笑いながら、いとの目をじっと見つめた。



「俺のいと、あんまいじめんなよ」

「え?」

「俺のめちゃくちゃ可愛いいとに、可愛くないとか言わないでもらえますかー」



いとは困惑しながら、多分逃げようと目を泳がせて、どこにも落ち着く先がなかったのだろう、俺を見て笑ってみせた。


ぎこちない笑みは、移らない。



「善くんにしか言われないよ」

「他に誰に言われてえの?」

「……誰も浮かばない、けど」

「うん、俺もねえわ」



テーブルに置かれたいとの指先に手を伸ばす。


そのとき、生ビールが運ばれてきた。いとがびくっと肩を揺らして、慌てて手を引っ込めようとするから、逃さまいと握りしめた。



「生でーす」

「っす。そこ置いといてください」

「はーい。ごゆっくりー」

「どもー」



指を絡める。細い指を撫でる。右へ左へ泳がせる目が時々俺に触れる。いとの耳や首筋に赤みが広がっていく。変な欲が膨張しないようにと内側の誰かが警告する。不足感と充足感が混ざり合って、いっそ、何も知らないガキのころへ帰りたいと考える。



可愛いと思う。大事にしたいと思う。手放したくないと思う。触れたいと思う。足りないと思う。腹が空いたと思う。喉が渇いたと思う。失いたくないと思う。


恋愛感情の一言に背負わせるには荷が重い。その一言からはこぼれ落ちてしまう状態がいくつもある。



僅かな間の麻痺を求めて煙草を吸いたくなる。目の前に、触れられる位置にいとがいるというのに、好きでもなんでもない煙草を求めるのは、いとがいないから煙草を咥えていたころより、前進しているのか、後退しているのか。



「ぜんくん、、ちょっと、酔ってる?」



いとは照れをごまかすように目を合わせずに笑った。



「……酔わねえよ」



堪らず、絡めた指を撫でた。それじゃ足りなくて、項垂れる。



「なあ、いと、」

「なに?」

「俺が言葉省くたびに変換してほしいんだけど」

「う、うん、」

「俺が……」



そこで言葉を止めて、手招きをし、いとに顔を寄せるよう誘う。いとは素直に前のめりになって耳を貸した。俺も重心を前に倒して、いとの耳に口を寄せる。



「俺が抱きてえっつうのは、全部、いとな」



親指で頬をなぞって、熱を知る。耳から首筋にかけて赤く染まるから、喉が渇く。甘ったるい何かの香りがまとまりついて、煙草を吸いたくなる。一緒にいるだけでは枯渇して、でも、一緒にいるだけでどこかが満たされるから、俺の中はいつも混沌としている。



「なあ、何か言って?」

「……なにか、」

「は、小学生かよ」



いとから離れ、笑いながらジョッキを掴んだとき、蚊の鳴くような声が聞こえる。



「ぜんくん、」

「んー」

「今度……あ、あのブランドの服買って…ほしい……」



絞り出されたその声は想定外の言葉を紡いで、成す術なく視線を引っ張り戻された。



「ご、50年は絶対、大切に着るから!!」



不慣れなお願いを口にするいとは、簡単に不足感の方を大きくする。





[飢えた大食漢の煩悩]



   

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