第69話


「いとの服ほしいなって」

「私の?」

「俺んち泊まるときに着るもんねえだろ?」



ショッピングモールの地下へと下るエスカレーターで、いとは感心した様子で俺を見つめた。



「善くんってすごいなあ」

「なんで?」

「私は、花乃ちゃんが善くんのスウェットを買ってくれるまで、思い至らなかったから」

「それは全部花乃がおかしいから気にすんな」



いとが笑う。純度100%の笑みに夜を連想するのは、狂っている。


エスカレーターを降りてしばらくすると、いとが服を引っ張った。進行方向にある店と俺の顔を交互に見て、顔をこわばらせている。



「待って、お高いのはちょっと……嫌、かも…」



目指しているのが有名なルームウェアブランドだと気付いたらしい。


元カノは手放しに喜んでいたので、こんなところで拒否されるとは予想外で、「誕生日やクリスマスにはそれなりのブランド物をプレゼントすればいい」という経験則にまで一緒にメスを入れられた感覚があった。


でも、過去のそんな経験まで役立たないのは困る。そうなると、俺はいとに何をすればいいのか、本気でひとつもわからなくなってしまう。



「見るだけ見んのは? 気に入ったのあったら、それを買うかどうか、そんとき考えればよくない?」



幼馴染とは厄介だと、初めて思った。



「でも善くんは、プレゼントしてくれるつもりなんじゃないかなって。もし私が何か気に入るものがあったら、善くんは絶対に見抜くでしょ? 私が断ったってそれを買ってくれると思うんだよね」



俺がいとに対してそうしているように、いとにもいくつか言動を読まれていることを自覚する。女にはこう、みたいな、経験則から培った温度のない取説は、もう意味をなさないのかもしれない。


じゃあどうすればいい? と頭を抱えたくもあるが、クソだせえのは今さらでは? と開き直る自分が勝って、俺は白状することにした。



「合ってるよ。いとが何と言おうと、いとが気に入ったものを買うつもりでいた」

「じゃあやっぱりあのお店は見たくないな。お気に入りに出会うのは目に見えてるから」

「でも、俺の部屋用のいとの服はほしいんだけど」

「それはね、ほんっっっとに嬉しい。だから、お店を変えたい」

「いとが受け取れる値段があんのね」



でもさ、といとの顔を覗き込む。



「高いものは受け取れないっつうのは困るんだけど」



目を丸くしたいとをいじめるみたいに顔を近付けた。



「安物贈る気ねえよ?」



左手の薬指を撫でれば、いとは何かが内側で爆ぜたかのように耳を赤くして、俺の胸を割と本気で押した。



「そ、そんな話してない…!!」

「じゃあ雑談だよ。覚えといて」



胸を押している手を掴み、指を絡めて歩き出す。



いとが値段を気にするのならば、どうせ気に入ったかどうかではなく手頃かどうかで選ぶに決まっているので、今日は部屋着を選ばないことにした。代わりにインテリア雑貨を眺めてまわる。


手はずっと繋いでいた。恋人繋ぎは腰を抱くより心もとなくて、遠くて、物足りなくて、すっかり収まるいとの手の小ささに不安さえ覚えた。


マグカップを見た。皿や箸を見た。クッションやソファカバーを見た。日常に根を張り巡らすそれらをいとと見てまわることを、どうしようもなく特別だと思った。



単調な日常に、変わり映えしない景色に、特別な色をつけるいとこそ特別だ。癖みたいに繰り返す実感をどう表し、どう伝えればいいのかわからず、持て余す。出口を見失って、温度ばかりが高くなって、下腹部に溜まっていく。溜まったそれらが昼日中に夜の気配を帯びさせるのだと、わかっていて、発散できない。



好きって言ったって、可愛いって思ったって、好きって言われたって、不甲斐なさを許されたって、結局プラトニックなままじゃ、俺はいつまでも、頭の中でいとを汚して痛めつけるくだらないループの中で、不足感ばかりを募らせていくんだろう。



いとが笑いかける。指先だけが絡み合っている。それじゃ足んねえよって、喉が渇くばっかなんだよって、もしもそんな欲をぶつけたら、いとはどんな顔をするんだろう。


いとは傷付くのだろうか。



居酒屋でテーブルを挟んだ。顔をしかめながらビールを傾けるいとを見ていれば、力が抜けた。すると、いとは嬉しそうに言った。



「善くんやっと笑った」

「俺笑ってなかった?」

「笑ってたのは笑ってたけど、なんというか……心ここにあらずって感じだった」



簡単そうに言って、いとはお通しに箸をつける。


完全に無自覚だった俺は強い焦燥を覚えた。



「それはまじでごめんなさい」

「え、なんで?」

「デートで心ここにあらずとかねえだろ」

「そうなの?」

「そうだろ」



いとは「そっか」と納得いかないような顔で頷く。



「善くん的にはなしかもしれないけど、善くんがぼーっとしてるの、私は嫌じゃないよ。中学とか高校のときなんか、善くん、基本ぼーっとしてたし、そういうの見ると、今は無理してないなってほっとするんだよね」

「……常に無理してねえけど」

「どうかな。善くんは時に頑張るから」



いとはまたビールに手を伸ばす。顔をしかめながら、喉を動かしてビールを流し込んでしまう。


俺は肘をついて片手で頭を抱えた。



「自覚はなかったけど、昔俺がぼーっとしてたなら、普通にいとに癒されてたせいだと思う」

「癒されてたの?」

「そう。癒されるんだよ、いとといると」

「じゃあ今日も?」

「いや、今日は」



口にするかためらって、いとを上目に見る。


デート中の態度に気を悪くすることなく、いとはまっすぐに澄んだ目で俺を見つめ返してくる。



    

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